笑いの先の惑星
第二十四章 笑いの先の惑星
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インフルエンザ流行の兆しが見えてから、一週間。
アーク・レヴァナントでは、徹底した消毒と動線管理、隔離観察、区画ごとの接触制限が続いていた。
けれど、それは最初に皆が恐れたような“息の詰まる無言の時間”にはならなかった。
各部屋ごとのホログラム投影が、共同体の空気を細い糸のようにつなぎ止めていたからだ。
そして今や、その細い糸の中心にいるのは、双子姉妹でも爆笑家族でもなく、半ば公式マスコット化した鳥たちだった。
せきちゃん閣下。
せいちゃん姫。
さつまくん。
キリちゃん。
特に、さつまくんの片思いは、もはや船内全域の応援案件になっていた。
「今日も言うかな」
「言うやろ」
「いや今日はちょっと間を変えてくるかもしれん」
「でもどうせキリちゃん、ぷいっやろ」
そんな会話が、医療区画でも農業リングでも普通に交わされるようになっていた。
感染対策中の船で、鳥の恋愛事情がここまで重要視されるとは、誰も最初は思っていなかった。
だが、だからこそ必要だったのかもしれない。
重い現実の中で、人が本気でどうでもいいことに注目できる時間。
それが、共同体を人間のまま保つ。
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その日の夕方も、各部屋同時配信型のホログラムセッションが始まった。
多目的ホールを使った一斉集会はまだ制限されている。
けれど今はむしろ、この“ばらばらの部屋で同じものを観る”形式そのものが、船の新しい文化になりつつあった。
ホログラムが立ち上がる。
最初に現れたのは、いつものように妙に威厳だけはあるせきちゃん閣下だった。
「せきちゃん、かっこいい!」
その一声で、もう各部屋から笑いが漏れる。
閣下の自己評価の高さは、もはや様式美だ。
「はいはい、閣下今日も絶好調たい」
優子が横から言う。
光子がすかさず続ける。
「でも今日のメインは別におるっちゃろ?」
そう言われた瞬間、画面の端からさつまくんが、いつも以上にきりっとした顔で現れた。
その少し後ろに、相変わらず涼しい顔のキリちゃん。
そして、少し離れた位置にせいちゃん姫。
「さあ本日の議題!」
優子が声を張る。
「キリちゃんはどういうタイプが好きなのか!」
ホールどころか船内のあちこちで「おおー」と声が上がる。
もはや全員、そこに興味がある。
キリちゃんは少しだけ間を置いた。
その“間”が妙に上手くて、子どもたちはすでに笑いをこらえている。
それから、キリちゃんは静かに言った。
「私、ペラペラーズ嫌い」
その瞬間、各部屋で「えっ」と声が漏れた。
さつまくんの動きがぴたりと止まる。
せきちゃん閣下まで一瞬黙る。
キリちゃんはさらに続けた。
「私、静かなオカメインコがいい」
一拍、完全な静寂。
次の瞬間、子どもたちの顔が一斉ににやけた。
これは来る。
絶対に来る。
全員がそう思った顔だった。
さつまくんは、ものすごく真剣な顔で前に出る。
胸を張る。
一度目を閉じる。
まるで人生最大の決意を固めるように。
そして、きっぱりと言った。
「じゃあ僕は、しずかなペラペラーズ」
船内中の子どもたちがずっこけた。
本当に、物理的に。
サラはベッドの上で転がり、ミオはクッションに顔を埋めて笑い、ユイは「なんそれー!」と叫び、ハルトは膝を叩いて崩れ、レンは「意味わからん! 意味わからんけど面白すぎる!」と叫ぶ。
リクですら声を立てて笑い、コハルはスケッチブックに“しずかなペラペラーズ”と急いで書き足していた。
光子は、もう腹を抱えていた。
「待って待って待って、折衷案の出し方が雑すぎる!」
優子も涙目で叫ぶ。
「静かなのかペラペラなのか、どっちかにせり!」
そこへ、せいちゃん姫が横からちらっと閣下を見る。
閣下が一歩近づく。
せいちゃん。
ぷいっ。
また笑いが爆発する。
今度は、せきちゃん閣下が少しだけしょんぼりしたように見えたその瞬間、自分で自分を励ますようにまた鳴いた。
「せきちゃん、かっこいい!」
それでもう、船内は完全に崩壊だった。
いい意味で。
レイは自室投影でその様子を見ながら、笑いすぎて少し涙が出ていた。
こんなふうに、何の役にも立たない鳥のやり取りが、これほど多くの人間を同時に救うことがあるのか、と半ば本気で思った。
インフルエンザの火種はまだ完全には消えていない。
消毒は続いている。
発熱観察も継続中だ。
でも、この笑いの中にいる限り、この船はまだ息をしている。
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そして、その直後だった。
艦橋から緊急ではないが最優先の通知が入る。
レオニス系外縁到達。
最終ワープ準備、開始。
笑いの余韻が残る中で、その一文は異様なほどまっすぐ胸に落ちた。
朝倉レイは端末を見つめたまま、呼吸が少し浅くなるのを感じた。
ついに来たのだ。
獅子座方向1000光年。
太陽に似た恒星。
窒素75%、酸素23.5%、二酸化炭素0.5%。
ずっと数字として追ってきたその座標が、いよいよ目の前の現実へ変わろうとしている。
各部屋のホログラム配信も、その空気の変化をすぐに拾った。
優子が、少しだけ声のトーンを変える。
「……来たみたいやね」
光子も頷く。
「うん。
鳥ネタで腹よじらせとる場合やけど、それでも来る時は来るっちゃね」
子どもたちも、笑いながら少しずつ表情を引き締めていく。
ミオですら“何か大事なことが始まる”というのはわかったらしい。
久我颯人の全船放送が入った。
「アーク・レヴァナント乗員へ。
最終ワープ準備に入る。
全区画、固定確認。
目標はレオニス系最終進入座標。
この跳躍を越えれば、目的惑星の直接観測圏へ入る」
その言葉は、静かだった。
だが、船全体の心拍を変えるには十分だった。
“目的惑星の直接観測圏”。
つまり、ついに“数字”ではなく“姿”として見る地点まで来るということだ。
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艦橋は、これまでで最も静かな緊張に包まれていた。
高峰悠真は、最終ワープ座標を確認しながらも、いつものような細かな独り言を今日は言わない。
白石凛は記録端末を開いているが、手がほんの少しだけ固い。
久我颯人は前を向いたまま、呼吸だけが少し深い。
朝倉レイは航法卓に立っていた。
何度もやってきたワープ手順。
理屈はわかっている。
体も覚えている。
けれど今回は違った。
この先には、もう“次の中継点”ではなく、具体的な世界がある。
後方スクリーンには、ホログラムたちもまだ待機していた。
光子と優子。
爆笑家族。
インコ一家。
さつまくんとキリちゃん。
今日の船を笑わせた存在たちが、そのまま見守っている。
優子が、少しだけ真面目な顔で言った。
「レイさん」
「はい」
「最後の最後まで、深呼吸ば忘れんでね」
光子が続ける。
「惑星見えた瞬間に、感情だけ先に着陸したらいかんけん」
その言い方に、艦橋の何人かが小さく笑った。
でも、言っていることは本質だった。
感情だけ先に着陸するな。
つまり、感動に飲まれたまま判断を誤るな、ということだ。
どこまで行っても、この家族の言葉は優しさとツッコミが同時に来る。
レイは頷いた。
「はい。深呼吸します」
その返事で、自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
怖いのだ。
期待よりもまず、怖さがある。
もし観測通りでなかったら。
もし呼吸できなかったら。
もし生命圏が人類に敵対的だったら。
もし、もし、もし。
けれどその全部を超えて、進むしかない。
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カウントダウンが始まる。
十。
九。
八。
各区画、固定確認。
教育保護区画、完了。
医療区画、完了。
農業リング、完了。
機関区画、完了。
隔離観察室、完了。
ホログラム記録群、待機保存完了。
七。
六。
五。
レイは、一瞬だけ後方スクリーンを見た。
そこではさつまくんが、まだ少しだけ胸を張っている。
キリちゃんは相変わらず微妙に距離を取っている。
せきちゃん閣下は、当然のように堂々としている。
せいちゃん姫は、静かな顔でぷいっと横を向きかけている。
そんなくだらない光景が、いまこの最終ワープの直前にあることが、妙に救いだった。
この船はちゃんと人間の船だ。
大丈夫だ、と少しだけ思える。
四。
三。
高峰が、推進場形成率を読み上げる。
久我が承認する。
レイは、深呼吸した。
優子の言う通りに。
二。
一。
「最終ワープ、実行」
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空間が反転する。
これまで何度も経験したはずの感覚なのに、今回は違った。
時間が伸びる。
光がほどける。
星が形を失う。
船体の境界が曖昧になり、身体の内側だけが遅れて運ばれていくような、あの奇妙な感覚。
でも、そこにこれまでとは違う“終点の予感”が混ざっていた。
アーク・レヴァナントは、長い亡命の文を読み終えるように、最後の空間の継ぎ目を越えていく。
そして――
復帰。
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「……復帰成功」
高峰の声が最初に聞こえた。
「最終進入座標、到達」
だがその報告を最後まで聞く前に、艦橋の全員の視線は前面スクリーンへ吸い寄せられていた。
そこに、あった。
最初は、ただの光だった。
恒星。
太陽に似た、だがどこか少しだけ色温度の違う光。
その手前に、暗い円弧。
影。
それがゆっくりと姿勢補正の中で輪郭を持つ。
惑星。
誰も言葉を発しなかった。
レオニス系第三惑星。
地球型。
大気あり。
重力、ほぼ地球相当。
窒素75%、酸素23.5%、二酸化炭素0.5%。
計算と観測と希望が積み重なった先にあった、たった一つの世界。
その姿が、ついに見えていた。
青とも緑とも言い切れない。
まだ遠く、表層の細部は見えない。
だが確かに、雲の層らしきものがある。
光を返す大気がある。
暗い側と明るい側の境界に、惑星でしかありえない曲線がある。
朝倉レイは、自分の指先が震えているのを感じた。
隣で久我颯人も、ほんのわずかに息を呑んだ。
白石凛は目を見開いたまま固まっている。
高峰悠真は、涙なのか笑いなのかわからない顔でモニターを見ていた。
後方スクリーンでは、ホログラムの光子と優子も、さすがに今は何も言わなかった。
爆笑家族も、鳥たちも、静かにその星を見ている。
さつまくんですら、“キリちゃん大好き!”を言うのを忘れていた。
教育保護区画から通信が入る。
ミオの小さな声。
「……あれが、つく星?」
レイは喉がつまった。
でも答えた。
「うん」
自分の声が、自分でもわからないほど静かだった。
「うん。
あれが、目指してきた星だよ」
その言葉と同時に、ホールや各部屋から、小さな泣き声と、息を呑む音と、笑いに似た嗚咽が混じって聞こえてきた。
誰かが言う。
「ほんとに、あった」
別の誰かが「見える……」と呟く。
サラが泣きながら笑い、ハルトは言葉を失い、レンはただ「すげえ」と繰り返していた。
コハルはスケッチブックを開いたまま、しばらく一筆も描けなかった。
レイは観測窓を見つめた。
灰の故郷を遠くに置いて、
笑いと歌と隔離と鳥のボケを抱えた船が、
ついに新しい惑星の姿まで来た。
その瞬間、彼女ははっきり思った。
まだ着陸していない。
まだ何も始まっていない。
危険も未知も山ほどある。
それでも、ここまで来たのだと。
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その夜、朝倉レイは記録端末を開いた。
今日、キリちゃんは言った。
“私、ペラペラーズ嫌い。私、静かなオカメインコがいい”
そしてさつまくんは、真剣な顔でこう返した。
“じゃあ僕は、しずかなペラペラーズ”
子どもたちは全員ずっこけて笑った。
その笑いを抱えたまま、私たちは最終ワープに入った。
そしてワープが開けると、目指していた惑星の姿が見えた。
本当に、あった。
数字でも理論でもなく、雲をまとった一つの世界として。
灰の故郷を見送ってきた船が、ここまで来た。
笑いと歌と、助けを求める文化と、変な鳥たちまで全部連れて。
まだ何も終わっていないし、何も始まっていない。
でも、見えた。
それだけで今日は十分だと思う。
書き終えると、レイはそっと端末を閉じた。
窓の外には、まだ遠い惑星。
けれどもう、ただの座標ではない。
あれは、これから言葉を与え、歌を与え、笑いを与え、責任を渡していく世界だ。
そしてその最初の一歩の前に、船内のどこかで、またきっと誰かが言っている。
「さつまくん頑張れ!」
その声がある限り、この文明はまだ人間でいられる。
レイは、そう思った。
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第二十四章・終




