隔離の歌
第二十三章 隔離の歌
インフルエンザ流行の兆しが確認された翌朝、アーク・レヴァナントの空気は一変した。
昨日まで歌っていた同じ通路で、今日は消毒液の匂いが強くなる。
教育保護区画の出入口には簡易検温ゲートが増設され、医療区画の前には臨時隔離ラインが引かれた。
農業リングと機関区画の動線は分離され、配給方法も変更される。
共有手すり、スイッチ、配膳カート、記録端末、玩具、学習机。
触れるものすべてが順番に消毒されていく。
それは必要な措置だった。
閉ざされた生態系では、ほんのわずかな感染症が船全体の機能を崩しかねない。
医療資源は有限で、隔離スペースも限られている。
だから徹底しなければならない。
けれど同時に、その徹底は、船内の空気を再び“息を止めた社会”へ戻してしまう危険も孕んでいた。
朝倉レイは、消毒作業の手順確認を終えて通路を歩きながら、それを強く感じていた。
足音が響く。
人と人の距離は自然と広い。
会話も短い。
マスクと防護具越しの表情は読みにくい。
必要なことだけを言い、すぐ離れる。
感染対策としては完璧に近い。
だが、こういう空気が長引けば、また共同体の呼吸が浅くなる。
「止めないで済む方法を探す」
と、昨日レイは言った。
今日はその言葉の本当の重みが試される日だった。
橘沙月は、医療区画の臨時対策本部で、ほとんど休みなく指示を飛ばしていた。
「発熱者は小児二区画に集約。
同室接触者は分離観察。
成人軽症疑いは勤務停止、でも心理フォローは切らない。
消毒動線、もう一回見直して。
換気設定は高峰と詰める」
レイが入ると、沙月は顔を上げた。
目の下にはもう完全に寝不足の影がある。
「状況は?」
「まだ火種」
沙月は即答した。
「でも火種だから怖い。
本格流行する前に押さえ込めるかどうかの段階」
「歌のプログラムは」
「止めん」
沙月も即答した。
「ただし、対面一斉はしばらくなし。
各区画、各部屋、各端末単位に切り替える」
レイは少しだけ安心する。
止めない。
その方針が共有されていること自体、この船がもう以前とは違う証拠だった。
その時、高峰悠真が通信越しに割り込んできた。
「各部屋投影、いける」
「本当に?」
レイが聞く。
「簡易ホログラムだけど、個室・小部屋・隔離区画それぞれに分配できる。
全船一斉じゃなく、同期配信型。
遅延は少し出るけど、会話もある程度拾える」
沙月が、ようやく少しだけ笑った。
「じゃあ、離れてても一緒に笑えるわけね」
高峰が返す。
「できれば、だな。
せめて“孤独な隔離”にはしない」
その一言に、レイは胸の奥が少し温かくなった。
感染対策は、人を守るために人を離す。
でも離したままでは、別のものが死ぬ。
だから離れていても、つなぐ方法が必要だ。
その日の夕方には、船内のほぼすべての個室・共有小部屋・隔離区画に、小型ホログラム受信が行き渡った。
壁際の簡易投影面。
手のひらサイズの起動パネル。
最低限の双方向音声。
レオニス系航行のために設計された娯楽設備ではなかった。
本来は教育補助と記録閲覧のためのサブシステム。
だが今は、それが“隔離された人間を共同体から切り離さないための生命線”になる。
教育保護区画では、子どもたちが部屋ごとに分散された。
ミオとサラは別室。
ユイとハルトも距離を取る。
レンは「なんでやねん」と不満そうだったが、美咲にきっちり説明されて渋々納得した。
それでも顔には寂しさが出ていた。
そういう空気を見て、白石凛がぽつりと言った。
「今日は誰を前に出す?」
高峰が端末を見ながら答える。
「双子姉妹でもいいけど……今日はもっと、単純に笑わせる方がいい気がする」
その時、後方でせきちゃん閣下の記録波形がやけに高く点滅した。
いつもの自己主張だ。
レイは思わず言った。
「……今日は、鳥でいきましょうか」
凛が目を丸くする。
「鳥?」
レイは小さく笑った。
「せきちゃん閣下と、せいちゃん姫と、さつまくんとキリちゃん。
いまの船内には、たぶん理屈よりそっちが効く」
白石凛の顔が、少しだけほどけた。
「いいね。
隔離初日のメインMCが鳥って、だいぶ人類らしい」
夜。
船内一斉ではなく、各部屋同時配信型のホログラムセッションが始まる。
「こんばんはー!」
と、いつものように元気いっぱいに出てきたのは光子と優子だった。
だが今日は、二人が前へ出る前に、後方で妙な羽音と小競り合いが起きていた。
「ちょっと待って!」
優子が振り返る。
「今日の主役、もう揉めとるやん!」
そこへ、堂々と現れた。
せきちゃん閣下。
胸を張り、妙に誇らしげに歩く。
しかも今日は、頭の羽がいつも以上に立派に見える。
画面越しでも、あの「我こそが主役」という空気が伝わってくる。
すぐ横には、せいちゃん姫。
閣下より少しだけ落ち着いて見えるが、視線の切り方に絶妙なツンがある。
そして、その後ろからやや大げさに登場するのが、さつまくん。
さらに少し距離を置いて、ぷいっと横を向いているのがキリちゃん。
その布陣を見た瞬間、船内のあちこちで、まだ何も始まっていないのに笑いが起きた。
優子がマイク代わりのジェスチャーをする。
「さあ本日の特別企画、
“隔離でも元気に! インコ・オカメ大騒ぎスペシャル”です!」
光子がすぐかぶせる。
「タイトルが昼の地方番組っぽい!」
そこへ、満を持してせきちゃん閣下が一声。
「せきちゃん、かっこいい!」
そのタイミングが完璧すぎて、各部屋で一斉に笑いがはじけた。
ミオはベッドの上で転がる。
サラはクッションを抱えて笑う。
レンが「閣下、自己評価高すぎるやろ!」と突っ込み、ユイは「でも嫌いじゃない」と笑い、ハルトも肩を震わせていた。
そして真打ちは、さつまくんだった。
さつまくんは、キリちゃんのほうへ堂々と歩み寄り、胸を張って高らかに鳴く。
「キリちゃん大好き!」
一拍の間。
キリちゃんは、顔を横に向けて、
ぷいっ。
それだけ。
ホログラム空間が一瞬静まり、次の瞬間、全船のあちこちで爆笑が起きた。
「早い早い早い!」
優子が絶叫する。
「振るの早すぎやろ!」
光子も腹を抱える。
「告白から失恋まで二秒かかってなか!」
さつまくんは、しかしめげない。
もう一度、胸を張る。
「キリちゃん大好き!」
キリちゃん。
ぷいっ。
今度はさらに角度が鋭い。
子どもたちは、お腹を抱えて笑っていた。
ミオは「もっかい! もっかい!」と叫び、サラは「さつまくん頑張れ!」と本気で応援している。
レンは「絶対脈ないやろ!」と言いながら笑い、ユイは「いやでも応援したくなる」と言う。
ハルトまで「さつまくん負けるな!」と声を上げた。
そして、せきちゃん閣下が横から絶妙なタイミングで鳴く。
「せきちゃん、かっこいい!」
優子が即座に突っ込む。
「いや、今そこ関係ある!?」
その流れで、せいちゃん姫がちらっと閣下のほうを見る。
閣下が少し近づく。
せいちゃんが、
ぷいっ。
今度は船内の大人まで吹き出した。
光子が崩れ落ちそうになりながら言う。
「待って待って、閣下まで振られとるやん!」
優子が涙目で返す。
「今日の主役、全員わりと報われん側やないか!」
各部屋の小型ホログラム端末の前で、笑いが広がる。
隔離室でも。
個室でも。
観察ベッドの脇でも。
農業リングの休憩室でも。
子どもも大人も、“せきちゃん閣下”と呼びながら笑い、せいちゃんがぷいっとするたびにまた笑い、さつまくんが「キリちゃん大好き!」と叫ぶたびに「頑張れ!」と応援していた。
気づけば、船内でさつまくんは完全に人気者になっていた。
理由は単純だった。
あれだけまっすぐ好きを言って、毎回ぷいっと振られて、それでも懲りずにまた行く。
その様子が、なぜか今の船内にはものすごく必要な“愛すべき無駄な前向きさ”に見えたのだ。
朝倉レイは、自室投影でその様子を見ながら、久しぶりにお腹がよじれるほど笑っていた。
こんな状況で。
隔離中で。
感染症の兆しがあって。
それでも笑っている。
その事実が、妙に力強かった。
翌朝、船内の空気は少し違っていた。
隔離は続いている。
消毒は徹底されたまま。
接触制限も解除されていない。
でも、人々の口から自然に言葉が出る。
「昨日の閣下見た?」
「せいちゃん姫、ぷいっの角度が芸術やった」
「さつまくん、また振られたのに何であんな前向きなん」
「今日も頑張れって言いたい」
それはたぶん、ただのネタではなかった。
隔離で離されていても、同じものを見て、同じタイミングで笑っている。
その共有が、物理的な距離を少しだけ埋めていた。
高峰悠真が、感染動向の暫定ログを見ながら言う。
「今のところ、大規模拡大は抑えられてる」
沙月が頷く。
「火種のうちに隔離できた。
まだ安心はできないけど、最悪の立ち上がりは避けられそう」
レイは息をついた。
少しだけ。
まだ油断はできない。
でも、共同体の呼吸は止まっていない。
むしろ、離れたままでどうつながるかを一つ覚えたようにも見えた。
白石凛が、記録端末を閉じながら笑う。
「文明って、案外“みんな同じ鳥を見て笑ったことがある”みたいな記憶でつながるのかもね」
レイも笑った。
「それ、かなりあると思う」
その夜、朝倉レイは記録端末を開いた。
船内では徹底した消毒が行われ、感染拡大防止策が取られた。
人と人は離されたが、各部屋でホログラムを見られるようにし、孤立を作らない工夫をした。
今日は、せきちゃん閣下、せいちゃん姫、さつまくん、キリちゃんが主役だった。
せきちゃんは“閣下”と呼ばれて親しまれ、せいちゃんがぷいっとするたび、さつまくんが“キリちゃん大好き!”と言うたびに、みんな笑った。
さつまくん頑張れ、という声まで上がった。
離れていても、一緒に笑える。
そのことが、隔離された船内にとってどれほど大きいかを今日知った。
文明は接触だけで保たれるのではなく、共有された笑いでも保たれる。
そして歌もまた、止めない。
危機のたびに息を止めるのではなく、息をつなぎながら守る。
その道を、この船は選び始めている。
書き終えると、レイは窓の外を見た。
750光年の空。
“ゆりかご”。
“橋”。
“灯台”。
“ころんだペンギン”。
その全部が、いまやただの星ではなく、共同体の記憶だった。
そしてどこかの部屋で、またきっと誰かが笑っている。
「キリちゃん大好き!」
「ぷいっ」
「さつまくん頑張れ!」
その連鎖が、今日の船を守っていた。
第二十三章・終




