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1000光年の亡命  作者: リンダ


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宇宙の歌



第二十二章 宇宙の歌



最初に変わったのは、船内の呼吸だった。


朝倉レイは、それを文字通りの意味で感じていた。

歌の話が出てから数日、教育保護区画では子どもたちが自由時間の終わりに短い歌を口ずさむようになった。

「ジングルベル」の宇宙替え歌。

「赤鼻のトナカイ」の妙な節回し。

「きよしこの夜」の一節を、ミオがなぜかやたら大事そうに何度も歌う。


最初は子どもたちだけだった。

だがその声は、通路を抜け、食堂へ届き、医療区画へ滲み、農業リングへも伝わっていった。


すると不思議なことが起きた。


人の動きが、少しだけなめらかになる。

作業中の息が合う。

誰かが次の言葉を出す前に、もう一人が自然と受ける。

まるで歌のテンポが、そのまま共同体の脈へ染みていくみたいだった。


レイはある日、農業リングでそれをはっきり見た。

水耕ラックの調整作業で、三人が無言のまま動いている。

けれど、一人が低く歌い始めると、別の一人がその次の節を引き取り、最後の一人が笑いながらハモりそこねる。

作業は止まらない。

むしろ、歌い始めてからのほうが流れがいい。


その様子を見ていた農業区画の責任者が、少し照れたように言った。


「歌ってる時のほうが、みんな息止めんのよね」


レイはその言葉に頷いた。

歌うには、息を吐かなければならない。

息を吐くということは、身体の緊張を少し解くということだ。

ずっと気づかないうちに、人々は浅くしか呼吸していなかったのかもしれない。


歌は、感情の出口であると同時に、呼吸の再教育でもあった。



そのことを最も早く見抜いたのは、鷹宮美咲と橘沙月だった。


「歌、正式にプログラム化したいです」

美咲が言ったのは、定例会議の場だった。


「賛成」

沙月が即答する。

「医療的にも意味がある。

呼吸が整う。

発声は緊張緩和になる。

集団で歌うと孤立感も減る」


高峰悠真が眉を上げる。

「ここまで来ると、歌も生命維持設備の一部みたいだな」


「たぶんそう」

白石凛が静かに言う。

「笑いと同じで、文化って“なくても理論上は死なない”扱いされがちだけど、長距離では違うんだと思う」


久我颯人はしばらく黙っていたが、やがてレイへ視線を向けた。


「どう思う」


レイは少しだけ考えた。

それから正直に答える。


「必要です。

法律も、説明責任も、資源配分も必要です。

でも、それだけで船は保てない。

歌がない共同体って、呼吸を止めたまま生きようとするのと似てる気がします」


その言葉で、久我は頷いた。


「では、やろう。

教育プログラムの一部としてではなく、全船文化維持プログラムとして」


そうして、歌は“余暇”ではなく、船の正式な生存文化として位置づけられた。



歌のレッスンを誰がやるか。

その問いに対して、答えは自然に決まった。


ホログラム空間が立ち上がる。

いつものように光子と優子が現れる。

その後ろに、結音と灯乃も追加投影される。

二人は次世代の音楽感覚を持った存在として、記録群から極めて高い適合率で再構成された。


光子が前へ出る。


「はいはいはーい!

今日は“宇宙でも腹から声出していこう教室”です!」


優子がすぐ突っ込む。


「タイトルがダサすぎるし長すぎる!」


結音がちょっと呆れた顔で言う。

「もっと普通に“歌レッスン”でよくない?」


灯乃が肩をすくめる。

「いやでも、わかりやすさはある」


そこで子どもたちがもう笑い始める。

始まる前から空気が柔らかい。


「まずね」

結音が前へ出る。

「歌って、うまいとか下手とかの前に、“人と一緒に息をする”ことなんよ」


灯乃が続ける。

「せやけん、今日は音程より先に、呼吸と声出しからやる」


「おー、急に先生っぽい!」

光子が言うと、


優子がすかさず返す。

「いやあんたら、ほんとに先生役なんやけん、そこはちゃんとして!」


ここで子どもたちはもう、お腹を抱えて笑っていた。

サラは椅子からずり落ちそうになり、ミオは美咲の膝をばんばん叩いている。

レンが「ボケ多すぎやろ!」と叫び、ハルトが「ツッコミ足りん!」と乗る。

コハルは笑いながらもスケッチブックに“ボケ”“ツッコミ”の矢印を描き足していた。

リクは珍しく声を立てて笑っていた。


レイは後方で見ながら思った。

これだ。

歌のレッスンなのに、最初に起きているのは笑いだ。

でもその笑いで、呼吸が深くなる。

そのまま、声が出る。

理にかなっているのに、方法はむちゃくちゃ人間的だ。



レッスンは、想像以上に本格的で、でもとにかく騒がしかった。


「はい、じゃあ息吸ってー」

結音が言う。


全員が息を吸う。


「そこで肩上がっとる人ー、宇宙ナマコです」

灯乃がさらっと言う。


「ちょっと待って、いま急に悪口入ったよね!?」

優子が突っ込み、また笑いが起きる。


「笑って肩が下がったやろ?」

結音がにやっとする。

「それでよかと」


「計算しとる!」

ハルトが叫ぶ。


次は発声。

「あー」

「うー」

「おー」


ミオだけ妙に元気がよくて、ひとりだけ“おおおおおー!”と突き抜ける。

サラがそれにつられ、レンが笑って失敗し、ユイが「ちゃんとやり!」と言いながら自分も崩れる。


「はい、今のは“きれいな発声”やなくて、“だいぶ元気な山びこ”です」

灯乃が真顔で評価し、


光子がすかさず言う。

「でも元気は百点!」


「採点ガバガバ!」

優子が返し、子どもたちはまた笑う。


その笑いの合間に、自然と声が出る。

息が深くなる。

顔がほぐれる。

少し前まで、船内でこれほど無防備に大きな声が出る時間はほとんどなかった。


大人たちも見学だけでは済まなかった。

結音が後方を指さして言う。


「そこの大人も、やる」


沙月が目を丸くする。

「私?」


「はい、特に医療班。

ずっと人の呼吸ばっか見て、自分の呼吸忘れとるけん」


それがあまりにも図星で、沙月は一瞬言葉を失った。

その横で高峰が吹き出す。

しかし次の瞬間、灯乃が高峰も指す。


「そこの寝不足タヌキも」


「誰がタヌキだ」

高峰は抗議したが、もうホール中が笑っていて逃げられない。


久我颯人だけは後方で腕を組んでいたが、光子がすかさず見逃さなかった。


「船長さん、そこ“壁の一部”みたいな顔せんで!」


優子も続く。

「そういう人が一番、声出した時にえらい伸びるけん」


そこで久我がさすがに眉を寄せたが、子どもたちから「船長もやって!」「やってー!」と一斉に言われてしまう。


レイはその光景を見て、笑いながら胸が熱くなるのを感じた。

この船は、たしかに変わっている。



そして、その時だった。


医療区画の緊急通知が、レイの端末に短く震えた。


小児発熱2例。咽頭痛。隔離観察開始。


レイの笑顔が、ほんのわずかに止まる。


すぐに沙月の端末にも同じ通知が入る。

彼女は一瞬だけ顔色を変えたが、子どもたちの前では崩さなかった。


その後、さらに追加通知。


成人軽度発熱1例。倦怠感。家族接触歴あり。


レイは息を浅く吸った。

閉ざされた生態系。

限られた医療資源。

密接な共同生活。

少しの感染症が、この船では一気に命取りになる。


インフルエンザの流行兆候。


それは、核でも津波でも火山灰でもない。

だが、この船にとっては同じくらい現実的な脅威だった。


結音が、まだ笑いの残るホールの中で子どもたちに「じゃあ次は一緒に歌ってみよう」と言っている。

灯乃が音を取り、光子と優子がなぜか途中からボケたハーモニーを入れようとして優子が自分で自分に突っ込んでいる。

子どもたちは、笑いながら声を合わせ始めている。


その光景のすぐ横で、レイは医療通知を見つめていた。


人間らしさが戻り始めたその瞬間に、新しい危機が来る。

それもまた、いかにも生きている共同体らしい皮肉だった。


沙月がそっとレイの横へ来る。

笑顔は消えていた。


「……兆候あるね」


「はい」


「まだ確定じゃない。

でも、閉鎖環境でのインフルは最悪の部類」


レイはホールを見る。

子どもたちは歌い始めたところだ。

息を合わせ、声を重ね、笑いながら生きようとしている。

そのすぐ隣で、感染症の影が広がり始めている。


「止めますか」

レイが聞く。


沙月は数秒考えた。

それから首を横に振った。


「今日は止めない。

でも終わったら導線を分ける。

接触履歴を洗う。

隔離は必要になる」


その判断に、レイは少しだけ救われた。

何かが起きるたび、全部を止めるしかない共同体では長くもたない。

危機を見ながら、それでも今日の営みを続ける。

その難しさが、いまは必要だった。


ホログラム空間では、子どもたちの歌が始まっていた。

まだぎこちない。

でも確かに、さっきよりも声が出ている。


光子が嬉しそうに叫ぶ。

「よかよか! 声が生きとる!」


優子が続ける。

「その感じ!

歌って、うまさの前に“生きとる音”ば出すことやけんね!」


その言葉に、レイは目を閉じた。

まるで皮肉のようだと思った。

生きている音を取り戻し始めた時に、次の危機が来る。

でも、だからこそこの音を守らなければならない。



レッスン終了後、ホールは一気に通常の穏やかさへ戻された。


導線分離。

子どもたちの接触記録確認。

体温測定。

医療班の追加呼集。

教育保護区画と医療区画の一時的な往来制限準備。

高峰は換気系統の微調整に走り、凛は記録を一時中断して感染対策告知文の整備に入る。

久我は即座に臨時運用会議を招集した。


たった数十分前まで歌の練習をしていた空間が、今は感染症対策の最前線になる。

だが誰も、さっきの歌を“無駄だった”とは思わなかった。

むしろ逆だった。

こんな時だからこそ、あの時間が必要だったのだと、みんな薄々感じていた。


会議室で、久我が低く言う。


「閉鎖生態系におけるインフルエンザは、火種のうちに潰さなければ全船の脅威になる」


沙月が即座に頷く。

「まだ兆候です。

でも油断はできない。

少数例でも、ここでは医療資源と勤務体制に直撃します」


高峰が端末を見ながら言う。

「空調動線の一部変更は可能。

ただし農業リングと教育保護区画にしわ寄せが出る」


美咲が続ける。

「子どもたちへの伝え方も考えないと。

また全部止められる、って感じさせるのはよくない」


レイは、机の上で手を組んだ。

歌が必要だと実感した、その直後。

今度は感染症が、共同体の呼吸そのものを止めに来るかもしれない。


けれど、彼女の中にはもう一つ確信もあった。

この船は前とは違う。

助けを求める声が出る。

それに応じる人がいる。

笑いと歌の価値を知り始めた。

だからこそ、この危機も“ただ管理で押さえ込む”以外の形で乗り越えられるかもしれない。


「歌は止めません」

レイが言った。


全員が彼女を見る。


「集まり方は変える。

区画制限も必要です。

でも、歌そのものは止めない。

いま止めたら、この船はまた息を止めるほうへ戻る」


沙月は少しだけ目を細めた。

それから頷いた。

「わかった。

じゃあ医療側で“止めないための制限”を組みます」


久我も短く頷く。

「それでいこう」


その瞬間、レイはこの船が少しだけ成熟したと感じた。

危機が来たから全部止める、ではない。

危機を見たうえで、何を守りながら制限するかを選ぶ。

それは、ただ生き延びるだけの群れではなく、文化を持つ社会の判断だった。



その夜、朝倉レイは端末に書いた。


今日、クルーは歌がどれほど必要かを実感した。

息をそろえること。

声を外へ出すこと。

一緒に笑うこと。

それは余暇ではなく、共同体の呼吸そのものだった。

光子さんと優子さん、結音さんと灯乃さんのレッスンは、ボケとツッコミが炸裂して、子どもたちは“お腹が痛い”と笑った。

しかし同時に、インフルエンザ流行の兆しが見えた。

閉ざされた生態系では、ほんの少しの感染症が命取りになる。

それでも、歌は止めないことにした。

止めないための制限をかける。

危機のたびに息を止めるのではなく、息をつなぎながら守る。

それがこの船の選ぶ道であってほしい。


書き終えたあと、レイは観測窓を見た。


750光年の彼方の空。

“ゆりかご”。

“橋”。

“灯台”。

“ころんだペンギン”。

そのどれもが、ただの星の並びではなく、ここにいる人たちの呼吸の形に思えた。


そして彼女は知っている。

この呼吸は、守らなければすぐに止まる。

だからこそ、守る価値がある。



第二十二章・終


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