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1000光年の亡命  作者: リンダ


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灰の故郷、歌のはじまり



第二十一章 灰の故郷、歌のはじまり



地球は、もう誰の目にも灰の星として映っていた。


アーク・レヴァナントの観測窓に映るその姿は、もはや青い惑星ではない。

雲の白さは褐色と灰色に濁り、海と大陸の境界は鈍く曖昧になり、生命圏特有のやわらかな散乱光も消えつつある。

それでも朝倉レイは、観測ラウンジの端でその小さな点を見るたびに、心の中ではまだ地球と呼んでいた。

灰の故郷。

終わった星。

それでも故郷。


船内では、地球に対する語り方が少しずつ定着し始めていた。


“死んだ星”とは言わない。

“終わった場所”とも、なるべく言わない。

代わりに、白石凛が文化アーカイブに採用した表現は、こうだった。


「最後まで生命を手放さなかった星」


乗組員たちはまだ知らない。

その言葉が、予想以上に正確であることを。



地球の深海では、なお命が残っていた。


人類の文明圏は消えた。

地表の植物圏も沈黙した。

酸素循環は崩れ、二酸化炭素は火山由来の放出で増え続け、硫黄化合物は酸性粒子となって大気を侵し、地上と浅海の生命反応は平坦化した。


けれど、生命という現象はそれだけでは尽きなかった。


海底のさらに深く。

光の届かない熱水鉱床帯。

高温の鉱水が噴き出し、金属イオンと還元物質が満ちる領域。

そこでは、嫌気性細菌だけでなく、ごくわずかに、特殊なシアノバクテリアも生き延びていた。


それは、かつて地上で太陽光の下に繁栄したシアノバクテリアとは少し違う。

熱水鉱床由来の化学エネルギーと、微弱な熱放射環境を利用し、極限状態で代謝を維持する系統。

光合成という語で括るにはあまりに異質で、だが確かに、酸化還元を通じて地球の化学に小さな揺らぎを残す命だった。


アーク・レヴァナントの観測精度では、その存在まではまだ掴めない。

乗組員たちは、地球生命圏の最後の灯を、熱水鉱床の嫌気性細菌までしか知らない。

だが現実には、そのさらに向こうで、シアノバクテリアの系統がかすかにしぶとく生き延びている。


それは人類にとって何の慰めにもならない。

いまこの時代に、地球へ戻れるわけでもない。

けれど、惑星の歴史という尺度で見れば、その事実は決定的だった。


つまり地球は、完全な無機の墓標へ落ちたわけではない。

極小の生命の火種を残している。

そしてその火種は、もしこの先、何千年、何万年、あるいはそれ以上の時間をかけて環境が安定すれば、再び地球を生命に満ちた星へ変えていく可能性を持っていた。


人類はそれを知らない。

知らないまま、灰の故郷を見送っている。

その知らなさが、かえってこの章を静かにしていた。



アーク・レヴァナントでは、地球時間の換算カレンダーがまだ維持されていた。


物理的な意味はない。

船の中では、人工照明と船内時間が生活を決めている。

だが白石凛と教育保護区画の提案で、地球の季節や年中行事は“地球記憶暦”として残されていた。

それは懐古のためだけではない。

人類がどんなふうに一年を区切り、どんな日に集まり、何を祝ってきたかを、次の世代へ伝えるためだ。


その地球記憶暦で、12月24日が近づいていた。


「クリスマスイベント、やらん?」

最初に言い出したのはサラだった。


教育保護区画の自由時間。

“ゆりかご”の星図の下で、子どもたちが絵や読み書きをしていた時だった。

サラは妙に真面目な顔で言った。


「だってさ、地球ではたぶん、もう誰もクリスマスとかできんやろ」


その言葉に、部屋が少し静かになる。


ミオが首をかしげる。

「クリスマスって、ケーキ食べる日?」


ユイが半分笑いながら言う。

「いや、たぶんそれだけではなか」


レンが腕を組む。

「歌うやつやろ。

あと変な赤い服のじいさんが勝手に入ってくる」


「勝手に入ってきたら普通に怖いやろ!」

ハルトが突っ込んで、少しだけ笑いが起きる。


鷹宮美咲は、そのやり取りを見ながら胸の中で何かが温かくなるのを感じていた。

そうだ。

こういう“何のためか完全にはわからないけれど、やりたいからやる行事”こそ、文化の芯なのだ。


その日のうちに話は広がった。

教育保護区画だけでなく、観測ラウンジ、医療区画、農業リングにも伝わる。

やがて白石凛が正式に提案し、久我颯人が静かに許可を出した。


「やろう。

ただし、派手にではなく。

記憶をつなぐ行事として」


それで決まった。



クリスマスイベントの準備は、驚くほど自然に船内自治を回し始めた。


農業リングは保存可能な藻類糖とわずかな香料を使って、“それっぽい甘いもの”の試作を始めた。

医療区画はアレルギーと栄養バランスの確認を引き受ける。

機関区画では、廃材と予備光ファイバーを使って小さな発光飾りを作る者が現れた。

教育保護区画では、子どもたちが星図を使った“宇宙クリスマス飾り”を描き始める。


ホログラムの光子と優子も、この話を聞きつけてすぐ騒ぎ始めた。


「え、宇宙でクリスマスすると?」

光子が目を丸くする。

「サンタさん、経路計算めっちゃ大変やん!」


優子が即座に返す。

「そらレイさんに航路申請ば出すしかなかろうもん」


後方で聞いていたレイは、思わず笑った。

「サンタ航路管理はさすがに管轄外です」


「え、断ると?」

光子が大げさにショックを受ける。

「世界中の子どもが泣くばい!」


「いやもう世界中っていうか、今この船中心の話やろ!」

優子が突っ込み、周囲が笑う。


その笑いの中で、レイはふと気づいた。

ほんの数か月前まで、この船では“無駄なこと”をする余裕そのものがなかった。

今は、みんなが少しずつ自分から役を見つけて動いている。

クリスマスは、ただの行事ではなく、自治が文化へ変わる瞬間だった。



地球時間の12月24日。


中央多目的ホールは、船内にあるものだけで驚くほどやわらかい空間になっていた。

本物のもみの木はない。

雪もない。

キャンドルも、炎ではなく安全光。

けれど、発光ファイバーで作られた小さな光の枝と、子どもたちが描いた“ゆりかご”“橋”“灯台”“ころんだペンギン”の飾りが、どこか地球の冬を思わせた。


大人も子どもも集まる。

医療区画からは沙月が少し眠そうな顔で来ていたし、農業リングの面々は「甘いものが失敗しても怒らんで」と最初に予防線を張っていた。

久我颯人も、今回は後方ではなくきちんと座っている。

高峰は機材確認のあと、珍しく前のほうへ座った。

凛は記録端末を開きつつも、今日は“記録しながら参加する人”の顔をしていた。


ホログラム空間が立ち上がる。

光子と優子。

爆笑家族。

インコ一家。

さつまくんとキリちゃん。

その全員が、今日は妙にきらきらした飾りをつけていた。


「なんねそれ」

レンが指をさす。


優子が胸を張る。

「宇宙クリスマス仕様です」


光子が補足する。

「若干、飾りつけ担当にインコが混ざったけん、センスは保証せん!」


せきちゃん閣下がすかさず鳴く。

「せきちゃん、かっこいい!」


そこでもう笑いが起きた。


だが、今日の主役は子どもたちだった。


鷹宮美咲が前へ出る。


「今日は、地球時間の12月24日です。

昔の地球では、この時期に歌を歌ったり、あたたかいものを食べたり、大事な人のことを思ったりする日がありました。

この船でも、それを少しだけやってみようと思います」


子どもたちは、少し緊張しながら前へ並ぶ。

ミオはユイの袖を握っている。

サラはすでに口ずさんでいる。

ハルトは「間違ったら知らんけんね」と言いながら一番ちゃんと姿勢を正していた。

レンは少し照れていたが、逃げなかった。

リクは静かに立ち、コハルは歌詞カードの端に小さな星を描いていた。


最初の歌は、「ジングルベル」だった。


ぎこちない。

音程も少し揺れる。

でも、その揺れ方がかえって愛おしかった。

宇宙船の中で、地球の冬の歌が響く。

しかも子どもたちは途中から、自分たちで少しだけ歌詞を変え始めた。


「ジングルベル、ジングルベル、ワープがなる」

とサラが勝手に歌って、ユイが吹き出し、ハルトが「勝手に変えるな!」と囁く。

その声すら、歌の一部みたいに聞こえた。


次は「赤鼻のトナカイ」。

ミオが“まっかなおはなの〜”のところだけやたら元気で、そこだけホール中が少し明るくなった。

優子が横から小さく「そのトナカイ、酸素濃度高そうやね」と言って光子が肩を震わせる。


そして最後に、「きよしこの夜」。


この歌になった瞬間、空気が変わった。

ふざけた笑いではなく、静かなあたたかさがホールを包んだ。

子どもたちの声はまだ細い。

でも、その細さが逆に、この船のいまを表しているようだった。

完全ではない。

強くもない。

けれど、消えていない。


朝倉レイは、その歌を聞きながら、なぜだか胸が締めつけられた。

地球では、もう多くの場所でクリスマスどころではない。

いや、そもそも人が歌える場所自体がほとんど残っていないのかもしれない。

それでも今ここで、子どもたちは歌っている。

誰かに命じられたからではなく、歌いたいから。


それは、未来が生まれる時の音に近かった。



歌が終わったあと、しばらく拍手が続いた。

大きな拍手ではない。

でも、長かった。

途切れない拍手だった。


そのあと、ふいにミオが言った。


「もっと歌いたい」


その一言に、ホールが少し静まる。

でも驚きではない。

むしろ、誰かがやっと言った、という感じだった。


「私も」

サラがすぐ続く。


「宇宙の歌、作りたい」

コハルがスケッチブックを抱えたまま言う。


ハルトは少し照れながらも言った。

「……別に歌ってもよかけど」


レンが肩をすくめる。

「どうせなら、変なやつがいい」


ユイが笑う。

「ちゃんとしたやつもいるやろ」


リクが小さく言った。

「地球の歌だけじゃなくて、ここからの歌も」


その言葉に、朝倉レイは胸の奥が震えた。

ここからの歌。

そうか、と彼女は思った。

新しい星図に名前をつけたように、新しい歌も必要なのだ。

地球の記憶を忘れずに、でも地球の歌を繰り返すだけではなく、

この船の時間、この空、この距離、この共同体からしか生まれない歌。


それは、文明が本当に次へ進み始める徴候かもしれなかった。


鷹宮美咲が、目を潤ませながら笑う。


「じゃあ、歌おうか。

地球の歌も。

ここからの歌も」


ホログラムの優子が、すぐに両手を挙げた。


「はいはいはい!

うちら、作詞の時だけ急に真面目になるタイプやけん任せて!」


光子がかぶせる。

「いや、任せたら絶対どこかでインコ入るやろ!」


せきちゃん閣下が、待ってましたとばかりに鳴く。


「せきちゃん、かっこいい!」


その瞬間、ホールがまた笑いに包まれた。

そしてレイは、その笑いの中で確信した。


この船は、ただ記録を運んでいるのではない。

新しい歌を生み始めている。



その夜、朝倉レイは記録端末を開いた。


今日、地球時間の12月24日を迎え、船内でクリスマスイベントを行った。

子どもたちはジングルベル、赤鼻のトナカイ、きよしこの夜を歌った。

そしてそのあと、“もっと歌いたい”と言った。

地球の歌だけではなく、ここからの歌も。

一方で地球では、乗組員の誰も知らない深海のどこかで、シアノバクテリアがわずかに生き延びている。

熱水鉱床に支えられたその小さな命は、遥かな未来に地球が再び生命に満ちた星になる可能性を残している。

私たちはそれを知らない。

だからいまの私たちにとって地球は灰の故郷のままだ。

それでも、この船の中では歌が始まった。

たぶん文明は、空に名前をつけることと、歌を歌い始めることで、本当に前へ進むのだと思う。


書き終えると、レイは観測窓を見た。


750光年先の空。

“ゆりかご”がある。

“橋”がある。

“灯台”がある。

“ころんだペンギン”がある。

そして、まだ名前のない星の並びがいくつも待っている。


そのどこかに、まだ歌になっていない未来がある。

アーク・レヴァナントは、その歌を連れて進んでいく。



第二十一章・終



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