第十三章 「交戦距離二百七十空浬 後編」
編隊は複数の群に別れ、それらは互いにかなりの距離を置いて蒼空を進んでいた。
それは決して深遠な作戦とか、熟慮とかの産物ではなかった。最初は巨大な攻撃機や戦闘機の一群であったはずの攻撃編隊は、時が経つにつれその連携を風化させ、今では複数の中小編隊の、距離を置いて飛ぶ寄せ集めにも似た集団となっていた。編隊はもはやその用を為していなかった。出撃当初の連携と量感はすでに失われ、それらはもはや広大な雲海の各所に散らばる点の連なりでしかなかった。
「何てことだ……」
ラジアネス軍 第001任務部隊所属 第一次攻撃隊総隊長 クゼルスキー中佐は、攻撃編隊――それがもはや編隊と呼べるかどうかは別として――の先頭をゆくBDウイング艦上攻撃機/偵察機の操縦席から臨む惨状に、ただ愕然とするしかなかった。だがこうなることは、最初から判りきっていた。彼らに与えられた訓練の時間は短く、そして敵の動きは彼らに錬成の余裕を与えない程早かったのだ。
機材の性能差、乗員の練度――その何れをとってもわが軍がレムリアンに対し著しい劣位にあることは、この光景を目の当たりにするだけでも明らかだが、それでも近い将来に決する勝ち負けは別として、攻撃への強い意思のみが、辛うじて彼らに拮抗していることだけは中佐は疑ってはいなかった――かならずやレムリアンの艦隊を探し出し、一矢でも報いてみせる……!
『――編隊長……!』
インカムに叫んだのは、クゼルスキー機の後席員 デイトン少尉だ。「どうした?」と聞き返すまでもなく、デイトンはその視界の隅に認めた光景に、思わず我が目を疑った。
「敵……?」
視界の先、城郭の如き層雲の幾多も聳える二時方向――明灰色の層雲をバックに、数え切れないほど複数の輝点が蠢いているのを中佐は見た。
「…………!」
それは明らかな銀翼の煌き! 彼我の距離は十分にあったが、空に点在する数の醸し出す圧倒的な量感が中佐を戦慄させる。これほど整然とした雁行編隊が味方のものである筈がない。レムリアンの攻撃隊だと、その瞬間彼は直感した。そしてレムリアンの攻撃隊はこちらの攻撃隊に目もくれず、こちらとは全くの逆方向へと突き進んでいる。おそらくは、こちらの母艦の方向に――
『――二中隊、追うな、無駄だ!』
という混信。護衛戦闘機隊の指揮官ハットン大尉が、攻撃隊に接近を図ろうとした配下の戦闘機隊を呼び戻す声だと直感する。追いつけるわけがないのに馬鹿なことをする。これでまた、編隊の連携は乱された。やはり経験の拙さが、彼らを軽挙に走らせるのだ。
同時に、操縦桿を握る手に汗が宿るのを感じる。こちらの偵察機が敵艦隊を発見したのと機を同じくして、こちらも向こうの偵察機に発見された。もし攻撃隊の発進が同時に行われたとすれば、その相対速度からして我々は攻撃への行程のほぼ半分を消化したことになる。
敵は近い。その思いを、緊張とともに噛み締めている中佐がいた。
「…………」
こちらの来た途を辿るように進撃していく敵の攻撃隊を、タイン‐ドレッドソンは愛機の操縦席から特別な感慨とともに見詰めていた。思いも寄らない光景であった――互いの攻撃編隊が、空域の一点で擦れ違う形になるとは。
『――追いますか?』
と、傍に主翼を寄せたグーナが、タインに聞いた。
「いや……今から行っても追いつかん。燃料の無駄だ」
タインとて、グーナが本気で追撃を具申しているわけではないことぐらい知っている。彼はただ、タインと機上で話す切欠を作りたかっただけなのだ。それはタインにとっても願ったり叶ったりの好機だった。真意は、発艦間際に胸に秘めていた「策謀」――
『――グーナ!』
強い口調でタインに突然呼びかけられ、グーナは思わず隣接するタイン機のコックピットを覗き込んだ。呼びかけられると同時に切断された回線に、グーナは全てを察したように口元を悪戯っぽく歪ませる。
グーナ機が機体を寄せ、コックピットから互いの状態が確認できる距離になるのを見計らい、タインは片手を上げた。流れるような指先の動きでサインを送ると、グーナもまた同じような手付きでサインを送り返してくる――声を伴わない会話は一分も満たない時間で終わり、次の瞬間には二機は何事もなかったかのように銀翼を連ね平然と戦闘機隊の先頭を飛んでいた。彼らの間で交わされた重大な会話を知る術もなく、攻撃隊全機の通信回線を、程無くして一つの命令が駆け巡る。
『――攻撃総隊長より全機へ。敵艦隊は近い。警戒を怠るな』
「アイアイサー……」
おどけた口調でタインは応じ、主翼を振った。それは接敵に備えて列機の間隔を開かせる合図だった。編隊の維持に混乱を生じさせることなく態勢を変換した彼らの眼前に、巨大なテーブルかと思わせる程茸状に発達した層雲が聳え立っていた。それが、タインの表情をやや曇らせた。
「邪魔だな……あれ」
接敵――かなりの高度差を置き、二層に分かれた雲の僅かな隙間の只中から姿を覗かせた複数の艦影を見下ろした瞬間、クゼルスキー中佐の腹は決まった。
『――編隊長より各機へ、全機突撃態勢を取れ!』
敵艦隊に向かう第001任務部隊 第一次攻撃隊。その数は七十機……のはずが、攻撃隊長の駆るBDウイングの後に付き従うのは、わずか十七機のBDウイングと七機のジーファイターのみになっていた。上昇と変針を繰り返す内に大編隊は分断され、敵艦隊を発見したとき、彼の背後にはもはやこれだけしか残されていなかったのである――結果的には、それがラジアネス軍に幸運をもたらすことになるのだが……
『――直上方!……敵機!』
デイトン少尉の絶叫に近い報告など、操縦桿を握り突撃に専念する中佐にはどうでもよくなっていた。敵艦隊へ向かい緩降下に入る攻撃隊。一方では一斉に増槽を落としたジーファイターが上昇し、上方より襲い掛かるレムリア軍戦闘機との間に割って入る針路を取った。ジーファイター隊の身体を張った援護を受け、機首を下げさらに加速をつけたBDウイング隊は眼下で扇状に展開する四隻のレムリア艦へと突っ込んでいく。だがレムリア艦隊の前衛たる四隻は彼らの真に狙うべき目標ではなかった。
「隊長機より各機へ、そのまま突っ切れ! 空母はあのずっと奥にいる!」
初めて目の当たりにした敵に、恐慌にも似た感情の乱れに身を委ねながらも、クゼルスキー中佐は目標を探し出し、選び出すだけの冷静さをどうにか保っていた。彼とその部下にとって、巨大な甲殻類のような形状をしているという大型空母こそが、今回作戦の第一目標であるはずだった。
雲海の銀を背景に、黒い影となった敵艦の各所がチカチカと煌き始める。敵艦が発砲を始めたのだと中佐は直感する。それらから投掛けられた散発的な光の粒が、次の瞬間には圧倒的なまでの弾幕の壁となって攻撃隊の眼前に立ちはだかった。攻撃隊の大半が、このとき生まれて初めて敵艦に撃たれるという経験をしたことになる。
――彼らのその後の運命は、まさに彼等自身の決断の上に委ねられた……!
戦艦一隻、巡洋艦三隻より成る前衛艦隊が発砲を開始したのだ。特に長大なフォルムの戦艦にいたっては主砲まで撃ち、砲弾の炸裂の度、時限信管の作動による真白い枝垂れが冷たい蒼空に幾重にも咲いた。主砲弾そのものは攻撃隊の突進に対し何等障害にならなかったが、巡洋艦の主砲や高射砲の断続的な炸裂に数機のBDウイングが絡め獲られ、機体より黒煙を吐き出した。
「…………!」
一機のBDウイングが高射砲の炸裂に尾翼をもぎ取られ、突風に煽られた落穂のような軌道を描き雲海へと降下していくのをクゼルスキー中佐は見た。機体に描かれた所属符号から、「クロイツェル‐ガダラ」所属の飛行隊であることがわかった。炸裂はそれぐらいの近距離で生じ、襲撃者たちの翼を奪って行くのだった。
当の中佐の機もまた、忽ち至近弾の吐き出す衝撃波と破片に煽られ、不快に振動する。何時已むとも知れぬ爆風と弾幕の渦巻く中で、ともすれば腹に抱えている空雷を投棄しいち早く母艦へと逃げ帰りたくなる衝動に、機を操る中佐は必死で耐えていた。対空砲火に晒されながらも敵艦の識別記号や紋章のはっきりと見える距離を攻撃機は掠め飛ぶ。その間も彼の機に続行する一機が、対空機銃の直撃を受け破片を撒き散らしながら脱落していく。
『――敵警戒線通過!』
報告直後の静寂――デイトン少尉の報告に安堵を覚える物理的、精神的余裕など、中佐にはもはや残されてはいなかった。それでも彼は、自分の機を不意に襲った静寂が、一瞬の間でしかないことを知っていた。飛び込んだ先は、敵艦隊の陣形の中に広がっていた対空火網の空白域。だが、安堵を覚えた直後に、自分はさらに強力な敵艦隊の本陣を眼前に見出すことになるだろう。
『――六時方向! 敵機!』
不意に背後よりカタカタと響き渡る射撃音。デイトン少尉が連装機銃に取り付き、追尾してくる敵直援機に対し応戦を始めたのだ。後背を占めた敵戦闘機の放つ、背中を追い越すようにして前方へ飛んでいく機銃弾の束に仰け反りながらも、中佐は必死で乗機を滑らせ射弾回避に取り掛かっていた。だが空雷を積み鈍重な攻撃機では、俊敏な戦闘機の追撃など回避するべくもない。ジーファイターの防御線を突破し追い縋ってきた数機の敵戦闘機に捕まり、たちまち三機が叩き墜とされる。そして直援の戦闘機は攻撃隊の向かうべき前方からも急速に、かつ驚くべき数を以て迫り、波状に攻撃をかけてきた。
敵情資料で散々目にした機影。ゼーベ‐ギガ、ゼーベ‐ラナの混成編隊が複数。それらは高度と速度の優位を生かし攻撃編隊に向かう。BDウイング群は編隊を崩さず、ただ後席銃架が目まぐるしく動いては弾幕を張り、赤い狼の群を近付けまいと足掻く。
「――――!?」
編隊を過っては銃撃を掛けてくる敵編隊の中、見馴れない機影が混じるのに気付き、クゼルスキー中佐は思わず目を剥いた。二機編隊で銃撃しつつ降下、一転し編隊の直上に向かうそいつに向かい、銃架を廻らせたデイトン少尉が追い打ちの機銃を撃つ。樽の様な胴体の前後にプロペラを付けた双胴の機影が、呆れる様な加速で上昇し、反転から再びBDウイングに突っ込んでくる――
「避けろっ!」
一機のBDウイングが異形の敵機と交差した直後、片翼が吹き飛び、均衡を奪われたBDウイングは錐揉みに陥り急降下していった。レムリアンの新鋭機!?――時間にして僅か一瞬の惨劇を目の当たりにした直後、軍人としての義務感のみに辛うじて支えられていた中佐の精神の地平は瞬時に崩壊し、それを周囲の目から誤魔化すかのように中佐は絶叫した。
「あのフネをやるぞ!」
鬼気迫る形相で睨んだ雷撃照準機の只中に映し出された鋭角的な艦影――それは目指すべき敵空母ではなく主力前衛に位置する巡航艦だった。主砲と機銃より放たれる弾幕の奔流は決して他の艦に見劣りするものではなく、ほぼ単独で艦の側面に突っ込む形となったクゼルスキー中佐の眼前に、瞬時の内に弾幕の壁を形成してしまう。それでも前から後ろへと流れ行く大小の光弾の連なりを、中佐はもはや怖いと思ってはいなかった。
「雷撃コースに入った。安全装置解除!」
サイドパネルのトグルスイッチを入れる。胴体下に抱いた空雷の信管と姿勢制御装置が起動し、投下可能状態を示すランプが灯るまでに、優に五秒間の時間が必要であった。その間雷撃照準機に入った艦影はさらに大きくなり、艦影を彩る対空砲火の瞬きは、明らかにこちらに指向されている。
「距離1000!……800!……500!」
こと雷撃に関する限り、BDウイングでは機長の腕と判断に全てが任せられることになる。迫り来る艦影、ラジアネス軍のそれとは似ても似つかない巨大な怪鳥のごとき艦容――敵意丸出しの眼差しで中佐はそれを睨みつけ、フットバーを踏み込み針路を修正する。
操縦桿の空雷投下ボタンに、親指が触れた。一度それを押すや、空雷は機体より解き放たれてエンジンに点火し、敵艦へとまっしぐらに向かっていく。だが中佐が、最適の状態でそれを押すことが出来るかどうかは絶望的な状況だった。
「……400! 投下!」
絶叫――または迫り来る恐怖への必死の抵抗――とともに押した投下ボタン。
間を置かずして胴体より離れた棒状の物体。その尾部が眩い焔を噴出し、投下と同時に起動した信管と姿勢制御ジャイロの効果により平衡を取り戻したMk24空雷は、推進器より白い噴煙を吐き出しながら回避に転じる母機を追い抜き、一直線に沈めるべき敵艦へと向かって行った――
戦闘情報室とは、「大空洋戦争」勃発前後より、ラジアネス軍の大型艦艇を中心に急速に整備が始まった新機軸の指揮機構である。それは大抵艦の防御の堅い中心部に配置され、艦艇の位置及び損害状況、兵装、敵艦隊の脅威度……およそ戦闘に必要な全ての情報がその部屋に集約され、指揮官はそれらを分析評価した上で、戦時の航行から戦闘まで艦艇の指揮運用を一括して行えるように想定されていた。
空母ハンティントンもまた、新造艦として当然のようにこのCICを装備している。特に艦橋部に索敵レーダーを装備し、航行の途上で増設をも果たしたハンティントンは、レーダーの探知した敵位置、偵察機のもたらす情報はもとより、さらには護衛の僚艦の収集した策敵情報すらその強力な通信機能を以てCICに集約し、個艦の戦闘のみならず艦隊指揮の面においてもより確度の高い意思決定を下せるようになっていた。
強力なレムリア軍攻撃機編隊を向こうに回した迎撃戦闘において、ハンティントンは強力な装備を以て対抗することが期待されている。特に電気式ベクトル計算機をレーダーと連動させたMk18迎撃戦闘機指揮装置は、「アレディカ戦役」の反省により急速にその開発が加速した新鋭の指揮管制システムであり、それはレーダーで算定した敵編隊の方向と距離から、迎撃戦闘機隊の発進タイミングから会敵予想時刻及びポイントまでを短時間で算出し、合理的な迎撃機編隊の指揮誘導を可能とする。
また、ごく初期的なものながら、ハンティントンは射撃用のレーダー照準装置すら装備している。従来型の射撃指揮装置に組み込まれたそれは、対空射撃の命中率を飛躍的に向上させ、「アレディカ戦役」の戦訓に伴い設計時より増強された対空火網に更なる威力を与えるものと期待されていた。
――だが、それらは未だ実戦の洗礼を潜ってはいない。
――そして、来るべき実戦の洗礼は、ハンティントンの目と鼻の先にまで迫っていた。
『――ハイ、VF‐187の皆さん。そろそろデートの時間よ。待ち合わせ場所まで「スウィート-ハート」がご案内するわね』
ハンティントン上空に占位した迎撃戦闘機隊の通信回線を、艶かしいハスキーヴォイスが駆け巡る。コードネーム「スウィート-ハート」ことCIC要撃管制班チーフのシルヴィ‐アム‐セイラス大尉にとって、活躍の場はこの常に漆黒の闇に覆われ、レーダーのブラウン管や電気系統の灯のみが無機的な光を交差させる空間にある。指揮官専用のシートに抜群のボディラインを沈め、インカムの送信用スウィッチを抑えながら、シルヴィの指示は続く。その語り口は軽妙ながらも、吸い込まれるような冷たい暗がりの中で彼女の緑色の瞳は、円形のブラウン管に映し出された複数の輝点を冷厳に睨んでいた。
最初に敵影を捉えたのは、ハンティントンより半径1~3空理の球陣形外縁部に展開するレーダー‐ピケット艦だった。レーダー‐ピケット艦の探知した敵編隊の情報は、音声信号としてデータリンクを通じ瞬時の内にハンティントンのCICに電送され、迎撃管制スクリーン内に反映される。
『――「リュケス」より報告。戦隊中央北東部より敵編隊……距離124空浬……脅威依然増大中』
迎撃管制スクリーンの一時方向より急速に数を増す輝点――それは、いままさに機動部隊へ迫り来るレムリア軍の大編隊。
『――針路3‐4‐8へ変針、高度18000を維持してください。そのまま五分も飛べばレムリア美人のお尻を拝めるはずよ』
「何だこりゃ……」
上空直援任務の途上、カレル‐T‐“レックス”‐バートランドは呆れたような笑みをそのままにその艦体の半ばを雲海に埋もれさせた母艦を見下ろした。ハンティントンの上空直援隊は187飛行隊より十二機、そしてクロイツェル‐ガダラからも十二機のジーファイターが発進する。それらをバートランドが一括指揮する。迫り来る死闘の予感の支配する只中で、新任管制官の誘導は、彼ならずとも場違いなものに聞こえたはずだ。誘導に従い傾けた機体。操縦席内のバックミラーには、後続する僚機の姿がはっきりと収まっていた。
「レムリア美人か、こいつぁいい」
と、バートランドに後続する編隊を率いるジャック‐“ラムジー”‐キニーも笑う。飛行隊は艦隊上空に集合、そして艦隊外縁上に迂回を繰り返し未だ肉眼に見えない敵編隊の後背に占位する態勢を取る。一方で彼等が飛び立った母艦も、それを守るべき艦艇もその悉くが分厚い層雲の只中に没し、当分脱することが出来そうになかった。だがそれは、かえって敵の目から艦隊の姿を眩ませる効果をもたらすことになるかもしれない。
シルヴィの指示は続く。
『――全機へ、敵編隊まであと16空浬。IFFをオンにして下さい』
IFFとは敵味方識別装置の略称であり、元来は天空航路を行く船舶を管制、識別するために普及した信号送受信装置を母艦艦載機に応用したものだった。この由来は遭難時の迅速な捜索救難態勢の確保と、民間船を装った空賊より商船を防衛するために数十年単位の長期をかけ開発され、熟成された飛行航路管制システムに範を取ることが出来る。
港もしくは航行中の船舶より詳細不明の船舶に特定の波長の電波信号を送ると、信号を受信した船舶は同じく搭載する送信装置より自動的に符号を送出する。符号には予め数字の列よりなる識別コードを宛がっておき、符号を受信した船舶では出港前にラジアネス中央政府財務省運輸局より運航会社を通じ配付されたコードブックからそのフネを識別することになる。それはまた、広大な航路において船舶の位置及び針路確認の手段としての側面も併せ持っている。
ハンティントンでは搭載する各機に個々の識別符号を宛がい、捜索レーダー波を照射された際、機に搭載された送信器より自動的に発信された符号を受信することで管制下にある個々の識別が行えるようになっていた。識別符号は敵の傍受を防ぐため定期的に変更され、それらの機構は時として敵味方の判別を困難にさせる局面を見せる空戦で、的確な管制指示に効果を発揮するものと期待されていた。
『――レックス‐リーダーより全機へ、ローリエをオンにしろ』
「ローリエ」とはIFFのコードネームのことだ。バートランドが指示を下し、全機の操縦士がIFF操作器のダイヤルを捻った直後、シルヴィの眼前で管制スクリーン内の輝点の黄色い連なりが一斉に青へと替わる。青い輝点の連なり――それがハンティントンを発進した味方迎撃戦闘機隊。そして、青い輝点はシルヴィに誘導されるまま、一直線に戦隊へ迫り来る黄色い輝点の連なり――敵編隊――の側面から背後へと回り込む針路を取る。
「見つけた!」
弾んだ声で見下ろした先、300余りの高度差を置いて進撃する敵編隊はバートランドの率いる編隊より広く、かつ濃い密度を持っていた。だが、それを恐れる感情を、彼と彼の列機の誰もが持ち合わせていない。むしろ、ハンティントンの迎撃管制官の発揮した芸術的なまでに精緻な誘導に対する感銘に、彼らの胸中は支配されていたのかもしれない。
逸る心を抑え、バートランドは命令を下す。
「レックス‐リーダーより全機へ、増槽を落とせ」
各機より投棄される増槽は、まさにこれから戦闘に赴かんとする決意の表れだった。未だ十分に燃料を残していた増槽を落とし身軽になった編隊は自然と高度と速度を上げ、その一方で敵との距離も詰っていく。高度が上がるのは、一撃離脱に必要な加速をつける上でも都合がいい。そして攻撃すべき敵は、未だこちらの接近に気付いた素振りを見せてはいなかった。
「レックス‐リーダーより全機へ、俺に続け。さあ、ポート‐カステルのお返しをしてやろう!」
バートランド機を先頭に一斉に機体を翻し、エンジン音を唸らせて降下する迎撃編隊――その先頭機の照準機の中には、一機の双発攻撃機の機影。操縦席の中で速度計の針は瞬く間に上限に達し、加速にガタガタと震える操縦桿をバートランドは満身の力を篭めて抑え、迫り来る敵影をジャイロ式照準機に収められるように徐々に持ち上げていく。機体と目標の挙動に反応して揺れる照準点が前下方を行く敵攻撃機の左エンジンに重なるのに、ほんの一瞬だけの修正が必要だった。
「…………!」
トリガーを抑える人差し指に力が入る。銃口より噴き上がる白煙が後方に流れ、乾いた射撃音とともに前方へと吐き出された光弾の束が、白煙を引き摺りながら敵機の左エンジンを寸分違わずに捉え、一瞬にして発火させた。被弾により舞い散る銀色の破片が後方へ流れ、同じく被弾により崩れた機体のバランスは、猛烈な風圧に抗いきれなくなった機体から片翼を引き裂き、攻撃機を雲海に只中へと叩き込んだ。
『――隊長! お見事!』
追従するキニーの言葉に応じる間も無く、バートランドは操縦桿を引いた。襲い来る猛烈な加速! 操縦桿をしっかと握り、前のめりの姿勢で背を支え、上昇に転じたジーファイターの操縦席から軋みを立てる首を動かして見返した後方――先程の一撃で焔に呑まれ幾つかの金属片の塊だけの姿となった敵機に目をくれたのは僅かな間だった。そしてその僅かな間の内に、同じく突進した後続の部下により数機のレムリアンが墜とされて火達磨となり、それとほぼ同数のレムリアンが機体から煙を吐き出していた。
速度を殺さぬよう機体を滑らせ、再び態勢を回復したジーファイターを、バートランドは再び下方へと指向する。再び敵前へ向けた照準器の中には、空雷を投棄し慌てて回避を図ろうとする敵攻撃機……腰溜めに放った一連射は昇降舵を吹飛ばし、錐揉みに陥った敵機は急激な加速とともに急降下しバートランドから離れていく。
周囲は――すでに混戦。
蒼い空の只中。
交差する銀翼が陽光を吸い込んで刃のように輝き、黒い硝煙が空の一点に漂う中。
バートランドの駆るジーファイターは気速を生かし、駿馬の如く乱戦の中を突っ切るのだった。その間も視線は首や肩とともに周囲に廻らせている。自機の見張りとともに、戦況を把握するのもまた飛行隊長として当然の責務だ。そして飛行機乗りとしての勘と指揮官としての決断力は、自軍の優位がすでに潮時であることを感じ取っていた。
「レックス‐リーダーより全機へ、全機空戦やめ!……針路3‐0‐1へ離脱し、態勢を立て直せ」
黒煙を吐く敵攻撃機を追尾する一機のジーファイターを、彼が認めたのはそのときだった。
『――ハンティよりブルー04、六時注意! 敵戦闘機!』
シルヴィの警告より一瞬早く放たれた五月雨のような射弾――それに絡め取られるように被弾し、風防を飛ばされたジーファイターは、スピンし背面の姿勢に転じたところでエンジンから発火する。
「…………!?」
バートランドの眼前で急激に遠ざかりゆくそれが、火の玉となり四散するのと同時に、彼は絶句する――一撃でジーファイターを叩き墜とした敵手の姿を目にして。
「特装機……!」
赤く雄々しい銀翼を翻した双発の敵影――それが類稀なる強敵であることをバートランドは知っていた。
「敵は少数だ。地上人如きに何を恐れる必要がある!」
叩き墜とした敵機には目もくれず、タインは通信回線にがなり立てた。味方を叱咤しながら機首を向けた先――前方に突如出現した敵影に、軽く浴びせかけた一連射――不幸な二機目を血祭りに上げ、タインのジャグル‐ミトラは旋回を繰り返しながら上昇し、大局を見渡せる高度に達した。
……だが、タインが軽い驚愕に囚われていたことは動かしようの無い事実だった。
何故、敵はこちらの機先を制することが出来たのか……!?
攻撃されるまで、こちらは敵の迎撃隊の接近はおろか存在にすら気付いてはいなかった。そして漸く敵の存在に気付いた時には全てが遅かった。
敵は優位な態勢から襲い掛かり、こちらの攻撃隊に少なからぬ損害を負わせ、今では引き離しにかかった味方直援戦闘機隊との間で無様な混戦の様相を呈している。速度と運動性を生かした機動戦というレムリア戦闘機隊本来の持ち味が、敵の奇襲によって端から崩されにかかっている。
「編隊長より全機へ、空戦やめ。敵から離れろ。全速で距離を取れ!」
敵の背後を執拗に追う格闘戦はとかく頭に血が上りやすく、それは無理な深追いに繋がる。特に経験が浅い搭乗員ほどそうした陥穽に陥りやすい。彼自身の経験から、タインはそれを知っている。別の言い方をすれば、部下の力量と感情を如何に制御し、適切なタイミングでそれを解き放つか……それが空戦指揮官の腕の見せ所でもある。
「二小隊、追うな! すぐに隊に戻れ!」
一撃を掛けた後、何の未練も見せず気速を生かし離れ行く敵編隊に、タインは目を細める。敵の指揮官は相当できる男のようだ。寡勢で多勢にあたる方法と限界とを知り尽くしている。そして彼らに対するタインたちの任務は、敵迎撃部隊の撃滅ではなく、あくまで攻撃編隊の護衛と支援だった。退避する敵を追い、守るべき攻撃編隊を放棄したのでは本末転倒である。
だが……
もし、迎撃に上がってきた敵編隊がこちらの戦闘機隊と同数、もしくはそれ以上だったならば、最悪こちらにも被害が出たに違いない。敵の迎撃機の少なさと、その性能の劣位に救われたのだと、タインの頭脳は冷徹に思考を巡らせていた。
改めて後方と上方に警戒を命じ、気持ちを切り替えるかのようにタインは前方へと視線を凝らした。周囲の視界は決して良好とは言えず、進撃した際には白銀に輝いていたまっ平らな雲海は、予想会敵空域に達したときには、荒々しくそそり立った薄汚い鉛色の杜に変貌していた。
「…………!」
鬱蒼とし、かつ刺々しい暗灰色の雲間――その大きな切れ間から姿を覗かせる小振りな球陣形。
それは、空母「クロイツェル‐ガダラ」を中心とする第一陣だった。
――ハンティントン戦闘機隊が、レムリア軍攻撃隊の後背に第一撃を掛けようとしていたそのとき。ラジアネス軍攻撃隊と、レムリア艦隊との戦闘は、未だ続いていた。
当初は攻撃への鉄の如き意志により支えられていた攻撃編隊先頭集団は、迎撃機及び艦船からの烈しい迎撃によりその数を減らし散り散りになり、恐怖と緊急に駆られた機の中には空雷を投棄し完全な離脱に入った機も出た。そして集団としての戦力を喪失した先頭集団の中に、攻撃総隊長たるクゼルスキー中佐機の姿は無かった。
クゼルスキー機はレムリア艦隊主力前衛を形成する巡航艦へ雷撃をかけ、空雷投下には成功したものの、敵艦上方を通過した直後に、浴びせかけられた機関砲弾に捉えられ機体は発火。そのまま姿勢を立て直せずに墜落していったのである。戦場が雲中にある以上、その後の彼とそのペアの消息を見知る者は皆無に等しかった。
だが中佐は為すべき仕事をした。中佐機が放った空雷は巡航艦「レーゲ‐グナ」の艦首に命中、そのまま艦首をもぎ取り大破させたのだ。この被雷により「レーゲ‐グナ」の速度は12スカイノットに低下、高速で移動する艦隊への追従が不可能になった。業を煮やしたセルベラは駆逐艦一隻の護衛を付けこの哀れな巡洋艦を空域よりいち早く離脱させる――そこに、鉄壁を誇るかに見えたレムリア艦隊前衛集団の対空網に綻びが生じた。
――一方、艦隊上空。
攻撃任務を放棄して戦場よりの離脱を図るBDウイング、または完全な劣位に陥り回避一辺倒にまで追い込まれたジーファイターを追尾するうちに、レムリア艦隊直援のゼーベ‐ギガ、ゼーベ‐ラナ隊他もまた高度を下げ、何時の間にか艦隊上空にもまた一種の間隙が生じていることに当事者達の多くが気付くことはなかった。
そこに、難渋した索敵を経て会敵空域に到着した編隊第二陣が襲い掛かった。先頭集団に遅れること実に七分後のことである。その数二十五機。
最初の敵攻撃隊を事実上撃退し、警戒が緩みかけていたところに更なる敵編隊の来襲!……しかしその指揮は統一されていなかった。二十五機のうち十機が先頭集団に向かい。十五機が一気に艦隊主力を目指したのである。攻撃力の分散は戦術的にはやはりまずい――練度不足はときとして意思の不統一をもたらしがちである。
だが迎撃する側のレムリア軍にとって、幸運とはあくまで絶対的なものではなく相対的なものだった。レムリア艦隊の防御陣は、艦隊主力より8~10空浬の距離を置いて先頭前衛部隊を展開させ、敵攻撃機隊の攻撃を吸収するという方針に基づいて組み立てられている。そして、その前衛集団が撃ち漏らした敵機を本隊が迎撃する手筈になっていた。
しかも、戦闘集団と主隊とを分かつ八空浬という距離も問題だった。母艦の統制下で艦隊直援機に迎撃戦を展開させるための、それは必要と判断された間隙であったが、この距離の空間を埋めるのに適切な有効射程と速射能力を持つ対空砲を、レムリア艦隊は持たなかったのである。主砲では距離が短すぎ、機関砲では遠すぎる。その主隊を構成する各艦の距離も広く、一度穴が穿たれれば敵機の侵入を防ぐのに決して適切とは言えなかった……つまり、前衛集団が敵攻撃隊の突進を吸収し、少なからぬ打撃を与えることを前提として、レムリア艦隊本隊の陣形は組み立てられている。
……そして巡洋艦の脱落により穴が穿たれ、問題は今まさに顕在化しようとしていた。そこにレムリア軍の不運があり、ラジアネス軍に幸運を呼び込んだ。
リュカズ大尉の率いる四機のBDウイングと六機のジーファイターより成る十機の攻撃隊は先頭集団を主隊と誤認し攻撃を開始。ジーファイター隊が第一陣を追って下位に置かれた敵戦闘機に対し、優勢な空戦を繰り広げる間を目標へと向かった。そしてほぼ機を同じくして、セシル‐E‐“バット”‐バットネン少佐の率いる第177空兵攻撃飛行隊のBDウイング12機とジーファイター3機よりなる隊が、リュカズ隊に気を取られ警戒が疎かになった先頭集団上空を突破し、主隊へと襲いかかる――
「あれは前衛だ! あの馬鹿ども何をやってるんだ!?」
そうは怒鳴ってみたところで、僚友の誤認を掣肘する時間などバットネンには残されていなかった。事態の切迫なる故ではなくむしろ好機を見出したがゆえに、彼は僚友の誤認を糺す余裕を失うこととなったのだ。8空浬の距離を飛び越えた先に広がる平面の雁行陣。その前面部分にぽっかりと空いた間隙を、彼の鷲のような眼は見逃してはいなかった。
「隊長機より全機へ、一時方向! あそこから突っ込むぞ!」
バットネンの指示は単純であり、的確だった。彼の駆るBDウイングを先頭に、一本棒となった攻撃編隊は対空弾幕を縫い突撃を開始した。この期に及び敵機の襲来に気付いた敵直援機が一斉に上昇を始めるのが、バットネンには彼らの曳く水蒸気の軌条でわかった。だがどんな戦闘機であれ、一度大きく高度を落とせばこの世に重力というものが存在する限り、それに抗い高度と速度を取り戻すのは容易なことではない――そこに、バットネンたちの付け込む隙があった。
弾幕に捕まったBDウイングとジーファイターが各一機ずつ、機体から黒煙を吐き突撃から脱落した。それらにはもはや目もくれず、バットネンは機体を滑らせ、上昇下降を繰り返し目指す敵空母を捜し求めた――そして、彼は望むものを空の先に見出した。
雲海を乗り越えた先に広がる、距離を開いて併走する二隻の敵駆逐艦。そして二隻から等距離を保ち、侍従に先導される女王のごとく悠然と航行する一際巨大な艦影を目にしたとき、バットネンは一瞬言葉を失っていた。
「前方敵空母!」
通信回線に声を振り絞った直後。眼前、周囲に猛烈に広がりゆく弾幕の絨毯――それが返って、敵の戦略的重要性を雄弁に物語っているかのように思われた。同時に湧き起こる闘志に促されるがまま、バットネンは立ち塞がる砲火を掻い潜るように機首を下げた。
照準器に入る紅い艦影。
後席の航法士の絶叫にも似た報告。
『――雷撃コースに入りました!』
それが合図であるかのように、空雷の安全装置を解除する。空気の抜けるような油圧音と共に、BTウイングはその最強の武器を解き放つ用意を終える。新型のジャイロ式雷撃照準機の輝点が、目標の移動に機体針路を合わせる度左右にぶれ、照準を困難にする。
「野郎ども! ついて来い!」
自らを叱咤するかのように、バットネンは部下に叫んだ。敵艦との距離はなおも詰り、それが闘志とともに照準を合わせられないことへの焦燥を一層に募らせる。
隊長機に付き従うBDウイングは十機に減っていた。編隊が敵空母に機首を向けた直後さらに二機が対空砲火の直撃を受けて四散し、もう二機がエンジンから白煙を吐き急速に高度を落としていく。
次には敵空母の陰から飛び出してきた数機の機影がこちらへ向かい、それは忽ち敵戦闘機の姿となった。それに捕まり被弾した三機が一気に高度を落としていく。だが省みる者はいない。省みれば、彼自身もたちまち奈落の底に引き摺り下ろされる……恐怖心が彼らを攻撃へと突き動かし、彼らを迎え撃つ側もまた同じく恐怖に囚われていた――
「――距離1000……700……500……投下ッ!」
操縦桿のボタン押した直後、空雷を切り離した機体はふっと軽くなる。だが上昇はしない。切り離された空雷は母機より距離を置いて点火、加速してあっという間に母機を追い抜き、敵艦の紅い艦腹へと猛然と疾駆した。それを見届け、バットネンは後席に怒鳴った。もはや敵艦まで目と鼻の先。敵艦の甲羅のような甲板からこちらを指向する瘤のような対空砲座の連なりまではっきりと見える距離だった。
その一角――半球ガラス状の窓から覗く一人の人影と目が合ったと思った瞬間、バットネンは意を決した。
「下へ突っ切るぞ!」
重い操縦桿を横に倒し、スロットルを一気に絞る。銀翼を翻して敵空母の艦腹スレスレを下へと飛ぶBDウイングの動きは、もはや攻撃機としての動きではなく戦闘機としてのそれだった。そして同時に機を襲う烈しい振動。被弾か?……と思ったがそれを打ち消したのは銃手の引き攣った、だが弾んだ声だった。
『――命中! 命中です!』
頼む……間に合え! 眼前に広がる敵艦の甲冑のような表面を間近に見ながら、バットネンは必死で機を操った。追い縋る弾幕がバットネンの眼前を飛び越え、同時に機全体に何か細かいものがコツコツと当たるのを感じる。炸裂弾の破片か……それとも敵艦の破片か? 思考を巡らせ、いまさらのように命中の報告に思い当たった瞬間、バットネンは後席を省みた。
「オイ! 命中か? 命中したってのか?」
『――間違いありません! どてっ腹に当たりました!』
降下の姿勢に転じた操縦席。眼前には既に雲はなく、群青の海原が広がっていた。姿勢を回復しようと操縦桿を引く。だが設計の限界を越えて加速のついた機体では操縦桿は石のように硬く、この状態で引き起こすことなど難しい。それを察した途端に、昇降舵用トリム調節ダイヤルに手が伸びる。調節を重ねる内、案の定次第に軽さを取り戻す操縦桿――漸く機首を挙げ、姿勢を取り戻したときには高度はすでに四千も下がっていた。
安堵からの嘆息――バットネンは蒼白な顔もそのままに、再び後席を省みる。
「ジェイク、無事か?」
『こちら航法士、大丈夫です』
再び息を吐き出すと、バットネンは周囲に視線を巡らせた。彼らの周りを飛び交う敵も味方もすでになく、戦場は彼らの遥か頭上にあった。任務を成し遂げた以上、彼等がここにいる意味はもはや皆無と言ってよかった。バットネンは航法士の士官の名を呼んだ。
「ジェイク、電波を拾ってくれ。母艦に帰るぞ」
『――了解。それにしても隊長』
「ん……?」
『――腹が減りましたね』
「こいつ……」
苦笑とともに、バットネンは計器盤の航法机を引き出した。現在の彼らの位置が、事前に決めた帰投コースから大きく外れていることは明らかだった。できれば暗くなる前に帰りたい。だがその前に高度を回復し、生残った仲間を呼び出さないと――
――撮影用に宛がわれた半球状の観測席では、視界を遮るものは何一つなく、あたかも頭一つを天空の只中に晒しているような錯覚に囚われる。
――迫り来る黒い機影がその胴体から黒く細長いものを切り離した直後、それは一本の黒い矢となって母艦の艦腹へと向かってきた。
――それでも、リオン‐グーザはしっかりとフィルムカメラを構え、向かい来るそれを睨むように覗き続けた。その勇気と神経の続く限りに……だが、勇気にも限界があった。
「ひっ!?」
――ファインダーから目を離し、挑みかかってきた地上人の攻撃機の操縦士と眼が合ったと思った瞬間、彼は不意の戦慄とともにその場にへたり込んだ。危うく落としかけた月給二か月分もの値がするフィルムカメラを庇うように立ち上がりかけた直後、それは襲ってきた。
「…………!」
重い衝撃――空母ダルファロスの巨体を震わせる、何か巨大な金槌で殴られたような衝撃は、決して小さいものではなかった。だが立ち上がった彼の姿勢を再び崩すような激しさを、それは持たなかった。カメラを抱くようにして見上げたリオンの頭上を、両翼から焔を発した敵機の機影が通過して行った。胴体に描かれた認識番号が一目でわかるほどの、それは至近距離だった。
「ちがう……!」
あれが射ったんじゃない!……それでもリオンはカメラマンの直感と本能に従い、機体を乗り越えて遠ざかり行くそれを目で追った。発条の切れたフィルムカメラは用を為さなかった。カメラを取り出すと、飛行機の形をした火球に向かい、彼は何度もシャッターを切った――そして、リオンの覗くファインダーの中でそれは爆発し、幾つもの火球に別れて散った。
「…………」
放心している余裕など、彼には残されていなかった。フィルムカメラの方はそのままに、リオンはカメラを手に観測窓から身を乗り出すように艦腹へと目を凝らした。射ったやつは?……と下方へ視線を巡らそうとした彼の眼前に凄まじい光景が飛び込んでくるのに、瞬時も要しなかった。
「穴……!?」
流線型の上甲板に穿たれた穴は一つ。だが決して小さくはなかった。噴火口のように噴出す黒煙が、直も全力航行を続ける艦上では後方に流されていく。そして流し出されるものは決して煙や焔だけではなかった。廃材……外壁……そして人間! そして艦はそれらを流し出しながら冷厳にもなお対空戦闘を続け、回避機動を続けている。
ダルファロスは左舷上甲板に空雷一発を被弾。空雷は装甲と隔壁を数ブロック突き破ったところで爆発し、その直下に位置する待機所に詰めていた予備応急要員8名全員を爆死させた。同時に崩壊した与圧系統は、急激な気圧低下とともに急激な乱流を区画内に巻き起こし、気流の乱れは急激な発火すら併発させ、予備員に倍する乗員を死傷させる……だが、緊急与圧システムの起動により与圧はものの数分で回復し、火災もまたすぐに防ぎ止められた。
この他右舷より同時に二発の雷撃を受けたがそれらは悉く回避した。この点はダルファロスの強固な防御兵装の他、艦長イズメイ大佐の操艦の冴えと言ってもいいのかもしれない。空雷一発程度で大怪我を負う程ダルファロスは決して軟な造りではない。むしろ反応炉、主機関区画、司令部施設等艦中枢防御区画は戦艦以上に堅固に造られているし、空母としての機能を発揮する上で必要な、艦の均衡を保つ姿勢制御システムもまた充実している。
――その、空母ダルファロス艦橋。
敵の攻撃隊第二波が通り過ぎ、レムリア艦隊の征く空域は束の間の静寂に覆われていた。
『――応急指揮官より報告。本艦の損害いたって軽微。戦闘続行可能です』
艦内通話回線越しの艦長イズメイ大佐の報告にも、防空指揮所で迎撃戦の推移を見守っていたセルベラは無感動だった。硬い光を放つブーツに覆われた長い足を悠然と組み、その長身をシートに沈めたまま、その灰色の瞳は硝煙更けやらぬ戦場の空の、ただ前方へと注がれていた。
「艦隊の損害は?」
突き放すような言葉に慌てて背を正し、イズメイ艦長は報告文を読み上げる。
『――読みます。損害……ダルファロス中破。『レーゲ‐セルト』級巡洋艦一隻大破。二隻損傷軽微。駆逐艦一隻小破。直援戦闘機三機喪失……死傷者の総数はまだ判明しておりません。なお、本艦は依然戦闘継続可能です』
「…………」
セルベラの沈黙を意見具申の許可と取ったのか、艦長は続けた。
『――司令、艦隊司令部に戦況を報告なさいますか?』
「司令部……?」
途端、セルベラの白皙の頬が、微かに曇った。
「……報告は待て」
『――しかし……詳報を』
「損害報告ぐらい、戦闘終了後でも出来るであろう?」
回線を切り、セルベラは別の部署を呼び出した。呼び出した先は――
『――こちら飛行長。ご指示をどうぞ』
「ゼーベ‐ガルネを用意させよ」
『――は……?』
「……十分後に、私もそこへ行く」
『ハッ……!』
飛行長の諒解には、従来とは明らかに趣の異なる、驚愕の混じった響きがあった。ゆっくりと通話機を置くや否や、セルベラはすっくとシートより立ち上がった。何事かと驚く幕僚やオペレーターたちを尻目に、無言のまま、足早に防空指揮所を後にする――
――言葉どおり十分後にダルファロス搭載機格納庫へと足を踏み入れた彼女は、レムリア軍空中戦士の飛行服に身を包んでいた。日ごろ長大な軍用コート姿の彼らの指揮官しか知らぬ甲板員や整備員といったレムリア軍兵士にとって、甲冑のような飛行服から顕れるセルベラの抜群のプロポーションはあまりに鮮烈な印象を与えたが、それに倍する気迫が大の男たる彼らを却ってたじろがせた。
歩を進めるセルベラの、その肩に負うフルフェイスのヘルメットには、悪魔を呼び寄せる角笛を吹き鳴らす黒童女をあしらった紋章が刻まれている。それは、彼女がかつてレムリア軍最年少の航空団司令として指揮を執り、緒戦の電撃的侵攻作戦で勇名を轟かせた第208戦闘航空団「ブラック‐リリス」のパーソナルマークでもあった。
「…………!」
リオン‐グーザが飛行服姿の彼女を目にしたのは、まさにそのときだった。
損傷箇所まで駆けつけて惨劇の址と応急作業の様子を写真に収め、もと来た道を戻る途上、艦内には未だ不案内な彼が散々に迷った挙句に差し掛かったのは格納庫上部のキャットウォーク。そこから、リオンは悠然と歩く司令官の姿を見出したのだ。
あれが……司令?
目にした瞬間に感じ取った強烈な印象が、生物学的な本能にも似た衝動の任せるまま彼にその対象へカメラを向けさせた。そして、シャッターを切ろうとリオンが指に力を篭めたとき――鷹のような眼光がファインダー越しに彼を睨み、その瞬間にシャッターは切られた。
リオンは、カメラを構える手もそのままに呟く。
「……たまげた」
セルベラの向かった先――格納庫の奥まった一角。
専用の駐機スペースで、電源、燃料供給源から延びるコードやホースに乱雑に繋がれ、周囲を取り巻かれた彼女の愛機が、単発機に似つかわしくないその巨体より圧倒的な力強さを漂わせながら、永い眠りから醒めようとしている……
「司令に敬礼!」
整備員たちの敬礼に答え、セルベラは乗り手を待つ彼女の愛機へと一歩を踏み出した――




