↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/26

1_03 左腕

カクヨムと二軸投稿しています。

面白かったらお気に入りなどしてもらえると嬉しいです。

毎週土曜日20時に一話ずつ更新予定。

現在10月17日分まで予約ストックしています。

(……やはり、軽い)

改めて感じる質量のなさ。 ヴォルフはそのまま部屋の奥にある巨大な天蓋付きベッドへと歩みを進め、柔らかいマットレスの上に千春をそっと横たえた。

詰襟の騎士服では寝苦しいだろう。ヴォルフは上着だけでも脱がしてやるかと手をかけた。 上着のボタンを静かに外していくと、胸の下あたりに黒い布と金属パーツで頑丈に固定されたアームホルダーが目に入る。

「なんだこれは……」

ヴォルフは眉をひそめ、丁寧にそのアームホルダーの留め具を外していった。 脱がせた布の隙間から現れたのは——右腕に比べて幾分か短く、筋肉も脂肪もついていない、まるで細い木の枝のような左腕だった。

「……?」

館に着いた時、昔の騎士服を押し付けた際にも「不自然な腕の通し方」だとは感じていた。特に左袖には腕を通さず、単に横着をして袖を余らせているだけだと思っていたのだ。

ヴォルフはそっと千春の左手首に触れた。 指先は冷たく、一切の力が入っていない。

「千春、左手を少し動かせるか?」

静かに声をかけながら、ヴォルフは千春の左腕を持ち上げ、そっと手を離してみた。 何の抵抗もなく、重力に従ってポトリとマットレスに落ちる。 神経が通っていない。筋肉の緊張すら感じられない。ただそこに「存在しているだけ」の、完全に死んでいる腕。

「……嘘だろ」

ヴォルフの胸に、冷たいものが走った。 単なる怪我ではない。細く、すっかり肉の落ちたその左腕は、ずっと以前から——この世界に来るはるか前から、まったく動かない「亡霊」のような状態だったのだ。

『まてまてまて! なんだこの手は!? ……あぁ、でも左腕は相変わらずサッパリ動かねぇか。現実の事故の後遺症まで律儀に引き継がれてんじゃねぇよバグかよ』

千春が馬車の中で吐き捨てるように呟いていた「バグ」という言葉の意味が、恐ろしいリアリティを持ってヴォルフの脳裏に蘇る。

(片腕が……最初から動かないのか? この身体は……)

(……片腕が動かず、骨と皮ばかりに痩せ細り、パン一口すら胃が受け付けぬ。それでも口を開けば強気に毒を吐き、指先一つで世界の理を書き換えて見せた)

ヴォルフの中で、激しい感情の渦が巻き起こっていた。

異世界の「デスマ」とやらで命を削り、誰にも頼らず、動かぬ片腕のハンデすら徹底的な『合理性』だけでねじ伏せて生きてきたというこの小娘。

――野放しにできるわけがないだろう。

天才領主としての計算もあった。世界の理を書き換えるほどの才能、国家の至宝とも言える知識。だが、それ以上にヴォルフの保護欲と衝動を突き動かしていたのは、**「いつ砕け散ってもおかしくないほど歪で、あまりにも脆いその存在」**への恐怖と庇護欲だった。

18歳の可憐で華奢な体に、44歳の過酷な社畜の魂を宿した歪な存在。

誰も守ってくれなかったのなら、自分が手取り足取り全介護してでも、まともな肉をつけさせ、この領地に繋ぎ止めてやる――。

ヴォルフは静かに呟くと、千春の冷たく小さな左手を両手でそっと包み込み、温めるように握りしめた。

ヴォルフは脱がした黒いアームホルダーを手に取り、その構造をまじまじと観察した。 異世界の素材で作られた未知の布地と、精密な金属のバックル。 驚いたのは、その機能性だった。右手一本しか使えない者が、片手と歯だけで瞬時に着脱し、胸元で体幹のバランスを維持できるよう、ベルトの角度と荷重の分散が極限まで計算し尽くされていた。

(……自暴自棄になってなどいない。この者は……動かない腕を嘆く暇さえ自分に許さず、徹底的な『合理性』でこの障壁をねじ伏せて生きてきたのだ)

その異様なまでの合理主義と職人魂に、ヴォルフは胸を突かれるような感銘と、言葉にできない切なさを覚えた。 18歳ほどの可憐で幼く見える顔立ちの裏に、どれほど過酷で、どれほど妥協のない生き方を隠してきたのか。

「……バカ者が」

ヴォルフは静かに呟くと、千春の冷たく小さな左手を再度両手でそっと包み込み、温めるように握りしめた。

「なぜそれを先に言わん……。……頼むから、もう少し自分を労われ……」

眠る千春は、何も答えない。ただ規則正しい寝息だけが、静かな部屋に響いていた。

◇

千春の呼吸が完全に安定したのを見届けると、ヴォルフは静かに部屋を抜け出し、城の地下にある鍛冶・魔導工房へと向かった。

深夜の工房には、真鍮の匂いと魔鉱石の青い微光だけが満ちている。 ヴォルフは上着を脱ぎ捨て、作業台の上に羊皮紙を広げると、千春のアームホルダーの構造と、彼女の身体のサイズを思い返しながら、猛然と設計図を引き始めた。

「あの布のホルダーでは、体幹の軸が固定されきらん。歩くたびに重心が右へぶれる……。ならば、魔導金属でフレームを作り、背中と腰で左腕の質量を相殺する『スタビライザー』を組めばどうだ……?」

天才と謳われた領主の頭脳が、フル回転を始める。 羊皮紙の上に、魔術回路と精密機械の組み上げ図が描かれては消され、再構築されていく。

「重すぎてはあやつの負担になる。軽量なシルバー鋼を鍛造し、関節部には衝撃を逃す魔術刻印を……いや、待て。あやつは片手で装着せねばならんのだ。バックルの形状は磁力とワンタッチのラチェット構造でなければ受け入れんぞ……!」

カン、コン、と深夜の工房に鍛冶鎚(ハンマー)の音が静かに響き渡る。 ヴォルフは額に汗を浮かべ、自ら炎の前に立ち、金属を叩き、魔鉱石を精密に削り出していった。 千春が「無駄だらけのスパゲッティコード」と吐き捨てたような不便さを、絶対に感じさせないために。右手一本で、一瞬で体にバチッとフィットする完璧な『ギア』を作るために。

東の空が白み始め、工房の窓から冷たい朝光が差し込む頃。 作業台の上には、真鍮と銀で精巧に組み上げられた、驚くほど軽やかで美しく、そして強固な軽量魔導義手(スタビライザー)が静かに佇んでいた。

ヴォルフは煤のついた手でそれを持ち上げ、何度も可動域と重量を確かめると、満足そうに短く息を吐いた。

「……よし。これなら、あやつの軸はブレん」

目の下にうっすらとクマを作りながらも、その金色の瞳には、これから目覚めるであろう偏屈な自称44歳の小娘に見せてやるための、確かな自信が宿っていた。

「そうだ、折角ならこうしてやれば多少は便利になるだろう」

ヴォルフは肩口で切りそろえた銀髪を前にこぼしながらつぶやく。

「しかし、44歳ね…」

その顔は先程までの威厳ある領主の顔ではなく、年相応の青年のように口角を薄っすらと上げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。