1_13 シェイディアン農地改革計画2
シェイディアン編本編完結に伴い毎日更新に切り替えます。
完結まで毎日20時更新
「2系統並列配管の基本設計と、保育場の敷地確保……完璧な手際ですな」
シェイディアン領主館の執務室。 セバスは淹れたての温かいハーブティーのトレイをデスクに置きながら、感心したように目を細めた。
「うむ。これで我が領内に、単一障害点のない最強の排熱グリッドが組み上がる。緑の森の領地のものに話をつける準備はすべて整った。口先だけの設計図ではなく、完璧に仕様定義された動作環境を叩きつけてやる」
ヴォルフは、デスクに広げられた赤ペンの入った配管施工図に視線を落としたまま、誇らしげに口元を綻ばせた。
「その農地候補地の視察に……千春様も、行かれるのですか?」
セバスの視線が、部屋のソファーの隅で、赤と黒の大きめなブロックチェック柄のウール防寒コートにすっぽりと包まれている「もこもこの塊」へと向けられる。
「俺がデバッグして余った熱エネルギーを使うんだ。現地に行って、仕様通りに排熱パスが並列で動くか、ちゃんとこの目で見てテストする必要があるだろ」
フードを目深に被った千春が、億劫そうに右手でハーブティーのカップを指先で弄びながら不機嫌そうに応じる。 その不健康そうな態度とは裏腹に、その瞳にはかつて数々のクソシステムを根こそぎリファクタリングしてきた天才デバッガーの光が宿っていた。
だが、セバスの目が、千春のぶかぶかしたコートの裾から覗く「足元」に留まった瞬間、老執事の眉がピクリと跳ね上がった。
千春が履いているのは、召喚された残暑の日本からずっと履き続けている、ボロボロのグレーのスニーカーだ。 片手しか使えない千春が、右手一本で玄関でサッと履けるように、踵の部分が内側に向けて完全にペシャンコに踏み潰されている。ソールもすり減り、キャンバス地は薄汚れ、常冬の雪を踏むにはあまりにも心もとなかった。
「……しばしお待ちください。マーサ! マーサ! あれをお持ちしなさい」
セバスが廊下に向かって声をかけると、廊下をパタパタと走る、ヴォルフがどうしても頭の上がらない老メイドの足音が響いた。
「はいはいただいまー!」
セバスの長年の妻であり、この領主館の最古参メイドであるマーサが、抱えるようにして「それ」を部屋に持って入ってきた。
「こちらを」
ヴォルフと千春が「?」と同時に首を傾げる。 マーサの手元にあったのは、上質な黒い革で作られ、丁寧にオイルで磨き上げられて鈍い光を放つ、シルバーバックルと金属ストラップの装飾が美しい頑丈なハーフブーツだった。
「千春様が目が見えなかった間、シェイディアンは酷い吹雪でしてねぇ。外は千春様が初めてここに来られた時よりも、さらに深く雪が積もっておりますよ。今のその薄い履き物でしたら、一歩歩いただけで足先がすぐに凍えて、凍傷になりかねません。コチラにお履き替えくださいな」
マーサが膝を折り、千春の足元にその磨かれたブーツをそっと置く。 千春は、自分のペシャンコのスニーカーと、見るからに重厚で硬そうな革のブーツを交互に見比べ、はぁ、と深く、面倒くさそうにため息をついた。
「いや……気持ちはありがたいんだけどさ。俺、ブーツとか片腕じゃ履けねーし。硬い革靴なんて、踵を引っ張る手が足りねぇんだよ。靴紐を結ぶのも右手一本じゃデバッグが必要なんだ。このスニーカーなら、踵を潰してスリッパみたいに一瞬で起動できっから、これでいいわ」
「そう言うと思った。だが、心配いらん、千春」
それまで地図を睨んでいたヴォルフが、ふっと椅子から立ち上がり、千春の前に歩み寄ってしゃがみ込んだ。 彼が革のブーツの履き口を優しく広げて見せる。
「このブーツは、私が昔、今のお前くらいの体躯だった頃に履き潰したものだ。セバスとマーサが、お前がいつか外へ出る日のためにと、ここに来た日からずっと手入れをしてくれていたから、素の生地は驚くほど柔らかくなっている。お前の細い足なら、力を入れずとも滑り込むはずだ」
ヴォルフは金色の瞳を和らげ、千春の左腕――シルバーと真鍮のスタビライザー義手を見つめた。
「それに……お前には今、その左腕がある。完全に死んでいた頃とは違う。左手は、ただ靴の縁を『少し添えるだけ』でいい。あとは右手のワンアクションで足が入る。……ほら、一度ソファーに深く座って、試してみるといい」
「……チッ、お前ら全員、無駄に過保護の割り込みタスクが多すぎるんだよ……」
愚痴を叩きながらも、千春はハーブティーを置き、言われた通りにソファーに深く座り直した。 そして、恐る恐る、まだ感覚の鈍い左手のスタビライザー義手を動かし、ヴォルフが広げる革ブーツの履き口に「そっと添える」。
カチリ、と義手の指先が微かな金属音を立てて革を捉える。 ただ、添えるだけ。 けれど、それだけで、千春の右足は驚くほどスムーズに、柔らかい革の温もりの中へと滑り込んでいった。
「……あ。ホントに柔らかいな。引っかからねぇわ」
「だろう? 私が履き慣らしたお下がりだからな。履きやすさは保証する」
嬉しそうに胸を張るヴォルフを見て、千春はフンと鼻を鳴らした。 だが、その視線は、添えられた左手と、自分の足元を暖かく包む上質な黒いブーツに注がれたまま、どこか照れくさそうに泳いでいた。
「よし、足元のインストール完了だ。これで凍傷の警告は出ねぇだろ」
「うむ。いいな」
ヴォルフはソファから立ち上がろうとした千春に手を差し出す。
「うぜぇ、至近距離でお節介の割り込み処理発生させんな!」
千春が右手でヴォルフの邪魔な手をペシッと叩いた瞬間、執務室の中央に鎮座する、高さ二メートルを超える巨大な『魔導通信鏡』が、キィィィンと耳鳴りのような駆動音を立てて明滅を始めた。
『キシシシ、通信ラインの同期を確認したぞ、チハル。相手方のプロトコルが繋がったなぁ、キシシ』
千春の首元から、黒蛇チョーカーと化した闇の精霊ダクネスがニヤニヤと赤い目を光らせて囁く。
通信鏡の表面に走る波紋のような魔力のノイズが、ゆっくりと晴れていく。 そこに映し出されたのは、シェイディアンとは正反対の、青々とした木々が生い茂る「緑の森の領地」の美しい背景。そして、その中央で神経質そうに眼鏡を指先で押し上げる、一人のエリート技師の姿だった。
「……お初にお目にかかります、ガルディナ領主ヴォルフ殿。私は緑の森の『植物魔導省』でインフラ総括を務めております、ディルクと申します」
ディルクと名乗る男は恭しく一礼したが、その目は明らかに「常冬の貧乏領地」を軽んじ、冷ややかな色を帯びていた。 隔てる画面の隅に座る、もこもこの赤黒チェックの塊に視線を留めると、怪訝そうに眉をひそめた。
「……して、そちらの、熊のぬいぐるみのようにもこもこと着ぶくれている可愛らしいお嬢さんは? まさかガルディナでは、会議に愛玩動物を同席させるのが流行りなのですかな?」
その言葉が、ディルクの口から発せられた瞬間。 鏡のラグ――おそらく通信の魔力帯域が細いために発生している、約三秒のタイムラグ――を経て、千春の耳に到達した。
千春は、右手で持っていた温かいハーブティーのカップを乱暴にデスクに置くと、黒いマスクの奥の瞳を冷酷に細めた。
「……おい、誰が熊のぬいぐるみだ、デコスケ。こっちはメインアーキテクトの桜木千春だ。……それより、そっちの通信環境が細すぎて、顔の解像度にノイズ走ってんぞ。同期処理がカクついてんだよ。送信バッファ上げろ、それかルーター再起動してこい」
「なっ……!?」
三秒遅れてディルクに届いた千春の「言語パッチ」は、相手を完全に硬直させるに十分だった。 しかし、ディルクはすぐに不敵な笑みを取り戻し、手元の書類に目を落とした。
「……フン、口の減らない小娘だ。まぁいい。ヴォルフ殿、我が領の寒冷地対応作物をそちらに提供するのは一向に構いません。ですがね、作物にはそれぞれ『動作環境』が厳密に定義されている」
ディルクは、鏡越しに勝ち誇ったように言った。
「常冬のシェイディアンの凍土など、必要魔力環境の最低基準すら満たしていない。種芋の無駄遣い、仕様ミスマッチによる作物の立ち枯れは目に見えている。我が領の大事な開発資源を、凍らせて腐らせるだけの土地に提供するわけにはいきませんな」
「なるほどね」
千春はフッと鼻で笑った。赤黒チェックの袖から、シルバーと真鍮が精緻に噛み合うスタビライザー義手をスッと突き出し、デスクの書類をトントンと指先で叩く。その冷たい金属の稼働音は、通信鏡の向こうのディルクにもはっきりと聞こえた。
「要するに、そっちの『動作推奨環境』に、こっちの物理サーバーが対応してないから動かねぇって言いたいわけね?」
「その通りです。環境の壁は絶対。精霊の加護なきそちらの土地では、栽培すら不可能です」
「素人が。誰がベアメタルに直接デプロイするっつったよ」
千春は、もこもこのフードをバサリと払い、不敵な笑みをディルクに晒した。
「こっちが構築しようとしてんのは、シェイディアンの冬を問題ないように完全にカプセル化した、【仮想化サンドボックス】だ」
「か、仮想化……? さんどぼっくす……?」
ディルクが怪訝な顔をしたのを無視し、千春は右手のペンで、手元の図面を猛烈な勢いで指し示す。
「俺が最適化した『暖炉の魔鉱石』、列車から回収した『魔導機関』の余剰排熱。その他工場地帯から予定されてる排熱の余剰分こいつらを、これから新設する『高断熱ヒートパイプ・グリッド』に並列伝送して、温室の土壌レイヤーを床下から直接温める。日照不足は、鉱山の夜光石の光をプリズムで増幅して疑似光源としてマウント。つまり――」
千春は、スタビライザー義手のマニピュレーターをディルクに突きつけた。
「外部環境のパラメータを完全に偽装し、お前んとこの種芋が『ここが緑の森だ』とバグるレベルの、魔導コンテナをエミュレートしてやるって言ってんだよ。これなら、お前のところのライブラリの最小動作要件を余裕で満たせる。文句ねぇだろ、あ?」
「な、熱の伝送ロスを、銀刻印のシールドで『ゼロ』に……!? 土地自体を暖めて疑似的な春の領域を作るなど、そんな設計思想、聞いたこともない……」
ディルクは、千春がかざした「循環熱パスのアーキテクチャ図」を鏡越しに凝視し、ガタガタと震え出した。彼らが何百年も「精霊の気まぐれ」と呼んで諦めていた気候の問題を、目の前の小さな少女は、完全に熱力学とコンテナ技術の論理パッチでねじ伏せていた。
「……当たり前だろ、こちとら毎日サーバーの仮想化とコンテナ化で胃に穴あけて戦ってんだよ。……で、どうする? この要件定義書で、API提携、サインする? しない?」
「ぜひ……! 我が領の農業システムを、ぜひそちらの画期的なプラットフォームで稼働させてください……!そしてその結果とこれから新設されるさんどぼっくというものの詳細をご教示いただきたく…」
ディルクが鏡の向こうで青い顔でひれ伏したのを見届け、千春は「ふぅ、ノーエラー」と呟き、通信鏡の魔導石を右手で一瞬でパージした。
「お見事だ、千春。だが、今の時間で疲れが出たのではないか?顔色が良くない」
横で固唾を飲んで見守っていたヴォルフが、通信が切れた瞬間に待機状態を解除し、すかさず執務机に置いていたチョコレートを給餌しようとした。
「ほら、おやつだ!今すぐ糖分を補充しろ!」
「あぁ?んだよ、ん、んっま。チョコか。なんだこのチョコすげぇうまい」
千春の目が驚きと歓喜に揺れるとヴォルフは満足そうに頷いた。
「そうだろう。シェイディアン産の特濃ミルクとシュガービートと王都付近の農園厳選カカオを配合した特選ミルクチョコだ。王家にも献上したことがあるものだ。気に入ったなら千春用にストックを用意させよう」
「そんなにチョコばっかくえねーよ」
「私はお前が自分からなにか食べ物に関心を持ってくれるのが嬉しいのだ。セバス、マーサ。千春用にハイミルクチョコのストックを用意しておけ」
「かしこまりました」
「爺さんもクソガキも過保護すぎんだろ…」
自分が少しなにか、特に食べ物に興味を示すとすぐにそれを用意しようとこの邸の人間は動き出す。
「キシシシ! 過保護にしてもらっていいじゃないか、愉快だなチハル」
楽しげに首を突っ込んできたダクネスは、「黙れクソヘビ」とその頭を指で思いっきり潰しておいた。
◆◆
「うわ……。想像以上に、街のあちこちからポートが開いてんな」
緑の領地との通信会議の数時間後。 千春はヴォルフと共に、馬車で領主館から少し離れた農地候補地の高台へとやってきていた。 赤黒チェックの防寒コートに身を包み、ヴォルフの「お下がりのブーツ」で凍った地面を初めて踏みしめる。 確かに柔らかく手入れされた革は、千春の足にも優しくフィットし、余計な摩擦を起こさない。
(13歳のときと同じ足のサイズなのかよ…これだから恵まれた坊っちゃんは…)
千春は内心毒づく。
千春がぶかぶかのフードの下から見下ろした先。 白銀に染まったシェイディアンの街並みには、数え切れないほどの煙突がそびえ立ち、そこから絶え間なく白い煙のようなものが立ち上っていた。
「おいヴォルフ、あっちこっちから煙が吹き出してる。 あれだけの数の排熱ポートが常時稼働してるなら、農地全土を屋根付きの『仮想化コンテナ』で丸ごと包み込んで、熱のマルチスレッド伝送路を組んでやる必要があるな。だが、あの煙の成分はどうなってんだ? 作物に直接当てたらシステムが汚染されるぞ」
千春は、東京の工業地帯に漂う「酸性雨の混じった排気ガス」を無意識に思い浮かべ、眉をひそめた。
「ふっ、心配性だな、千春」
ヴォルフは隣に並び立ち、千春の細い肩を風除けのように自分の大きな体で遮りながら、穏やかに笑った。
「安心しろ。あそこで住民街の煙突から立ち上っているのは、煤煙ではない。ただの無害な『温水の蒸気』だ」
「温水の蒸気?」
「ああ。シェイディアンは年中凍える常冬の地だ。だから、地下から湧き出る天然の熱蒸気を各家庭の床下や給湯ラインに分岐・配給している。お湯を沸かしたり、暖房として使い終わった後のクリーンな余熱が、ただの『水蒸気』として空へ解放されているだけだ。だから作物はおろか、吸い込んでも何の害もない」
ヴォルフはそう言うと、街の遥か彼方、切り立った黒い岩肌を見せる大きな山脈の側を指さした。
「……だが、あちらの『山脈側の工業街』に行けば、少し事情が変わるがな」
「山脈側?」
「ああ。魔鉱石が採れる採掘場に近いあちらのエリアは、製錬炉や大型機関、それに物資を運ぶ魔鉱列車のターミナルが集中している。あそこは重工業地帯だ。吹き出す煙も魔力混じりの高熱排気で、お前が言うような『屋根付きが必要な領域』だな。だが、だからこそ――」
ヴォルフは金色の瞳を力強く輝かせ、千春を見つめた。
「あそこの巨大な排熱アセットを、お前の言う『循環熱パス』でこの平地の農地候補まで引っ張ってこれれば、お前の設計思想は完全に、ロスなく具現化する」
「……なるほどな。物理的なパイプのルーティングが一番の難所になりそうだが……。ハード屋のお前がやるなら、動作保証は心配なさそうだな」
「うむ。任せておけ」
ヴォルフが頼もしく胸を張る。 現地の実機を確認したことで、千春の頭の中のコンパイルは完了した。 設計のバグは、一つもない。
「よし、視察完了だ。……クソ、それにしてもやっぱり冷えるな。 早く館に帰って、適温の湯船にログインさせてくれ。あとハチミツスープも追加でマウントな」
「ああ、すぐに戻ろう。馬車を用意――」
ヴォルフがセバスを呼ぼうとした、その時だった。
「……あ」
馬車へと引き返そうとした千春の足が、ふと止まった。 ブーツの靴底が、サク、と乾いた雪の音を立てる。
無意識に、本当に何気なく、千春は頭上を見上げた。
◆◆
見上げた先には。 遮るもののない、圧倒的な「漆黒の宇宙」が広がっていた。
「すっげ……」
千春の口から、驚嘆の言葉が、小さく、頼りなく零れ落ちた。
そこには、かつて見上げていた大都市のビルのように、空を塞ぐ無機質な天井はどこにもなかった。 チリを全て叩き落とした氷点下の凍てつく大気は、光の屈折率を極限まで高めている。 暗闇のベールを突き破るように、数千、数万もの星々が、まるで最高解像度の描画エンジンのように鋭く、瞬いていた。
それだけではない。 夜空の天頂を、エメラルドグリーンと淡いバイオレットの光の帯が、天の川を這うように静かに、静かに揺らめいていた。
「……オーロラか」
「ああ。この地では珍しいことではない。空気中の魔力粒子が、世界の理と衝突して発光する、ただの物理現象だ」
横でヴォルフが説明する。 千春の脳裏には、いつものように「リアルタイムのレンダリングにしては遅延がないな、神の描画エンジンはとんでもねぇスペックだ」という、くだらないSEの合理思考が浮かんだ。
なのに。 言葉を失うような星の瞬きと、天空を静かに満たす光のカーテンを見つめているうちに。 千春の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなっていった。
東京の空は、いつだって『Forbidden』の灰色画面だった。
ネオンやビルの強すぎる輝度にマスクされ、星の光なんて1ピクセルも見えやしない。 深夜2時、終電間際の駅のホームで、あるいはあのマンションのベランダで、冷え切った缶コーヒーとタバコを片手に見上げた空だって星なんてものは見えなかった。 そもそも、空を見上げるだけの処理リソースすら、あの頃の千春には1ミリも割り当てられていなかった。
他人の人生の代償コードとして、偽物の名前を名乗り。 冷たいブルーライトの液晶画面ばかりを睨み、バグだらけの仕様書とデスマーチに、自分の体も心も、削り取られるように磨り潰して。 誰も自分を見てくれない、冷たい都会の夜の中で、ただただシャットダウンを待つように生きていた。
親父がくれた、破格の給料と15階建てマンションの最上階。 片手生活を完全最適化するための最新ガジェットで満たされた部屋は、スペックが高いだけの「冷たい檻」だった。 中身を見てくれる者は誰一人おらず、あの高い15階のベランダから見上げる東京の夜空は、いつも排気ガスに濁った灰色に閉ざされていた。
なのに、今。 千春には、自分のために一晩中ハンマーを叩いて作ってくれた義手があり、 ボロボロのスニーカーを履く千春を見かねて、セバスとマーサが「いつか外に出る日に渡そう」と、千春がシェイディアンに来た日からずっと、ヴォルフが昔履いていたお下がりを引っ張り出して丁寧に手入れをし、磨き直して準備してくれていた温かい革ブーツがある。 そして何より、 「お前を絶対に死なせない」と、狂気的なまでの過保護で自分を包み込んでくれる、熱い体温を持った若き領主が、隣に並んで同じ空を見上げている。
千春は、お下がりのブーツで凍った白銀の地面を踏みしめながら、ぼそりと、心からの独り言をこぼした。
「……15階のベランダより、雪まみれの地面のほうが……こっちのほうが、空がちけぇじゃねぇか」
「千春? 何か言ったか?」
「何でもねぇよ」
「……なぁ、ヴォルフ」
「どうした、千春。やはり足先が冷えたか? おでこが冷たいぞ」
「違うよ。……ただ、ちょっとさ」
見上げた千春の睫毛に、揺らめくオーロラの光が反射する。 その瞳の端に、 星の光を内包した小さな、小さな透明の雫が、一粒だけ、ぽつりと浮かび上がった。
それは千春の白い頬を静かに伝い、顎のラインへと滑り落ちていく。
「ち、千春!? お前、泣いているのか!? どこか痛むのか?」
隣でヴォルフが、見たこともないほど狼狽した声を上げ、慌てて分厚い毛布を千春の肩へと上掛けしようとする。 千春はフンと鼻を鳴らし、右手でヴォルフの胸元を軽く小突いた。
「バカ言え、クソガキ。……ただの結露だ。 泣くわけねぇだろ、中身44歳のおじさんが」
「結露が、そんなに温かいはずがあるか」
ヴォルフは呆れたように、 でも、言葉を失うほど優しい手つきで。 千春の目元に滲んだその小さな『結露』を、自分の体温が残る、大きな指先でそっと拭った。
「泣きたいときは泣けばいい。……だが、これ以上冷やすな。 お前に何かあったら、私がもたない」
「……お前、至近距離でバカみてぇなセリフ吐くな。のぼせて熱暴走するわ」
千春は照れくさそうにフードを目深に被り直し、ブーツをコツンと雪に叩きつけながら、先に馬車へと乗り込んだ。 その口元には、東京の灰色空の下では決して浮かぶことのなかった、小さく、静かな笑みが浮かんでいた。
白銀の常冬の地、シェイディアン。 鉄と煙と蒸気、そして満天の星空が広がる鉄と煙が立ち上る無骨な工業地帯でありながら、同時に、天を揺らすほどの美しき大自然が広がるこの地で。 千春の止まっていた魂のデバッグ(救済)は、大切な人たちのぬくもりに包まれながら、少しずつ、だが確実に動き出していた。
少しでも面白いと思ってもらえたらブクマ★などよろしくお願いします




