第6話「甘い熱病と引き裂かれた理性」
唐突な異変だった。
自室へ戻るため薄暗い回廊を歩いていたノアの足がもつれる。
膝から力が抜け、冷たい石畳の上に崩れ落ちた。
視界がぐらりと揺れ、天井の装飾が奇妙に歪んで見える。
体温が異常な速度で上昇していた。
血液が沸騰したかのように、血管の奥から焼け付くような熱が込み上げてくる。
関節が軋むように痛み、息を吸うたびに喉が干からびていく感覚があった。
「はあっ、あ……っ」
掠れた呼吸音が回廊に反響する。
額から大量の汗が吹き出し、シャツが肌に張り付いた。
Ωの発情期だ。
特異な性を持って生まれた者に周期的に訪れる、抗いようのない熱波。
ノアの身体から、むせ返るほどに濃密で甘いフェロモンが爆発的に放出される。
それは蜂蜜と熟れた果実を混ぜ合わせたような、強烈な香りだった。
冷たい城の空気が、一瞬にしてむせ返るような熱気を帯びる。
ノアは胸を掻きむしりながら、床の上で身悶えした。
本能がαを求めて叫びを上げている。
理性が焼き尽くされそうになる中、回廊の奥から重い靴音が近づいてきた。
アルカディアだった。
強烈な香りに引き寄せられるように、闇の中から姿を現す。
その赤い瞳はかつてないほどに爛々と輝き、飢えた獣のような光を放っていた。
端正な顔は、吸血の衝動とαとしての本能によって苦痛に歪んでいる。
鋭い牙がむき出しになり、喉の奥から低い唸り声が漏れた。
捕食者の本能に完全に呑み込まれる寸前だった。
ノアは恐怖よりも先に、身体の奥底から湧き上がる強烈な欲求を感じていた。
彼に噛み砕かれたいという狂気じみた願望が頭をもたげる。
アルカディアがノアの上に覆い被さる。
巨大な影が視界を塞ぎ、冷たい手がノアの首を乱暴に掴んだ。
牙が首筋に突き立てられる寸前。
アルカディアの動きがピタリと止まる。
赤い瞳の中で、理性と本能が激しく衝突していた。
彼はノアの首から手を離し、自らの右腕を高く振り上げる。
鋭く伸びた爪が、自身の左腕に深く突き立てられた。
肉を裂き、血管を断ち切る生々しい音が響く。
鮮血が中空に舞い、冷たい石畳に赤い斑点を散らした。
鉄と氷の匂いが周囲に立ち込める。
強烈な自傷の痛みによって、アルカディアはすんでのところで理性を繋ぎ止めた。
「……王が、己の欲に呑まれるなど」
血を吐くような低い声だった。
傷口から血を滴らせたまま、アルカディアはノアを力強く抱き起こす。
自らの身を切り裂いてでもノアを守り抜くという強烈な意志がそこにあった。
氷のように冷たい外套が、ノアの燃え盛る身体を包み込む。
熱を奪うその冷たさが、今のノアにとっては唯一の救いだった。
アルカディアの胸に顔を押し当て、荒い呼吸を繰り返す。
血の匂いと冷たいフェロモンが、ノアの暴走する感覚を少しずつ鎮めていく。
「もう大丈夫だ」
耳元で囁かれた低く静かな声。
ノアはアルカディアの背中に腕を回し、その冷たい身体に強くしがみついた。
痛みと熱の狭間で、ノアは静かな眠りへと落ちていった。




