第7話「傷跡と開花」
微睡みの底から引き上げられるように、ゆっくりと瞼を開いた。
冷たい麻のシーツの感触が、汗ばんだ素肌に触れる。
体内を焼き尽くすようだったあの熱波は、嘘のように引き潮となっていた。
ベッドから身体を起こす。
関節の軋みも、喉を焼くような渇きもない。
あるのは、ひんやりとした静寂と、部屋の空気に微かに残る氷のようなαの香りだけだった。
アルカディアの匂い。
それを鼻腔の奥で感じた瞬間、ノアの脳裏に鮮烈な記憶が蘇った。
自らの腕を深く切り裂き、鮮血を散らしながら理性を繋ぎ止めた王の姿。
獣のような衝動に歪んだ端正な顔。
それでも、あの腕は確かにノアを抱きとめていた。
恐怖からではなく、自らを深く傷つけてまで他者を守ろうとする、苛烈なまでの不器用な優しさだ。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
それは恐怖でも、発情の熱でもない。
明確な輪郭を持った、甘く切ない疼きだった。
冷たい石の床に裸足で降り立つ。
彼に会わなければならない。
その一心で、ノアは静まり返った回廊を小走りで進んだ。
月光に照らされた埃まみれの肖像画たちが、早足で駆け抜けるノアを冷たく見下ろしている。
ひび割れた石畳を裸足で踏みしめ、冷ややかな風が吹き込む中庭を抜けた。
向かった先は、ガラス屋根の温室だった。
重い鉄格子の扉を両手で押し開ける。
乾いた土の匂いの中に、微かな甘い香りが混じっていた。
部屋の中央、プランターの前にアルカディアが立っている。
ノアの足音に振り返った彼の表情は、相変わらず乏しい。
しかし、その視線はかつての無機質な冷たさではなく、どこか戸惑うような揺らぎを含んでいた。
アルカディアの視線の先を見る。
細い茎の先端で、あの淡い青色の蕾が、ついに花弁を広げていた。
薄暗い温室の中で、そこだけが自ら発光しているかのように瑞々しい生命力を放っている。
枯れ果てた死の世界に、ついに灯った小さな命の証だった。
ノアはゆっくりと歩み寄り、アルカディアの隣に立った。
彼の左腕の袖口から、血の滲んだ白い包帯が覗いている。
吸血鬼の自己治癒力をもってしても、あの深い傷はまだ塞がりきっていないのだ。
ノアは震える指先を伸ばし、その包帯にそっと触れた。
アルカディアの肩が微かに強張る。
「……近づけば、またお前を食い殺そうとするかもしれない」
低く掠れた声が、冷たい空気を震わせた。
拒絶の言葉。
しかし、彼はノアの手を振り払おうとはしない。
「構いません」
ノアは真っ直ぐに、アルカディアの赤い瞳を見上げた。
「あなたが私を傷つけないように、私があなたを繋ぎ止めます」
迷いのない声だった。
アルカディアの目が大きく見開かれる。
幾星霜もの間、死と静寂だけを友としてきた彼の瞳の奥で、分厚い氷が音を立てて砕け散っていくのが見えた。
アルカディアの右手が、躊躇いながら持ち上がる。
長い指先が、ノアの頬に触れた。
氷のように冷たいはずのその指から、不器用なほどの熱が伝わってくる。
ノアはその手に自身の頬を擦り寄せ、静かに目を閉じた。
冷たい城の片隅で、二つの孤独な魂が完全に寄り添った瞬間だった。




