エピローグ「木漏れ日の庭と日傘」
深い森を抜け、人里から遠く離れた小さな谷。
初夏の陽光が青々とした木々の葉を透過して、柔らかな木漏れ日を落としている。
微風が吹き抜けるたび、草擦れの音が優しく耳を撫でた。
ノアは麦わら帽子を深くかぶり、小さな木造りの家の前庭で土にまみれていた。
使い込まれたクワを握り、丁寧に土を耕していく。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭うと、土の匂いが鼻腔をくすぐった。
足元には、色とりどりの花々が咲き乱れている。
かつてあの崩れゆく城から持ち出した淡い青色の花も、今では群生して風に揺れていた。
縁側の軒下。
深い日陰の中に、一脚の籐椅子が置かれている。
そこに深く腰掛けているのは、分厚い黒布の大きな日傘をさしたアルカディアだった。
直射日光は避けているものの、その表情はかつての陰鬱なものではない。
手にした本から視線を外し、庭で立ち働くノアの姿を静かに追っている。
赤い瞳の奥には、穏やかな波が揺れていた。
ノアはクワを置き、井戸で手を洗う。
冷たい水が、火照った肌に心地いい。
手ぬぐいで指先を拭いながら、縁側へと歩み寄った。
アルカディアの傍らにしゃがみ込み、冷えた果実水の入ったグラスを差し出す。
「少し、休憩にしませんか」
アルカディアは本を閉じ、日傘の柄を肩に預けたままグラスを受け取る。
冷たい指先が、ノアの手に微かに触れた。
「お前は、少し働きすぎだ」
低い声は、咎めるよりも心配の響きを強く帯びている。
ノアは小さく笑い、麦わら帽子を外した。
「土を触っていると、心が落ち着くんです」
風が吹き、ノアの襟足が揺れる。
白いうなじに、はっきりと刻まれた二つの赤い痕が露わになった。
消えることのない、番の証。
アルカディアの視線がそこに吸い寄せられる。
彼はグラスを縁側に置き、長い指を伸ばしてその痕を静かになぞった。
氷のような冷たさがノアの体温に触れて、微かに熱を持つ。
ノアの身体がびくちと跳ね、甘い香りが周囲の空気にふわりと溶け出した。
Ωの本能が、番であるαの接触に敏感に反応しているのだ。
アルカディアの喉が微かに鳴る。
「……また、甘い香りが強くなった」
「それは……あなたが触るからです」
ノアは顔を赤らめ、視線を泳がせた。
アルカディアの冷たい唇が、うなじの痕にそっと落とされる。
血を求めるわけではない。
ただ愛おしさを確かめるような、柔らかな口付けだった。
木漏れ日が、二人の肩を優しく照らしている。
永遠の孤独はとうに終わりを告げ、ここにはただ、穏やかに流れる時間だけがあった。




