番外編「氷解の軌跡」
◆ヴィンセント視点
深い森の木立に身を潜め、私は遠くの小さな家を静かに見つめていた。
木漏れ日の中、土にまみれて笑う人間の青年と、日傘の下で目を細める我が王の姿がある。
数百年。
私が王に仕えてきた途方もない時間の中で、あのような顔を見る日が来るとは想像もしていなかった。
王は常に、氷の彫像であった。
感情を失い、味覚を失い、ただ静寂という名の牢獄で永遠の時を消費していた。
我ら同族がどれほど血を捧げようと、その渇きが癒えることはなかった。
供物として捧げられたあのΩの青年が、城に足を踏み入れた日。
私は彼もまた、数日で狂い死ぬか、干からびるだけの哀れな命だと思っていた。
しかし王は彼を放置した。
殺すことも、血を奪うこともしなかった。
異変に気づいたのは、あの朽ちた温室での出来事からだ。
王の纏う絶対零度の空気に、ほんのわずかな微熱が混じり始めた。
視線は常に青年の行方を追い、その足音に耳を澄ませているようだった。
決定的な夜。
青年の発情期が訪れ、城中が甘いフェロモンに包まれた時、私は王が理性を失うことを覚悟した。
だが、王は自らの肉を裂いた。
己の腕を深く切り裂き、血の海に沈みながらも青年を抱きしめ、その熱を冷まそうとしたのだ。
あの時、私ははっきりと理解した。
王の心は、すでに青年に囚われているのだと。
そして狂信者どもが城を襲撃した日。
結界が破られ、炎が城を舐め尽くす中、王は自らの命を投げ打って青年を逃がそうとした。
永遠の生に執着しなかった王が、初めて何かのために死を恐れ、抗った瞬間だった。
青年が戻ってきた時の王の顔を、私は生涯忘れないだろう。
驚愕、絶望、そして隠しきれない歓喜。
二人の血が交わり、真の番となった時、城を吹き荒れた魔力の奔流は我ら吸血鬼の常識を覆すほどに強大だった。
崩れゆく城を背に、朝日の中を歩き出す二人の背中。
私はその後ろ姿を、ただ深く頭を垂れて見送った。
王に仕える者として、彼を孤独から救えなかった己の無力を恥じていた。
しかし今は違う。
あの青年が、王の凍りついた時間を溶かしてくれた。
私は木の枝から飛び降り、マントを翻して森の奥へと歩き出す。
もう、私がお仕えするべき主はいない。
あそこにはただ一人の愛する者を得て、人間のように笑う男がいるだけなのだから。




