第11話「反転する足跡と真の契約」
暗い。
どこまでも続く石造りの階段を、ノアは転がるように下り続けた。
壁を伝う指先が擦り切れ、血が滲む。
息は上がり、足はもつれ、何度も冷たい石段に膝を打ち付けた。
それでも止まることはできない。
通路の奥から微かに流れてくる外気を頼りに、ただ足を動かし続けた。
やがて、前方に淡い月光が見えた。
鉄格子の嵌まった排水溝の隙間から、森の空気が入り込んでいる。
ノアは身をよじって鉄格子を押し開け、泥まみれの斜面へと転がり出た。
冷たい夜の森だ。
湿った枯れ葉の匂いが、ノアの肺を満たす。
振り返ると、木々の隙間から古城の尖塔が見えた。
城全体が、銀色に光る巨大な魔法陣に包み込まれようとしている。
あの光の檻の中で、彼はたった一人で戦っている。
永遠の孤独に凍りついていた心を自ら開いて、ノアを逃がした。
自分の命を繋ぐために、彼を犠牲にしたのだ。
ノアは暗い森の奥へ向かって歩き出そうとした。
しかし、足が鉛のように重い。
泥に足を取られ、木の根に躓き、冷たい土の上へ倒れ込んだ。
土の匂い。
それは、あの温室で彼と共に過ごした時間を強烈に呼び覚ます。
枯れかけた花に水をやり、微かな希望を育てた日々。
彼がくれたのは、ただの命の猶予ではない。
生きる意味そのものだった。
ここで逃げ延びて、自分は明日から何を思って生きるのか。
彼が焼かれ、消え去る世界で、自分だけが太陽の光を浴びることに何の価値があるのか。
ノアは土を強く握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。
迷いはなかった。
自らの意志で向きを変える。
来た道を引き返す。
心臓が肋骨を突き破るほどの速さで早鐘を打っている。
排水溝へ潜り込み、暗い石段を全力で駆け上がった。
息が続かず、肺が悲鳴を上げる。
しかし、足は決して止まらなかった。
隠し扉の裏側に辿り着き、手探りで開閉の仕掛けを探り当てる。
重い石の壁を全身の力で押し開けた。
視界に飛び込んできたのは、凄惨な光景だった。
城のエントランスホール。
大理石の床は教団兵の血で赤く染まり、無数の死体が転がっている。
その中央で、アルカディアは銀の鎖に両腕を拘束され、膝をついていた。
背中の傷からは絶え間なく血が流れ、銀の毒が彼の白い肌を黒く変色させている。
周囲を取り囲む兵士たちが、止めを刺すべく剣を構えていた。
「アルカディア」
ノアの叫びが、広間に響き渡る。
アルカディアが弾かれたように顔を上げた。
その瞳に、信じられないものを見るような驚愕の色が浮かぶ。
「なぜ……戻った」
ノアは教団兵の隙を突き、アルカディアの元へ駆け寄った。
銀の鎖を素手で掴む。
強烈な火傷のような痛みが手のひらを襲うが、構わず力任せに引き剥がそうとする。
「逃げろと言ったはずだ」
「あなたのいない世界で生きるくらいなら、ここで一緒に死にます」
ノアはアルカディアの胸にすがりつき、彼の首元へ自らの顔を寄せた。
「私の血を飲んで。全部、あなたにあげます」
銀の毒に侵され、体温を失いかけているアルカディアの身体。
ノアは自らの首筋を無防備に晒し、強く押し付けた。
Ωの甘いフェロモンが、濃密に広間を覆い尽くす。
それは、死に瀕した王の奥底に眠る、真の吸血衝動を呼び覚ます甘美な猛毒だった。




