表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/16

届かぬ手のひら

 「鏡の海嶺」を後にしたアイルは、四つ目の、そして最後の源流がある「静寂の海溝」の縁に立っていた。

 そこは世界の割れ目。

 光も、音も、命の営みさえも拒絶する、垂直な闇の壁だ。


 ふと、アイルの全身を震わせるような「パルス」が上層から届いた。

 それは魚たちの警戒音でも、海流の乱れでもない。

 もっと不規則で、激しく、ひどく泥臭い「熱」を持った振動。


「この響き……聞き覚えがある」


 アイルは顔を上げた。

 遥か上、闇の天井を突き破るように、一つの小さな光が降りてくる。

 それは潜水鐘せんすいしょうだった。

 村の男たちが、行方不明になったアイルを捜すために、古文書を紐解いて急造した鉄の檻。


 その覗き窓に、一人の少年の顔が張り付いていた。

 アイルの親友、カイルだ。

 カイルは必死に外を指差し、何かを叫んでいる。

 鉄の壁越しに、彼の必死な形相と、泡を吹くような荒い呼吸が伝わってくる。


「カイル……?」


 アイルは吸い寄せられるように、潜水鐘へと泳ぎ寄った。

 鉄の冷たい感触に触れようとして、アイルは自分の指先を見て凍りついた。

 彼の指は今や完全に水そのものとなり、鉄の表面を撫でるのではなく、分子の隙間をすり抜けるようにして内部へ浸透し始めていたのだ。


「アイル! アイルなのか!」


 潜水鐘の中に、アイルの思考が直接響いたのだろう。

 カイルが窓に手を押し当てる。

 二人の手が、硝子一枚を隔てて重なった。

 しかし、その瞬間に起きたのは、感動の再会ではなかった。


 カイルが「熱い!」と叫んで手を引っ込めた。

 アイルの透き通った手から、無意識に「深海の冷気」と「膨大な水圧の記憶」がカイルの掌へと流れ込んでしまったのだ。

 カイルの手のひらは瞬く間に霜に覆われ、彼は恐怖に満ちた瞳で、目の前に漂う「美しい怪物」を見つめた。


「化け物……お前、本当にアイルなのか……?」


 カイルのその一言が、アイルの胸の宝玉を鋭く刺した。

 アイルは咄嗟に言葉を返そうとしたが、彼の口から漏れたのは「帰ろう」という願いではなく、クジラの咆哮にも似た、重厚で悲しい水鳴りだけだった。


 その時、潜水鐘の周囲を、宝玉の輝きに惹きつけられた巨大な「深海の原生生物」が取り囲んだ。

 陸の不純物である潜水鐘を、海が排除しようとしている。


「逃げろ、カイル! ここは、君たちがいていい場所じゃない!」


 アイルは潜水鐘を押し戻すように、両手を広げた。

 彼の身体から放たれた青い衝撃波が、原生生物たちを弾き飛ばし、同時に潜水鐘を急浮上させる。

 遠ざかっていく小さな光。

 カイルの叫び声は、泡の向こう側に消えていった。


 アイルは、浮上していく光を追うことはしなかった。

 今の自分にとって、地上の大気は薄すぎて肺を焼く毒でしかなく、太陽の光は眼球を貫く剣でしかない。

 彼は再び、暗い海溝の底へと視線を落とした。


 頬を伝った涙は、塩水に溶けるよりも早く、一粒の輝く真珠へと変わって底へと沈んでいった。

 彼の中にあった「人間」という形が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ