届かぬ手のひら
「鏡の海嶺」を後にしたアイルは、四つ目の、そして最後の源流がある「静寂の海溝」の縁に立っていた。
そこは世界の割れ目。
光も、音も、命の営みさえも拒絶する、垂直な闇の壁だ。
ふと、アイルの全身を震わせるような「パルス」が上層から届いた。
それは魚たちの警戒音でも、海流の乱れでもない。
もっと不規則で、激しく、ひどく泥臭い「熱」を持った振動。
「この響き……聞き覚えがある」
アイルは顔を上げた。
遥か上、闇の天井を突き破るように、一つの小さな光が降りてくる。
それは潜水鐘だった。
村の男たちが、行方不明になったアイルを捜すために、古文書を紐解いて急造した鉄の檻。
その覗き窓に、一人の少年の顔が張り付いていた。
アイルの親友、カイルだ。
カイルは必死に外を指差し、何かを叫んでいる。
鉄の壁越しに、彼の必死な形相と、泡を吹くような荒い呼吸が伝わってくる。
「カイル……?」
アイルは吸い寄せられるように、潜水鐘へと泳ぎ寄った。
鉄の冷たい感触に触れようとして、アイルは自分の指先を見て凍りついた。
彼の指は今や完全に水そのものとなり、鉄の表面を撫でるのではなく、分子の隙間をすり抜けるようにして内部へ浸透し始めていたのだ。
「アイル! アイルなのか!」
潜水鐘の中に、アイルの思考が直接響いたのだろう。
カイルが窓に手を押し当てる。
二人の手が、硝子一枚を隔てて重なった。
しかし、その瞬間に起きたのは、感動の再会ではなかった。
カイルが「熱い!」と叫んで手を引っ込めた。
アイルの透き通った手から、無意識に「深海の冷気」と「膨大な水圧の記憶」がカイルの掌へと流れ込んでしまったのだ。
カイルの手のひらは瞬く間に霜に覆われ、彼は恐怖に満ちた瞳で、目の前に漂う「美しい怪物」を見つめた。
「化け物……お前、本当にアイルなのか……?」
カイルのその一言が、アイルの胸の宝玉を鋭く刺した。
アイルは咄嗟に言葉を返そうとしたが、彼の口から漏れたのは「帰ろう」という願いではなく、クジラの咆哮にも似た、重厚で悲しい水鳴りだけだった。
その時、潜水鐘の周囲を、宝玉の輝きに惹きつけられた巨大な「深海の原生生物」が取り囲んだ。
陸の不純物である潜水鐘を、海が排除しようとしている。
「逃げろ、カイル! ここは、君たちがいていい場所じゃない!」
アイルは潜水鐘を押し戻すように、両手を広げた。
彼の身体から放たれた青い衝撃波が、原生生物たちを弾き飛ばし、同時に潜水鐘を急浮上させる。
遠ざかっていく小さな光。
カイルの叫び声は、泡の向こう側に消えていった。
アイルは、浮上していく光を追うことはしなかった。
今の自分にとって、地上の大気は薄すぎて肺を焼く毒でしかなく、太陽の光は眼球を貫く剣でしかない。
彼は再び、暗い海溝の底へと視線を落とした。
頬を伝った涙は、塩水に溶けるよりも早く、一粒の輝く真珠へと変わって底へと沈んでいった。
彼の中にあった「人間」という形が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。




