色彩の弔い
三つ目の源流を目指すアイルの歩みは、もはや「歩行」とは呼べないものになっていた。
地面を蹴る必要さえない。
ただ進もうと願うだけで、周囲の水流が彼の意志を汲み取り、背中を優しく押し流していく。
たどり着いたのは、無数の巨大な鏡石が乱立する「鏡の海嶺」だった。
この場所は、上層から届くわずかな光を複雑に屈折させ、万華鏡のような極彩色の世界を作り出すはずの場所だ。
しかし、今のこの場所は、アイルが奪った命の余波で、ひび割れた石が鈍く光るだけの、色褪せた墓場のようになっていた。
「ここは……あ……あれ……?」
アイルは自分の声に、違和感を覚えた。
言葉が、響かない。
喉が震えて音を作るという「陸の仕組み」が、すでに機能しなくなっている。
代わりに、彼の思考は水流の振動となって、周囲の岩や魚たちに直接伝わっていく。
ふと、目の前の鏡石に自分の姿が映った。
アイルは、そこに映る「それ」を、しばらく自分だと認識できなかった。
映っていたのは、少年ではない。
輪郭は水のように揺らめき、内側には銀河のような燐光が渦巻いている。
かつて栗色だった髪は、今や海藻よりも深く澄んだ青に変わり、重力を無視してゆらゆらとたなびいていた。
そして何より、瞳。
白目と黒目の境界は消え、そこには深海そのものを閉じ込めたような、底知れぬ群青が湛えられている。
「僕は、こんな姿に……」
アイルは鏡に手を伸ばした。
触れた石の冷たさを、指先は「温度」として感知しない。
代わりに、その石が何千年の時間をかけて堆積した記憶を、映像として読み取ってしまう。
自分と世界の境界が、壊れている。
その時、鏡石の隙間から、無数の「影の魚」が這い出してきた。
それは海が本来持っている、拒絶の意志。不純物である「人間」を排除しようとする、防衛本能の化身だ。
影の魚たちがアイルの身体を透過するように泳ぐたび、彼の中に残っていた「地上の色彩」が剥ぎ取られていく。
母の赤いスカーフの色。
家を飾っていた黄色い花の鮮やかさ。
それらが次々とモノクロームに染まり、アイルの記憶から永遠に失われていく。
「やめて……やめて、返してくれ!」
アイルは叫び、無意識に腕を振るった。
その瞬間、彼の手から放たれたのは、力まかせの打撃ではなく、空間そのものを震わせる「圧」だった。
鏡石が共鳴し、凄まじい高周波が影の魚たちを霧散させる。
静寂が戻ったあと、アイルは自分の掌を見つめた。
そこにはもう、人間らしいシワも、温かな血の通う赤みもない。
ただ、ただ、完璧に美しい、透明な水の刃があるだけだった。
彼は不意に悟った。
自分が海を救おうと戦えば戦うほど、自分の中の「アイル」という部品は、完璧な「精霊の部品」へと作り替えられていくのだということを。
「……綺麗だ」
鏡の中に映る異形の自分を見つめ、アイルはそう思ってしまった。
その思考さえも、かつての彼にはなかった、冷たく、澄み渡った水の感性によるものだった。




