燐光の脈動
無音の平原を越え、アイルが辿り着いたのは「熱水の峡谷」だった。
海底の裂け目から噴き出す煙が、黒い龍のように渦を巻き、周囲の温度を異常に押し上げている。
本来なら、人間の皮膚など一瞬で焼き爛れるような熱。
しかし、アイルはその熱を「心地よい」と感じていた。
「熱い……はずなのに……」
アイルは自分の腕を見た。
右腕はもはや肩のあたりまで完全に透き通り、内部には血管の代わりに、青白い燐光を放つ細い線が幾筋も走っている。
それは神経というより、神殿の壁に刻まれていた紋様によく似ていた。
峡谷の奥、煮え立つ水の向こうに、二つ目の「源流」が渦を巻いている。
それは巨大な心臓のように脈動する、深紅の熱水塊だった。
かつて海に活力を与えていたその源流も、今はアイルが持つ宝玉に力を奪われ、今にも消え入りそうなほどに萎んでいる。
アイルが近づこうとしたその時、足元の地盤が大きく揺れた。
熱水の噴煙を突き破り、巨大な甲殻を持つ「焔の番人」が姿を現す。
数メートルはあるハサミが、重い水を切り裂いてアイルの喉元に迫る。
「危ない……っ」
アイルは身を翻そうとしたが、脳が命令を出すよりも早く、彼の「身体」が先に動いた。
避けるのではない。彼の透き通った腕が、意志とは無関係に前方へ伸び、迫りくるハサミを受け止めたのだ。
激しい衝撃が走る。
しかし、痛みはなかった。
代わりに、相手のハサミを流れる「熱」の組成や、番人が抱く「守らねばならない」という盲目的な使命感が、肌を通じてダイレクトに流れ込んでくる。
「……君も、海を守っているんだね」
アイルは透き通った掌を、番人の硬い甲殻にそっと添えた。
その瞬間、胸の宝玉から、これまで以上に力強い波動が解き放たれる。
アイルの体内に蓄積されていた「人間としての温もり」が、最後の一滴まで絞り出され、宝玉を通じて番人と源流へと流し込まれていく。
視界が、一瞬だけ白く染まった。
気がつくと、番人は戦意を喪失し、穏やかな泡を吐き出しながら峡谷の底へと沈んでいった。
源流の熱水塊は再び力強く脈動し、死にかけていた周囲の生態系に熱を供給し始めている。
しかし、代償はあまりにも大きかった。
アイルがふと自分の胸に手を当てると、そこにはもう、心臓の鼓動がなかった。
ドクン、という馴染み深いリズムの代わりに聞こえるのは、潮の満ち引きのような、重厚でゆったりとした「海の音」だけだ。
「心臓が、止まっている……?」
アイルは自嘲気味に呟こうとした。
だが、その言葉さえも、声として形をなさず、ただ美しい調べを持つ気泡となって水の中に消えていった。
彼は気づき始めていた。
試練を乗り越えるたび、彼は「アイルという人間」を部品として使い、海を修復しているのだということに。




