潮騒の忘却
氷の深淵を抜けたアイルの前に広がっていたのは、見渡す限りの漆黒が支配する「無音の平原」だった。
ここでは水の流れさえも停滞し、ただ重苦しい圧力が全身を押し潰そうとしている。
アイルは一歩進むたびに、自分の輪郭が泥の中に溶け出していくような心細さに襲われた。
「……アイル」
自分の名前を、声に出してみる。
それは暗い水の中に小さな波紋を作ったが、すぐに消えた。
かつて、母が食事の合図に呼んでくれたあの響き。
幼馴染と笑いながら呼び合ったあの音。
それらが、まるで遠い異国の言葉のように、ひどく無機質なものに感じられ始めていた。
不意に、平原の砂を蹴立てて、銀色の群れがアイルを包み込んだ。
それは「記憶の回遊魚」と呼ばれる、死者の想いを運ぶ小さな魚たちだった。
彼らがアイルの周りを回るたび、魚の体表面に映し出された地上の風景が、断片的な映像となってアイルの脳裏に流れ込んでくる。
暖かな陽だまり。
波打ち際で拾った、形の歪な貝殻。
誰かの、優しい笑い声。
「あ……これは、僕の……?」
アイルは手を伸ばした。
しかし、指先が魚に触れた瞬間、その映像は冷たい水泡となって弾け散る。
宝玉が青く脈動するたびに、アイルが保持していた「人間としての記憶」が、海の生命力を補うための燃料として吸い上げられていくのだ。
思い出が消えるのと引き換えに、海の透明度は増し、死にかけていた周囲の海草が微かに色を取り戻していく。
「やめてくれ……それは、僕の……大事な……」
何を大事にしていたのか、その言葉の続きが思い出せない。
アイルは膝を突き、砂の中に指を埋めた。
右手の透明度はさらに増し、今はもう、骨の輪郭さえも見えなくなっている。
その代わり、指先からは細い光の糸が伸び、海底の岩脈と直接繋がっているかのような感覚があった。
自分の感覚が、自分一人のものではなくなっていく。
数キロ先の潮流の変化が、まるで自分の肌を撫でられているように生々しく伝わってくる。
深海を泳ぐ巨大なクジラの孤独な歌が、自分の心臓の音として響く。
個としての「アイル」が消え、巨大な「海」という意識の一部に書き換えられていく恐怖。
「お前は、海に愛されている」
いつの間にか隣に立っていた精霊が、凪いだ水面のような声で囁いた。
彼女の指先が、アイルの透き通った髪をそっとなぞる。
「思い出を捧げるごとに、お前は海そのものに近づいていく。それがこの場所の理……アイル、お前はまだ、あの乾いた陸の世界へ帰りたいと思うのか」
アイルは答えようとして、言葉を失った。
故郷の村の灯火を思い出そうとしても、脳裏に浮かぶのは、ただ暗い水面に映る無意味な光の粒でしかなかった。
あんなに恋しかったはずのパンの味も、今はもう「不純物」のようにしか感じられない。
「僕は……」
アイルは、胸の宝玉を強く握りしめた。
指先はすでに水と一体化し、宝玉の冷たささえも感じなくなっていた。
ただ、心の奥底で、たったひとつだけ消えない「約束」という響きだけが、彼を辛うじてこの場所に繋ぎ止めていた。




