最初の雫
「約束……何を、すればいい」
アイルの声は、かすかに震えていた。
精霊は静かに頷き、その透明な指先でアイルの胸に光る宝玉に触れた。
その瞬間、宝玉の中から一筋の光が放たれ、霧の向こう側へと伸びる「道」を照らし出す。
「この宝玉が吸い込んでしまった命の欠片を、海に巡る四つの『源流』へ還すのです。まずは北にある、氷の閉ざされた深淵を目指しなさい。そこには、海に冷たさと安らぎを与える命が眠っています」
アイルは、重い足取りで歩き出した。
道を進むにつれ、周囲の景色は一変する。
霧が晴れた先には、巨大な氷の柱が幾重にもそびえ立ち、それらが互いに擦れ合って、まるで巨大なクジラが鳴いているような低い音を立てていた。
「寒い……」
ふと漏らした言葉に、アイル自身が驚いた。
かつて村で冬の海に飛び込んだ時の、あの肌を刺すような痛みとは違う。
今の彼が感じる「寒さ」は、体の内側、魂の芯から熱が奪われていくような、静かな侵食だった。
不意に、アイルは空腹を感じて、無意識に腰の袋を探った。
そこには、村を出る時に無意識に放り込んだ、母が焼いた堅焼きのパンが入っているはずだった。
指先が袋に触れ、中からひび割れたパンを取り出す。
しかし、アイルはそのパンを口に運ぶことができなかった。
パンを掴んでいるはずの右手の指は、もはや向こう側の氷柱がはっきりと見えるほど透き通っていた。
指には力がこもらず、カサカサと乾いた音を立ててパンが砂の上に落ちる。
「……食べられないんだ」
砂を噛んだパンを見つめて、アイルは立ち尽くした。
空腹という「生」の執着さえ、今の自分の身体には受け皿がない。
人間であることを繋ぎ止めていた、食事という、睡眠という、温かな営みが、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。
その時、氷柱の影から巨大な影が躍り出た。
それは、主を失い暴徒化した「氷の守護魚」だった。
全身を鋭い氷の鱗で覆ったその魚は、色彩を失った白い瞳でアイルを睨みつけ、水の壁を切り裂くような速さで突進してくる。
「っ……!」
アイルは咄嗟に腕を突き出した。
その瞬間、胸の宝玉が激しく明滅し、アイルの右腕から青い稲妻のような光が奔る。
光は守護魚の額に触れると、荒れ狂っていたその瞳に、一瞬だけかつての静謐な輝きを取り戻させた。
守護魚は動きを止め、アイルの透き通るような手にそっと頭を擦り寄せた。
アイルの掌を通じて、魚の奥底に眠っていた「凍てつく命」が、ゆっくりと海の底へと溶け出していく。
「ごめん……すぐ、元に戻してあげるから」
アイルの囁きに応えるように、魚は小さな気泡を残して闇の奥へと消えていった。
ふと見ると、アイルの右手は、ほんのわずかだけ、その輪郭を取り戻していた。
しかし、それと引き換えに、彼の中にあった「村の風景」の記憶が、霧に巻かれたように一段と薄くなっていることに、アイルはまだ気づいていなかった。




