表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

最初の雫

「約束……何を、すればいい」


 アイルの声は、かすかに震えていた。

 精霊は静かに頷き、その透明な指先でアイルの胸に光る宝玉に触れた。

 その瞬間、宝玉の中から一筋の光が放たれ、霧の向こう側へと伸びる「道」を照らし出す。


「この宝玉が吸い込んでしまった命の欠片を、海に巡る四つの『源流』へ還すのです。まずは北にある、氷の閉ざされた深淵を目指しなさい。そこには、海に冷たさと安らぎを与える命が眠っています」


 アイルは、重い足取りで歩き出した。

 道を進むにつれ、周囲の景色は一変する。

 霧が晴れた先には、巨大な氷の柱が幾重にもそびえ立ち、それらが互いに擦れ合って、まるで巨大なクジラが鳴いているような低い音を立てていた。


「寒い……」


 ふと漏らした言葉に、アイル自身が驚いた。

 かつて村で冬の海に飛び込んだ時の、あの肌を刺すような痛みとは違う。

 今の彼が感じる「寒さ」は、体の内側、魂の芯から熱が奪われていくような、静かな侵食だった。


 不意に、アイルは空腹を感じて、無意識に腰の袋を探った。

 そこには、村を出る時に無意識に放り込んだ、母が焼いた堅焼きのパンが入っているはずだった。

 指先が袋に触れ、中からひび割れたパンを取り出す。


 しかし、アイルはそのパンを口に運ぶことができなかった。

 パンを掴んでいるはずの右手の指は、もはや向こう側の氷柱がはっきりと見えるほど透き通っていた。

 指には力がこもらず、カサカサと乾いた音を立ててパンが砂の上に落ちる。


「……食べられないんだ」


 砂を噛んだパンを見つめて、アイルは立ち尽くした。

 空腹という「生」の執着さえ、今の自分の身体には受け皿がない。

 人間であることを繋ぎ止めていた、食事という、睡眠という、温かな営みが、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。


 その時、氷柱の影から巨大な影が躍り出た。

 それは、主を失い暴徒化した「氷の守護魚」だった。

 全身を鋭い氷の鱗で覆ったその魚は、色彩を失った白い瞳でアイルを睨みつけ、水の壁を切り裂くような速さで突進してくる。


「っ……!」


 アイルは咄嗟に腕を突き出した。

 その瞬間、胸の宝玉が激しく明滅し、アイルの右腕から青い稲妻のような光が奔る。

 光は守護魚の額に触れると、荒れ狂っていたその瞳に、一瞬だけかつての静謐な輝きを取り戻させた。


 守護魚は動きを止め、アイルの透き通るような手にそっと頭を擦り寄せた。

 アイルの掌を通じて、魚の奥底に眠っていた「凍てつく命」が、ゆっくりと海の底へと溶け出していく。


「ごめん……すぐ、元に戻してあげるから」


 アイルの囁きに応えるように、魚は小さな気泡を残して闇の奥へと消えていった。

 ふと見ると、アイルの右手は、ほんのわずかだけ、その輪郭を取り戻していた。


 しかし、それと引き換えに、彼の中にあった「村の風景」の記憶が、霧に巻かれたように一段と薄くなっていることに、アイルはまだ気づいていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ