霧のなかの残響
音が、消えていた。
先ほどまで耳を打っていた激しい潮流の轟音も、神殿が崩れる地響きも、今は遠い夢のあとのように静まり返っている。
アイルは、灰色の霧が漂う砂地の上に横たわっていた。
立ち上がろうと地面に手を突くと、指先が砂を掴む感覚がひどく頼りない。
右手の指先は、まるで薄い硝子細工のように透き通り、その向こう側にある砂の紋様が透けて見えていた。
「どうなって……しまったんだ、僕は」
自分の声さえも、霧に吸い込まれて響かない。
ふと、胸元に冷たい重みを感じて視線を落とすと、そこにはあの宝玉が、鈍い青の光を宿したままアイルの胸に深く沈み込むように張り付いていた。
それはもはや「持ち物」ではなく、彼の肉体の一部として、心臓の鼓動を奪い取るように脈打っている。
「お前が手にしたのは、ただの宝ではない」
背後から響いたのは、鈴の音を水の中で鳴らしたような、透明な声だった。
アイルが弾かれたように振り向くと、霧の向こうから一人の人物がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
それは、実体があるのかさえ疑わしいほどに儚い、女性の姿をしていた。
長い髪は深い海の色を湛えて揺らめき、その身体は水そのものを編み上げたかのように透き通っている。
彼女が歩くたび、足元の砂からは小さな気泡が立ち上り、彼女の周囲だけが淡い光に満たされていた。
「……海の、精霊?」
アイルの問いに、彼女は悲しげな微笑を湛えた。
その瞳は、深海の底に沈んだ星のように静かに光っている。
「お前が手にした宝玉は、この海の心臓。数千年の時間をかけて積み上げられた、生命の記憶そのものだ。それを強引に引き剥がした今、海は体温を失い、死へと向かっている」
彼女が虚空を指し示すと、霧が晴れ、その向こう側に「今の海」の惨状が映し出された。
鮮やかだった珊瑚はことごとく白化し、魚たちは行き場を失って力なく底に沈んでいる。
アイルの故郷である村の近くまで、死の気配は黒い影となって忍び寄っていた。
「僕の……僕のせいで、海が死ぬというのか」
アイルは激しい眩暈に襲われた。
好奇心という名の身勝手な欲望が、どれほど残酷な結末を招いたのか。
絶望に打ちひしがれるアイルの身体は、その心の揺れに呼応するように、さらに薄く、透明に溶け出していく。
「お前の身体が透けていくのは、宝玉が代償としてお前の『人間としての時間』を喰らっているからだ。このままでは、お前は存在そのものが水に溶け、無に帰すだろう」
精霊はアイルの目の前で立ち止まり、透き通るような手を彼の頬へ伸ばした。
触れられた場所に、体温はない。
ただ、果てしない海の静寂だけが流れ込んでくる。
「だが、まだ道は残されている。アイル。失われた命を、ひとつずつ元の場所へ還す『約束』を果たすなら。お前は、もう一度だけ、自分という形を繋ぎ止めることができるかもしれない」
精霊の言葉は、冷たい水の底で唯一掴み取れる、細い鎖のようだった。
アイルは宝玉を握りしめ、痛む胸を抑えながら、彼女の瞳をまっすぐに見つめ返した。




