表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

沈黙の領域

 どれくらい深く潜っただろうか。

 水面から差し込んでいた月光の筋は、いつの間にか細い針のようになり、やがてぷつりと途絶えた。

 視界を支配するのは、濃密なインクを流し込んだような完全なる闇だ。

 アイルの肌に触れる水温は劇的に下がり、ナイフの刃で撫でられるような鋭い冷たさが全身を刺す。


「……っ」


 肺が小さく悲鳴を上げた。

 本来、人間が耐えられる限界を超えているはずの深度。

 しかし、アイルの呼吸はなぜか途絶えない。

 村の精霊たちが守る加護なのか、あるいは彼自身の血が、この闇に適合し始めているのか。

 吐き出した気泡が、水圧に押し潰されて歪な形をしながら、上へと逃げていく。

 その銀色の煌めきだけが、彼がまだ「陸のもの」であることを辛うじて証明していた。


 やがて、アイルの足が柔らかな何かに触れた。

 海底だ。

 巻き上がった砂が視界を濁らせる。

 アイルが目を凝らすと、そこには地上の理を無視した光景が広がっていた。


 巨大な扇のように広がる、乳白色の珊瑚の森。

 その枝先には、自ら淡い光を放つ小さな魚たちが、まるで生きた宝石のように群れている。

 魚たちの動きに合わせて、光の粒子が揺れ、深海の静寂の中に幻想的な輪郭を描き出していた。


「ここが……伝説の入り口」


 アイルが指先を伸ばすと、一匹の光る魚が彼の指に寄り添うように泳いだ。

 その感触は、驚くほど冷たく、けれど命の脈動を確かに伝えてくる。

 ふと、視界の隅で巨大な影が動いた。


 それは、珊瑚の影に隠れるように鎮座していた。

 石造りの巨大な門。

 村にある精霊の石像とは比べものにならないほど精密で、圧倒的な威厳を放っている。

 門の表面には、見たこともない複雑な紋様が刻まれ、その溝には青白い燐光が脈打つように流れていた。


 アイルはその門の前に立ち、表面に刻まれた文字に指を這わせる。

 石の肌は、驚くほど滑らかだった。

 数千年の時を、この深い海の底で耐えてきたとは思えないほどに。


「『命を還す者、あるいは……奪う者、ここに……』」


 口から出た言葉が、気泡となって門にぶつかる。

 読めるはずのない古代の文字が、なぜかアイルの脳裏に直接イメージとして流れ込んできた。

 その瞬間、門の奥から地響きのような低い音が響いた。

 何かが、巨大な鎖を引き摺るような、重苦しくも清らかな音。


 アイルは、自分の心臓が激しく、暴力的なまでに高鳴るのを感じた。

 この門を潜れば、もう二度と、あの暖かい夕焼けを見ることはできないだろう。

 母が焼いた魚の匂いも、長老のしわがれた声も、砂浜の柔らかな感触も。


しかし、アイルの足は止まらなかった。

 恐怖よりも、目の前の扉の向こう側にある「真実」への飢えが、彼の理性を飲み込んでいた。


「見せてくれ。この世界の、本当の姿を」


 アイルが両手を門に添え、力を込める。

 岩が擦れる轟音が深海に鳴り響き、長い間閉ざされていた運命の隙間から、目が眩むほどの「青い閃光」が溢れ出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ