表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

群青の呼び声

 波打ち際に立つアイルの足元を、白く泡立つ波紋が噛むように洗っていく。

 夕陽は水平線の向こう側へと沈み、空は熟しすぎた果実のような赤紫に染まっていた。

 村の家々からは夕餉の煙が立ち上り、潮の香りに混じって魚を焼く香ばしい匂いが風に乗ってくる。

 しかし、アイルの視線は一度も後ろを振り返ることはなかった。

 彼の瞳に映っているのは、闇に溶けゆく海面と、その遥か下に広がる底知れぬ深淵だけだ。


「深海……か。そこには、太陽の光さえ届かない場所があるっていうけれど」


 アイルは独り言をこぼし、砂を強く踏みしめた。

 幼い頃から、彼はこの村で「少し変わった子」だと思われてきた。

 他の若者たちが豊かな漁場や陸の収穫に感謝を捧げるなか、アイルだけは、誰もが恐れ、目を背ける暗い沖合を眺めて一日を過ごすことがあったからだ。


 その日の昼下がり、アイルは村の北端にある古びた石塔で、長老から再びある話を聞かされていた。


「アイル、お前の瞳には、この海がどう映っている」


 長老の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた音を立てる。

 長老の背後では、海の精霊を象った古い石像が、潮風に削られ、滑らかな、しかしどこか不気味な輪郭を晒していた。


「綺麗だと思います。でも、それ以上に……何かを隠しているようにも見えます」


 アイルの答えに、長老は細く長い息を吐き出した。

 その瞳には、憐れみのような色が浮かんでいる。


「伝説は古い時代から語り継がれている。海の最果て、深海の底には、この世界を創った際の名残……『宝』が眠っているとな。しかし、その輝きは呪いでもある。見つけた者は強大な力を得るが、代償として何かを失うことになるだろう。それはお前の心か、姿か、あるいは帰る場所そのものか。だから、誰もそれに手を出さない」


   ♢ ♢ ♢


 長老の警告を思い出しながら、アイルは夜の帳が降りる海を見つめる。

 警告は、アイルにとって禁忌ではなく、むしろ地図の道標のように響いていた。

 何かを失うとしても、その「宝」が放つという光を一目見ることができたなら、この退屈な日常の渇きは癒えるのではないか。


 不意に、波の音が変わった。

 ザザ、という一定のリズムが崩れ、海の底から何かが這い上がってくるような、重く低い唸りが鼓膜を震わせる。

 アイルの心臓がトクン、と大きく跳ねた。

 それは恐怖ではなく、何かに強く呼ばれているという確信に近い感覚だった。


「行かなきゃ」


 一歩、足を踏み出す。

 生温かい海水が膝を打ち、次の一歩で腰までを飲み込んだ。

 陸の体温が奪われ、代わりに水の静謐な重みが全身を包み込む。

 アイルは深く息を吸い込み、海面の下へと滑り込んだ。


 水中の世界は、地上の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。

 耳元を通り抜ける水流の音だけが、アイルを深く、さらに深くへと誘っていく。

 振り返れば、村の灯火が水面越しにゆらゆらと揺れ、まるで遠い前世の記憶のようにぼやけていった。


「もう、戻れないかもしれない」


 肺の中に残った最後の空気を吐き出すと、銀色の気泡が真珠の粒のように水面へと昇っていった。

 アイルはそれを追うことなく、ただ真っ暗な、どこまでも続く群青の闇に手を伸ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ