群青の呼び声
波打ち際に立つアイルの足元を、白く泡立つ波紋が噛むように洗っていく。
夕陽は水平線の向こう側へと沈み、空は熟しすぎた果実のような赤紫に染まっていた。
村の家々からは夕餉の煙が立ち上り、潮の香りに混じって魚を焼く香ばしい匂いが風に乗ってくる。
しかし、アイルの視線は一度も後ろを振り返ることはなかった。
彼の瞳に映っているのは、闇に溶けゆく海面と、その遥か下に広がる底知れぬ深淵だけだ。
「深海……か。そこには、太陽の光さえ届かない場所があるっていうけれど」
アイルは独り言をこぼし、砂を強く踏みしめた。
幼い頃から、彼はこの村で「少し変わった子」だと思われてきた。
他の若者たちが豊かな漁場や陸の収穫に感謝を捧げるなか、アイルだけは、誰もが恐れ、目を背ける暗い沖合を眺めて一日を過ごすことがあったからだ。
その日の昼下がり、アイルは村の北端にある古びた石塔で、長老から再びある話を聞かされていた。
「アイル、お前の瞳には、この海がどう映っている」
長老の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた音を立てる。
長老の背後では、海の精霊を象った古い石像が、潮風に削られ、滑らかな、しかしどこか不気味な輪郭を晒していた。
「綺麗だと思います。でも、それ以上に……何かを隠しているようにも見えます」
アイルの答えに、長老は細く長い息を吐き出した。
その瞳には、憐れみのような色が浮かんでいる。
「伝説は古い時代から語り継がれている。海の最果て、深海の底には、この世界を創った際の名残……『宝』が眠っているとな。しかし、その輝きは呪いでもある。見つけた者は強大な力を得るが、代償として何かを失うことになるだろう。それはお前の心か、姿か、あるいは帰る場所そのものか。だから、誰もそれに手を出さない」
♢ ♢ ♢
長老の警告を思い出しながら、アイルは夜の帳が降りる海を見つめる。
警告は、アイルにとって禁忌ではなく、むしろ地図の道標のように響いていた。
何かを失うとしても、その「宝」が放つという光を一目見ることができたなら、この退屈な日常の渇きは癒えるのではないか。
不意に、波の音が変わった。
ザザ、という一定のリズムが崩れ、海の底から何かが這い上がってくるような、重く低い唸りが鼓膜を震わせる。
アイルの心臓がトクン、と大きく跳ねた。
それは恐怖ではなく、何かに強く呼ばれているという確信に近い感覚だった。
「行かなきゃ」
一歩、足を踏み出す。
生温かい海水が膝を打ち、次の一歩で腰までを飲み込んだ。
陸の体温が奪われ、代わりに水の静謐な重みが全身を包み込む。
アイルは深く息を吸い込み、海面の下へと滑り込んだ。
水中の世界は、地上の騒がしさが嘘のように静まり返っていた。
耳元を通り抜ける水流の音だけが、アイルを深く、さらに深くへと誘っていく。
振り返れば、村の灯火が水面越しにゆらゆらと揺れ、まるで遠い前世の記憶のようにぼやけていった。
「もう、戻れないかもしれない」
肺の中に残った最後の空気を吐き出すと、銀色の気泡が真珠の粒のように水面へと昇っていった。
アイルはそれを追うことなく、ただ真っ暗な、どこまでも続く群青の闇に手を伸ばした。




