第三部:三人の食卓と冬の星座 第十章 不揃いなグラスと三人の食卓
十二月に入ると、街はクリスマス一色に染まり始めた。
商店街のスピーカーからはマライア・キャリーが流れ、パン屋の店頭にはシュトーレンが並ぶ。
世間が浮き足立つこの季節、受験生のいる家庭にとっては、一年で最も神経を使う「冬の陣」の幕開けでもある。
そして私にとっても、今夜は別の意味での決戦の夜だった。
娘の愛梨と、牧村さんを引き合わせる。
模試が終わった日曜日の夜。「美味しいピザでも食べに行こう」という私の提案に、愛梨は「あの職人さんも来るんでしょ?」と、すべてお見通しだった。
隠し事はできない。私の娘は、私が思うよりもずっと大人で、そして残酷なほど鋭い。
約束の店は、駅の反対側にあるカジュアルなイタリアンレストラン『テラ』。
牧村さんが「高校生がいても気後れしない、賑やかな店がいいでしょう」と選んでくれた場所だ。
十九時。
私と愛梨は店の前に立った。 「……なんか、緊張する」
愛梨がマフラーに顔を埋めながら呟く。 「なんで愛梨が緊張するのよ」 「だってお母さんの彼氏でしょ? 値踏みしなきゃいけないじゃん」
「彼氏」という単語に一瞬、息が止まる。「まだそんなんじゃないわよ」と否定しようとしたが、その前にドアが開いた。
店に入ると、奥のテーブル席に牧村さんが座っていた。
今日はラフなジャケットにタートルネック。少し緊張した面持ちで、水の入ったグラスをじっと見つめている。
私たちに気づくと、彼は慌てて立ち上がった。その動作が少しぎこちなくて、彼もまた緊張していることが伝わってきた。
「こんばんは。……はじめまして、牧村です」
彼が深々と頭を下げる。
愛梨は一瞬、私の後ろに隠れるような素振りを見せたが、すぐに前に出てペコリと頭を下げた。 「はじめまして。宮本愛梨です。……時計、ありがとうございました」
彼女は左手首を持ち上げて見せた。 「ああ、調子はどうですか? 遅れたりしてないかな」 「バッチリです。今日の模試も、この時計のおかげで時間配分完璧でした」 「それはよかった。……さあ、座ってください」
三人が席に着く。
私と愛梨が並んで座り、向かいに牧村さん。
不思議な構図だ。いつもは二人きりの食卓に、異物が混入しているような、あるいは欠けていたピースが埋まったような。
不揃いな三つのグラスで乾杯をする。私と牧村さんはビール、愛梨はジンジャーエール。
カチン、という音が、三人の距離を測るように響いた。
最初は会話が途切れがちだった。
ピザやパスタが運ばれてくると、ようやく空気が和んだ。
口火を切ったのは、やはり愛梨だった。 「ねえ、牧村さんって、お母さんのどこが良かったんですか?」 「ブッ!」
私がビールを吹き出しそうになる。 「ちょっと愛梨! いきなり何聞いてるの!」 「だって気になるじゃん。お母さん、家だと超ズボラだよ? Tシャツでうろうろしてるし、テレビ見て口開けて寝てるし」
娘の暴露攻撃に、私は顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい。
牧村さんは苦笑しながら、手元のナプキンを畳み直した。 「まあ、家での姿は想像つきますが……」
彼は一度私を見て、それから愛梨に向き直った。 「お母さんはね、丁寧な人だから」 「丁寧?」
愛梨が意外そうに首を傾げる。 「そう。本を扱う手つきとか、食材を選ぶ時の目とか。そういう何気ない動作が丁寧なんです。修理屋っていうのは、そういう細かい所作に人柄が出るのを知ってるから」
彼は照れる様子もなく、淡々と言った。 「それに、君のために必死になっている姿が、単純にかっこいいなと思ったんです」
テーブルの下で、私はスカートの裾を握りしめた。
娘の前で、こんな直球の褒め言葉を聞かされるなんて。
愛梨はポカンとしていたが、やがてニヤリと笑った。 「ふーん……。牧村さんって、意外とロマンチストなんだね」 「おじさんになると、涙もろくなるだけだよ」
牧村さんが自嘲気味に笑うと、愛梨も声を上げて笑った。
笑いのツボが合ったようだ。
そこからは、愛梨の独壇場だった。
学校のこと、志望校のこと、そして元夫――彼女にとっての父親のことまで。 「パパはさ、結果しか見ないんだよね。でも牧村さんは、時計直してくれた時、経過を見てくれたでしょ? そこが違うなって思った」
愛梨の言葉に、牧村さんは深く頷いた。 「機械も人間も、壊れるまでの過程が大事だからね。無理して走れば歪みが出る。君も、受験勉強で歪みが出そうになったら、いつでもメンテナンスにおいで。甘いものくらい奢るから」 「マジ? やった! スタバの新作ね!」 「……予算オーバーだな。缶コーヒーじゃダメか?」
二人のやり取りを見ていると、胸がじんわりと温かくなった。
私は蚊帳の外だ。
でも、それが心地よかった。
私が間に入らなくても、彼らは人間対人間として向き合っている。
「新しいお父さん」なんて大それた関係じゃなくていい。
ただ、愛梨の人生を応援してくれる大人が、もう一人増えた。
それだけで、私の肩の荷が少しだけ軽くなる気がした。
二時間ほどの食事会は、あっという間に終わった。
店を出ると、外は凍えるような寒さだった。 「じゃあ、僕はこっちなんで」
夕食の翌朝、食卓には三つのグラスが洗って伏せてあった。昨日、愛梨が選んだ背の高いグラスと、私が普段使う厚手のグラス、牧村さんに出した縁の少し欠けた古いグラス。形も高さも違う三つが、水切り籠の中で肩を寄せている。
愛梨はトーストへジャムを塗りながら、何度も何かを言いかけていた。
「昨日、疲れた?」
私から尋ねると、娘は肩をすくめた。
「緊張した。ママの彼氏候補とご飯なんて、普通ないし」
「彼氏候補って……」
「違うの?」
答えに困って黙ると、愛梨は笑わなかった。
「牧村さん、いい人だと思う。時計も直してくれたし、変に私へ好かれようとしなかったし。でもさ、二人が目を合わせて笑ってると、私だけ知らない話があるみたいだった」
昨夜、愛梨は楽しそうに振る舞っていた。私はその表情を受け入れの証拠として都合よく読んでいたのかもしれない。
「ごめん。置いていくつもりはなかった」
「謝ってほしいわけじゃない。私もそのうち家を出るし、ママに一人でいろとも思ってない。ただ、変わるなら少しずつがいい」
「わかった。次に三人で会う時は、先にあなたへ相談する」
「二人で会う時まで許可を取らなくていいよ」
愛梨はようやく口元を緩めた。
「そこまで管理したら、私が怖い娘みたいじゃん」
食器を片づけながら、私は三つのグラスを棚へ戻した。牧村さんに使ったものだけを特別な場所へ置かず、普段の食器の隣へ並べる。次があるとしても、それは一度の夕食で家族の形が決まるという意味ではない。
昼過ぎ、牧村さんから電話があった。
『昨日はありがとうございました。愛梨ちゃん、無理をしていませんでしたか』
彼も気づいていたらしい。
「少し緊張していたみたいです。いい人だとは思うけれど、変化が早いのは怖いって」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
『僕、張り切りすぎましたね。料理も話も、うまくやろうとしすぎた』
「私もです。三人で笑えたから、もう大丈夫だと思いたかった」
『次は、僕から誘わない方がいいですか』
その問いに、私は少し考えた。
「誘わないと決めるのも、愛梨の気持ちを先回りすることになる気がします。今度は本人に、どうしたいか聞きましょう」
『そうですね。僕は正解を急ぐ癖がある』
彼が苦笑する気配がした。
『人の気持ちに、交換用の部品一覧はありませんから』
「そこを間違えたら、私が言います」
『お願いします。たぶん、何度か間違えます』
完璧でいようとしない返事に、私はほっとした。愛梨に受け入れられるための手順を彼がすべて知っているなら、かえって私は息苦しかっただろう。
夕方、三人のグループではなく、私のスマートフォンへ愛梨から写真が届いた。図書館で借りた料理本のページだった。
『次に来るなら、このグラタン食べたい。作るのはママと牧村さん。私は勉強する』
私は思わず笑い、牧村さんへその画面を転送した。
すぐに『了解。ただし味の保証はできません』と返ってくる。
次の食卓は決まったが、日付はまだ決めなかった。その余白が、今の三人にはちょうどよかった。
数日後、愛梨は自分から牧村さんへ短いお礼のメッセージを送った。私のスマートフォンを借りず、三人の食事の際に交換した連絡先からだった。
『この前はありがとうございました。次はグラタン希望です。でも、ママと仲良くしすぎて私を忘れないでください』
冗談めいた最後の一行に、娘の本音が混じっている。
牧村さんの返信はすぐには来なかった。三十分後、愛梨の画面に表示されたのは長文ではなく、『忘れません。ただ、忘れたように見えた時は、直接注意してください。グラタンは練習します』という言葉だった。
「直接注意してください、だって」
愛梨は少し笑った。
「逃げない人っぽいね」
「たぶん。でも、逃げそうになったら二人で止めよう」
「ママもね」
その指摘に私は頷いた。三人の関係は、誰か一人が整えるものではない。それぞれが言いにくいことを言い、聞き損ねた時にはもう一度尋ねる。その繰り返しでしか作れないのだろう。
水切り籠が空になると、台所はいつもの広さへ戻った。けれど三人で交わした言葉は、食器のように片づけて終わるものではない。私は次に話すべきことを急がず、まず今日聞いた愛梨の寂しさを覚えておこうと思った。
次の夕食までに、私はグラタン皿を二枚しか持っていないことに気づいた。新しい一枚をすぐ買わず、愛梨に相談することにした。三人目の席を作ることも、こうした小さな確認から始めればいい。
駅の改札前で、牧村さんが足を止める。 「今日はありがとうございました。愛梨ちゃん、風邪ひかないようにね」 「はい。ごちそうさまでした! ピザ美味しかった」
愛梨が元気よく頭を下げる。
私は彼と目を合わせた。
言葉はいらなかった。
「ありがとう」という感謝と、「また来週」という約束が、視線だけで通じ合う。
彼は小さく手を振り、雑踏の中へと消えていった。
帰り道、私と愛梨は並んで歩いた。
白い息が夜空に昇っていく。 「……どうだった?」
恐る恐る聞いてみる。
愛梨はマフラーに顔を埋めたまま、しばらく空を見上げていたが、やがてボソッと言った。 「まあ、いいんじゃない?」 「え?」 「悪い人じゃなさそう。それに、お母さんのこと、ちゃんと見てくれてるっぽいし」
上から目線の評価に、苦笑する。 「合格?」 「うーん……補欠合格かな」
愛梨はイタズラっぽく笑った。 「でもさ、ママ」 「ん?」 「ママがあんなに楽しそうに笑ってるの、パパと離婚してから初めて見たかも」
その言葉に、私は足を止めた。
愛梨も止まり、私を見る。 「だから、いいよ。付き合えば? 私ももうすぐいなくなるし、ママが一人で寂しいよりはマシだし」
そう言ったあと、愛梨は笑顔を消し、マフラーの端を指に巻きつけた。 「でも、ちょっとだけ怖い」 「何が?」 「ママにあの人ができたら、私の場所がなくなるみたいで。パパの代わりを急に作られるのも嫌。牧村さんが悪いんじゃないけど、私、そんなにすぐ家族のふりはできない」
私は返事を急がず、娘の横顔を見た。応援してくれる明るさの奥で、愛梨もまた置いていかれる不安を抱えていたのだ。 「場所はなくならないよ。牧村さんは、お父さんの代わりじゃない。愛梨に家族のふりをさせるつもりもない。私たちは、今まで通り母娘よ」 「……ほんと?」 「ほんと。私が誰を好きになっても、愛梨が私の娘であることは一ミリも変わらない」
愛梨はしばらく黙って歩き、やがて小さく頷いた。
素っ気ない言い方。でも、それが愛梨なりの精一杯の優しさだと痛いほどわかった。 「……ありがとう。でも、愛梨がいなくなったら寂しいのは変わらないわよ」 「はいはい。じゃあ、寂しくならないように、牧村さんにしっかり捕まってなよ」
愛梨は私の背中をバンと叩いた。 「帰って勉強しよ! 今日のピザ分、カロリー消費しないと!」
彼女は駆け出していく。
私はその背中を見つめながら、バッグの中のルージュの存在を感じていた。
今日、私はトイレでルージュを直さなかった。
それでも、牧村さんは私を見てくれたし、愛梨も私の笑顔を認めてくれた。
三人の食卓。
不揃いだけど、温かい場所。
冬の星座オリオンのように、三つの点が結ばれて、新しい形が見え始めた夜だった。




