87.懐かしの場所
ティシアが先頭に立ち、その後ろをノアとフシが続く。二人は時折振り返りながら、周囲を警戒していた。
扉の向こうに続いていたのは、先ほどまでの古びた地下通路とはまるで違う廊下だった。
壁も床も傷や苔ひとつなく、綺麗に整えられている。石が風化しておらず、古い遺跡の中とは思えないほど新しい。
そして、息を吸うたびに、ひんやりとした空気が肺を満たした。
「さっきまで苔だらけの場所だったのに、急に綺麗になったです」
ノアが壁や床を見回す。
「どちらか言えば、新しいが正しそうだな」
フシも周囲を警戒しながら、奥へ視線を向けた。
ティシアは先頭から二人を振り返る。
「……ここだけ、別の場所みたいだね」
しばらく歩いていると、奥から白い霧が流れ込んできた。
「……霧?」
ティシアは足を止める。
霧は少しずつ廊下へ広がり、みるみるうちに濃くなっていく。視界が白く染まっていく中、ティシアは奥に何かがあることに気づいた。
「……あれは」
霧の向こうに、一枚の扉が立っている。見覚えがあった。
忘れるはずがない。
生贄として連れてこられたあの日。
何も知らずにこの扉をくぐった。
その先でアルジャと出会い、殺されかけた。
そして――サーナトスを解放した。
不死身になった。
「神の扉…………」
ティシアは扉を見つめたまま、ゆっくりと振り返る。
「ねえ、二人とも────」
しかし――
「…………あれ?」
そこには誰もいなかった。
────────
「ティシア? フシ? どこですか?」
ノアは声を張り上げる。しかし、返ってくるのは自分の声が廊下に響く音だけだった。
「……二人とも、いないです」
ノアは周囲を見回す。
(私だけ、別の場所に飛ばされた?)
(でも……転移したような魔力は感じなかったです)
不思議に思いながら、ノアは前を向く。
そして――
「…………アギアの塔」
目の前に、巨大な塔がそびえ立っていた。
白く、黄金に輝くその塔は、天まで届くかのように高く伸びている。
かつて聖女として、国中へ祝福の光を届けるために入った場所。
そして――自分が聖女を辞めた場所。
ノアはしばらく塔を見つめる。やがて、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、先ほどまで歩いていた苔だらけの古い廊下が続いている。
「…………」
後ろを見ても、ティシアとフシの姿はない。
ノアはもう一度、目の前の塔へ視線を戻した。
「……入るしかないですね」
怖さを隠しつつ、アギアの塔の中へ足を進める。扉をくぐった瞬間、ノアは足を止めた。
中へ入って最初に感じたのは、強烈な違和感だった。
「私の知ってるアギアの塔じゃないです」
外から見た塔の大きさとは明らかに釣り合わない。あまりにも広い。壁がどこまで続いているのか分からず、天井さえ見えない。
それなのに、最上階へ続くはずの階段もない。
「……どういうことです?」
ノアは周囲を見回す。かつて何度も訪れた場所のはずなのに、ここには知っているアギアの塔の面影がほとんどなかった。
そして――
広大な空間の中央に、一人の男が佇んでいた。
「…………」
ノアは息をのむ。
聖騎士の証である鎧。
腰に携えた剣。
そして、その剣を握る独特の構え。
見間違えるはずがなかった。ノアの記憶に残っている姿と、何もかもが一致している。
「……デルト?」
デルトは何も言わない。
「デルト!私です!」
デルトは無言で剣を構える。
「……やるしかないってことですか」
ノアが天照を構える。だが、その手は震えていた。
────────
「ここはどこだ……?」
フシは霧の中を歩いていた。
辺り一面が白く染まり、どこまで進んでも景色は変わらない。自分の足音だけが、霧の中に響いている。
「……なんなんだ、この霧」
しばらく歩き続けると、霧が少しずつ晴れていく。
その先に、一軒の家が見えた。
フシは足を止める。見覚えがある場所だった。
「……俺の実家だ」
母が自分を産んですぐに亡くなった場所。
そして――父が姿を消した後、誰もいなくなった場所。
「何で……こんなところに………」
フシは家から目を離せない。
父さんは、ここで何をしていた?
母さんは、ここで何を思っていた?
自分が知らない何かが、この家には残っている。そう考えると、足が動かなくなった。
「…………」
父を探すためには避けて通れない。
フシはゆっくりと玄関へ向かう。扉の前に立ち、手を伸ばす。
指先が震えていた。
「……怖ぇな」
小さく呟く。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。覚悟を決め、フシは扉を開けた。
すると、扉の先には――
一面の青空と、どこまでも続く美しい平原が広がっていた。
爽やかな風が吹き抜け、草花を揺らしていく。風がフシの身体を撫でる。あまりにも穏やかな景色だった。先ほどまで霧の中を歩いていたことが、嘘のように思える。
「………さっきまで、俺は家の扉を…………」
フシはゆっくりと振り返った。
そこには――
見覚えのある部屋が広がっていた。
「…………は?」
家の中に入ったはずだった。なのに、今、自分が立っているのは家の外。
「……なんなんだよ」
フシは扉と平原を交互に見る。
理解できない。逃げるように後ずさる。
その時――
……ザッ
前方から、草を踏む音が聞こえた。
フシの身体が強張る。
ゆっくりと顔を上げる。平原の向こうから、一人の男が歩いてきていた。
長身のエルフ。
白い髪が風に揺れ、金色に輝く瞳が、まっすぐフシを見つめている。
「…………」
フシは目を細める。男の顔が見える。
確かに、そこにある。
なのに――
顔だけに、薄い靄がかかっていた。
目も、鼻も、口も。
見えているはずなのに、どうしても詳しく認識できない。
「……誰だ、お前」
フシは警戒しながら問いかける。
男は答えない。ただ、ゆっくりとフシへ向かって歩いてくる。
「…………」
フシは弓へ手を伸ばした。
この男が誰なのか。
それを知ることが、怖かった。
────────
ティシアは大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
この扉の先に何があるのか、想像もつかなかった。それでも、引き下がるわけにはいかない。
開け方は知っている。
ティシアは神の扉にある穴へ指を入れた。
「……っ」
針が指先に刺さる。血が滲み、穴の奥へと落ちていく。
すると――
ゴゴゴゴゴ……
重い音を響かせながら、神の扉が開いていく。その先に広がっていたのは、先の見えないほどの暗闇だった。
「…………」
ティシアは暗闇を見つめる。そして、一歩を踏み出した。
その瞬間。
「────ッ!」
身体の中を、何かに掻き乱された。
「ぐっ……!」
胸の奥から、二つの力が一気に引き抜かれる。まるで身体の一部を無理やり奪われたような感覚。
死力が制御を失い、身体中を暴れ回る。
「が……ぁ……!」
激痛が走る。
ティシアは胸を押さえながら、その場に膝をついた。
呼吸が乱れる。視界が揺れる。
このままでは、倒れる。
「あーあ。つまんないから、助けてあげる」
暗闇の奥から、声が響いた。
すると、二つの黄金に光る球が暗闇から飛び出してくる。
光球はティシアへ向かって一直線に飛び――
その身体へ入り込んだ。
「……っ」
身体の中で暴れていた死力が、徐々に抑え込まれていく。
荒れ狂っていた力が、嘘のように安定していく。ティシアは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと身体を起こした。
そして、胸に手を当てる。
「…………」
確かに感じる。
先ほどまであった二つの力が、消えている。
「影狼と……炎竜の力が、奪われた」
宙に、二つの力が浮かんでいた。
影狼の力。そして、炎竜の力。
二つの力を包み込むように、周囲の闇が集まり始める。渦を巻く闇が二つの力へ絡みつき、徐々に一つの形を作っていく。
ティシアは剣を構え、目の前の光景を見つめる。
やがて、闇の中から姿を現したのは――
頭部は狼。
鋭い牙を持ち、獣の耳が立っている。
だが、その身体にはトカゲの鱗が広がっていた。
尻尾は長く、後ろ脚も鱗に覆われている。
全身は影のように暗い。
それなのに、身体の輪郭は炎のように揺らめいていた。
ティシアは剣を握り直す。
(二つの力が……混ざった)
「ウォォォォォン!」
遠吠えが響き渡る。
空気が震え、空間そのものが揺れたように感じる。
ティシアは足を踏みしめる。
目の前の異形から、目を離さない。
影と炎が混ざり合った獣。
その名を――
黒焔獣
黒焔獣の目が、ゆっくりとティシアを捉える。
そして――
獣は低く唸った。
ティシアは剣を構え、黒焔獣の動きを見据える。
黒焔獣が地面を蹴った。
一瞬で距離を詰め、ティシアへ向かって突進してくる。
「――速い!」
ティシアは感覚強化を使い、黒焔獣の動きを見極める。
黒焔獣が腕を振り上げた。
次の瞬間、炎を纏った斬撃が振り下ろされる。
ザンッ!
ティシアは剣を振り上げ、炎の斬撃を弾き飛ばす。そのまま地面を蹴った。黒焔獣との距離を一気に詰め、剣を振り下ろす。
キンッ!
剣が黒焔獣の身体を捉える。
だが――
まるで金属を斬ったような音が響き、剣が弾き返された。
「……!」
黒焔獣が大きく口を開く。鋭い牙が露わになり、そのままティシアへ噛みつこうと迫る。
「っ!」
ティシアは咄嗟に後方へ跳び、距離を取る。剣を握り直しながら、黒焔獣を睨む。
(攻撃が当たるのはいい。けど……かなり硬い)
(影と炎……相性の悪い属性のはずだ)
ティシアは呼吸を整えながら、黒焔獣を見据える。
(それでも、その二つの力が一つになっている。なら……どこかに必ず弱点がある)
ゆっくりと息を吐く。ティシアは剣を握り直した。
そして――
黒焔獣を睨む。




