85.反魔晶
朝日がカーテンの隙間から差し込み、ティシアの顔を照らす。
「……朝か」
眩しさに目を細めながら、ティシアはゆっくりと身体を起こした。
まだ少し眠気が残っている。
隣では、ノアが眠そうに目を擦っていた。
「おはようです……」
「おはよう、ノア」
二人は身支度を整える。
窓の外からは、朝の街を行き交う人々の声が聞こえてくる。
昨日までの戦いが嘘のように、穏やかな朝だった。
ノアは杖を手に取ると、外へ出る準備を始める。
「私、ギルドで討伐依頼を受けてくるです」
「討伐依頼?」
「はい。魔法の練習をしたいので」
ノアは杖を握り、やる気に満ちた表情を見せる。
「そっか。じゃあ、行ってらっしゃい」
ティシアは軽く手を振る。
「僕はフシが起きるのを待つよ。精霊魔法を教わりたいし」
「分かったです」
ノアは頷く。
「それじゃ、行ってきます」
「気をつけてね」
「はいです!」
ノアは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「…………」
部屋の中が、静かになる。
ティシアはベッドへ腰を下ろした。
しばらく何をするでもなく、ぼんやりと天井を見上げる。
急いで出発する必要はない。
誰かに呼ばれているわけでもない。
今日、必ずやらなければならないこともない。
「…………」
そんなことを考えながら、ティシアはゆっくりと身支度を始める。
ふと、手が止まった。
「……」
鏡に映った自分を見る。
(王子だった頃もそうだけど……時間に余裕がある日って、あまりなかったな)
朝起きれば予定があり。
予定が終われば、次の予定が待っている。
周囲の期待に応えるために動き続ける。
次は何をするのか。誰と会うのか。
何を求められているのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今は違う。
今日一日の予定すら、まだ決まっていない。
「…………」
ティシアは、少しだけ不思議な気分になる。
自由になった。それは分かっている。
なのに――
何も予定がないということに、まだ少し慣れない。
ティシアは小さく息を吐いた。
そして、残りの身支度を終える。
「さて……」
ティシアは収納袋から本を一冊取り出した。
フシを起こしに行くには、まだ早い。
なら、起きるまで読んでいればいい。
そう考えたティシアは、フシの部屋の前まで移動する。
廊下の壁に背を預け、そのまま床へ座り込む。
本を開く。
「…………」
ページをめくる。
紙が擦れる小さな音だけが、静かな廊下に響いていた。
穏やかな朝だった。
ガチャ
扉が開く。
中からフシが出てきた。
「……ティシア?」
廊下に座って本を読んでいるティシアを見て、フシが少し目を丸くする。
「待ってたのか?」
「うん」
ティシアは本から顔を上げる。
「昨日は夜中に起きたからね。ゆっくりした方がいいかなって」
「そうか」
フシはティシアの手元へ目を向ける。
「『王政の歴史』……勉強してたのか」
「うん」
ティシアは本を閉じる。
「途中までしか読めてなかったからね。新しく買って、今度は最後まで読みたかったんだ」
そう言いながら、表紙を指先で撫でる。
成人式の日。
途中まで読んでいたこの本を、あの場所に置いてきた。
その続きを、今度こそ読み終えたい。
ティシアは本を抱えると、立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
二人は宿を出る。
そのまま街中を歩き、人の少ない場所を探していく。
やがて――
「ここならいいんじゃない?」
二人は海岸へ出た。人の姿はない。
聞こえるのは、波が砂浜を撫でる音だけだった。
二人は並んで腰を下ろす。
「精霊魔法を人に見られるわけにはいかないからね」
ティシアが周囲を見回しながら言う。
フシは頷いた。
「宿の中でもできるんだが……外の方が気分がいい」
そう言って、フシは懐から一つの水晶を取り出した。
緑色の水晶。
その内部には、薄っすらと青い光が混じっている。
「それは何?」
「反魔晶だ」
フシは水晶を手の中で転がす。
「ノアにしか見せてなかったな」
「反魔晶……」
ティシアは興味深そうに水晶を覗き込む。
「中にいる精霊が、魔力や魔法を押し返す」
「最初は、お前の力を抑えるためにノアへ渡したんだが……耐えきれずに割れた」
「使えるの?」
フシは首を横に振った。
「まだだ」
水晶を指先で軽く叩く。
「今から魔法陣を刻んで、精霊を入れないといけない。今はただの水晶だ」
フシは反魔晶を左手でしっかりと固定する。
そして、右手の人差し指を水晶の表面へ当てた。
「…………」
指先から、細い魔力の線が伸びる。
淡い光を帯びた線が、水晶の表面をゆっくりと走っていく。
一本。また一本。
線と線が交わり、円や細かな記号が形作られていく。
「魔力で魔法陣を作るんだ」
フシは手元から目を離さずに話す。
「一回きりなら、多少雑でもいい」
線を引く指が、わずかに動く。
「だが、何度でも使えるようにするなら、魔力を濃くして、正確に作らないといけない」
一本でも線がずれれば、魔法陣全体のバランスが崩れる。
フシはそれを確かめるように、時折指を止めては細部を確認していく。
「俺はエルフに会ったことがないから分かんないけど……」
細かな線を引きながら、フシが続ける。
「エルフは、こういう繊細な作業が得意なんだろうな」
「そうかもね」
ティシアは答えながら、フシの指先をじっと見ていた。
細い魔力の線が、水晶の上を滑っていく。
一つ一つの線に無駄がない。
複雑な模様が、少しずつ一つの魔法陣へと組み上がっていく。
「…………」
ティシアは黙ったまま、その作業を見続けた。
やがて――
一時間が経った。
「…………ふぅ」
フシが大きく息を吐く。
水晶の表面には、複雑な魔法陣が完成していた。
「できた~もう二度はしたくはないな」
フシが肩の力を抜く。
「あと、精霊を入れるだけだ」
「凄い時間かかったね」
「これは他の水晶より時間がかかるんだ」
フシは完成した魔法陣を確認する。
「しかも、効果を高めようと思えば、もっと複雑な魔法陣を作る必要がある」
「なるほど……」
フシは反魔晶をティシアへ差し出した。
「ほら」
「ありがとう」
ティシアは右手で受け取る。
「こんだけ頑張っても、使えるのは三回だ」
「三回だけ?」
「ああ」
ティシアは反魔晶を太陽へかざす。
陽光が水晶を透過する。
その内部で、刻まれた魔法陣が淡く浮かび上がった。
複雑に絡み合った線が光を受けて輝き、その一つ一つがはっきりと見える。
「…………綺麗だね」
ティシアは水晶を傾けながら、魔法陣を眺めていた。
「次に、精霊を入れるの?」
ティシアが反魔晶を眺めながら尋ねる。
フシは頷いた。
そして、自分の肩に乗っていた精霊へ手を伸ばす。
小さな精霊がふわりと浮かび上がり、ティシアの方へ移動してきた。
「これは失敗しても取り返しがつくからな。やってみろ」
「分かった」
フシはティシアの左手を取る。
「薄めでいいから、魔力を込めてみろ」
「こう?」
「そうだ。精霊は魔力に寄ってくる」
ティシアは指先へ、ほんの少しだけ魔力を集める。
すると――
精霊がゆっくりと動き始めた。
淡い光を揺らしながら、ティシアの指先へ近づいてくる。
「おお……」
精霊はティシアの指先へ触れる。
そのまま、離れない。
「今度は、そのまま反魔晶の中へ誘導する」
ティシアは反魔晶へ指を当てる。
だが――
「…………?」
精霊は入っていかない。ティシアが首を傾げる。
「水晶にも入り口があるんだ」
フシが水晶を覗き込む。
「ここだな」
フシはティシアの左手を取り、水晶の上側へ持っていく。
すると――
ふわっ。
精霊が吸い込まれるように、水晶の中へ入っていった。
水晶の内部で淡い光が揺れ、そのまま静かに消える。
「これで、反魔晶が完成する」
フシは水晶を懐へしまった。
続けて、別の水晶と、魔法陣が描かれた紙を取り出す。
「次は審判晶だ」
「嘘を判定するための水晶だね」
フシは紙に描かれた魔法陣をティシアへ見せる。
「この魔法陣だと一回きりしか使えない。その分、さっきの反魔晶より簡単だと思う」
「やってみるね」
ティシアは魔法陣を見ながら、水晶を左手で固定する。
そして、フシを真似るように、右手の指先を水晶へ当てた。
「…………」
魔力を流す。
細い線が水晶の表面へ伸びる。
だが――
「……あ」
線が歪んだ。
「もう一回」
消えてしまった線の上から、もう一度魔力を流す。
今度は途中で魔力が途切れた。
描かれた線が、淡い光とともに消えていく。
「…………難しい」
「最初から上手くいく方がおかしい」
フシはそう言いながら、ティシアの手元を眺めている。
ティシアは何度も魔力を流し直した。
線を引く。
歪む。消える。
また引く。
少しずつ、魔力の強さを調整していく。
強すぎれば線が太くなり、弱すぎれば途中で途切れる。
「…………」
ティシアは無言のまま、水晶だけに集中する。
一時間。二時間。
時間が経つにつれて、失敗する回数が少なくなっていった。
まだ魔力には多少のムラがある。
それでも――
最後の線を繋ぐ。
魔法陣が淡く光った。
「……できた」
ティシアが水晶を持ち上げる。
フシは眠そうな目で魔法陣を確認した。
「…………」
しばらく眺めたあと、頷く。
「ギリギリだが……使えるだろ」
「本当?」
「ああ。精霊を入れてみろ」
「精霊が見えないんだけど……」
ティシアは周囲を見回す。
フシは額に手を当てた。
「ああ……そうだった」
「お前は、力の強い精霊しか見えないんだったな」
フシはティシアから水晶を受け取る。
「俺がやろう」
慣れた手つきで、水晶へ指を当てる。
すると――
近くにいた精霊が水晶へ近づき、そのまま中へ吸い込まれていった。
「速いね」
「これを戦いながらしないといけないからな」
フシは水晶を眺める。
「自然と慣れる」
ティシアは宙に浮かんでいる精霊を見る。
「フシの目には、どんな精霊が見えるの?」
フシは少し黙って考える。
「そうだな…………」
そして、少しだけ言葉を選ぶように続けた。
「言い方が悪いが……虫みたいに、そこら中にいる」
「炎の精霊、水の精霊……」
フシは周囲へ目を向ける。
「いろんな精霊がいる」
「俺は、その中から捕まえて、水晶に宿ってもらうんだ」
「お前が見られるほどの精霊は、そこら中にはいない」
フシが指先で遠くを指す。
「点々といるんだが……あいつらは、すぐどっかへ行っちまうんだ」
「そうなんだ」
ティシアは周囲を見回す。
自分には見えない。
けれど、この場所にもフシには無数の精霊が見えているのだろう。
フシは完成した審判晶をティシアへ渡した。
「ほら。魔力も込めたから、起動するはずだ」
「何をすればいいの?」
「嘘をついてみろ」
「…………」
ティシアは審判晶を見つめる。
そして、気まずそうに目を逸らした。
「えっと……僕が嘘をついても、審判晶は真実だって判断するんだよね……」
「…………」
フシの手が止まる。
やがて、フシは審判晶をティシアの手から取り上げた。
「それは……ティシアが神と同化してるのが原因かもな」
「精霊にとって、神は絶対的な存在だ」
フシは審判晶を手のひらに乗せる。
「神が白と言えば……黒も白になるんだろう」
「……つまり、僕が何を言っても?」
「たぶんな」
ティシアは、ヴォルガルドの遺跡で遭遇したゴーレムを思い出す。
(ゴーレムが僕に従った理由も……それだな)
フシは審判晶を見下ろし、少し考える。
「じゃあ、俺はブドウが好きだ」
審判晶が――
赤く光った。
「…………」
ティシアは審判晶を見る。
「ちゃんと嘘を判定したな」
だが、次の瞬間。
ピシッ。
審判晶の内部に刻まれていた魔法陣に、亀裂が走った。
「……?」
描かれていた線が、ゆっくりと歪んでいく。
魔力の流れが途切れる。
「…………」
フシは審判晶を見つめる。
そして――
「……壊れたな」
水晶を裏返したり、角度を変えたりしながら確認する。
どこから見ても、もう魔法陣は機能していない。
フシは小さく息を吐いた。
「まあ、最初はこんなもんだ」
「腹が減った。どっか行こう」
「じゃあ、いい店連れてってよ」
ティシアも立ち上がり、フシの後をついていく。
「いいぜ。おいしい店、見つけたんだ」
二人が歩き出す。
その途中、ティシアがふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、フシは何が好きなの?」
「…………」
フシは少しだけ考える。
「リンゴだな」
「リンゴ?」
「ああ。あの食感がいい」
「じゃあ、あとでリンゴを買おう」
「サンキュ」
二人はそのまま、街の中へ歩いていった。
────────
フシについて行き、ティシアは店へ入る。
「ここのラーメンがうまいんだよ」
店内へ入った瞬間、湯気に混じって豚骨や鶏ガラの濃い香りが鼻をくすぐった。
奥では鍋が煮立ち、食器の触れ合う音が聞こえてくる。
「…………」
ティシアは店内を見回す。
先客は二人。
その顔を見た瞬間、ティシアの足が止まった。
「あ、龍殺しの英雄様じゃないか」
声をかけられ、ティシアが振り向く。
そこにいたのは――
あの船で一緒になった男たちだった。
「ああ。セレペンスのことだね」
ティシアは少し笑う。
「ギルドでも、そう呼ばれたよ。元気?」
「ああ」
男たちは笑って頷く。
「幸い、大きな怪我はなかったからな。あんたたちのおかげだよ」
「そっか」
その言葉を聞いて、ティシアはほっとしたように笑った。
一方、フシは少し気まずそうに視線を逸らしている。
しばらく黙っていたが――
やがて、意を決したように口を開いた。
「あの時は…………変に挑発して悪かった」
男たちは顔を見合わせる。
そして、否定するように手を振った。
「あれは、俺たちが悪かったんだ」
「…………」
「あの時は……生活に困ってて、余裕がなかったんだ」
男たちは二人を真っ直ぐに見る。
「俺たち、相談して決めたんだ」
「こうやって違法に人や物を運ぶ仕事から、足を洗う」
「これからは、できるだけ真っ当に生きるよ」
「そっか」
ティシアは頷く。
そして、懐から金貨を一枚取り出した。
「これ……」
男の目が大きくなる。
「金貨じゃねぇか。なんで俺たちに?」
慌てて返そうとする男に、ティシアは金貨を押し返す。
「船に乗せてもらったお代……かな?」
「いや、でも……」
「これなら、仕事を見つけるまで食べていけるんじゃないかな」
ティシアはそう言って笑った。
「大丈夫だよ」
「僕たちはもう、十分もらってるから」
「…………」
男はしばらく金貨を見つめる。
やがて、小さく頭を下げた。
「……ありがとな」
フシは少し気まずそうにしながらも、男の肩を軽く叩いた。
「今日は俺が奢ってやる」
そう言って、フシは男たちの隣の席へ座る。
「ティシアも座れよ。奢ってやる」
「ありがとう」
ティシアもフシの隣へ座り、卓上のメニューへ目を向ける。
「じゃあ……おすすめのラーメン教えて」
「それならこれだな」
フシがメニューを指差す。
「ここの豚骨ラーメン、うまいぞ」
「じゃあ、それにする」
ティシアは笑いながら、店員を呼んだ。
やがて、注文したラーメンが運ばれてくる。
白く濁ったスープから、熱い湯気が立ち上る。
鼻をくすぐる濃厚な香りに、ティシアは思わず箸を手に取った。
「いただきます」
「おう」
「いただきます」
男たちも箸を取る。
四人が同じ卓を囲み、ラーメンを啜る音が店内に混ざっていく。
戦場でもなく。
魔物との戦いでもない。
ただ、腹を満たして、くだらない話をするだけの時間。
ティシアは、そんな何気ない時間を静かに楽しんでいた。




