81.一騎打ち
薄れゆく意識の中、フシは海面を見上げていた。
遠くに見える月が、海面越しにぼんやりと揺れている。
その光も、少しずつ滲んでいく。
(……もう、力が……)
指先に力が入らない。腕を動かそうとしても、まるで鉛のように重い。
身体が、ゆっくりと海の底へ沈んでいく。
冷たい海水が身体を包み込む。
(……このままじゃ……)
意識が、また遠のきかけた。
そのとき――
フシの視界の端に、緑色の光が映った。
「…………?」
月光とは違う。
暗い海の中で、淡い緑色の光がゆらゆらと揺らめいている。
(……なんだ、あれ……)
ぼやける視界を凝らす。
光は、海底へ向かって沈んでいた。
それを見た瞬間――
フシの意識が、ほんの少しだけ戻る。
(……あれは……)
残された力を振り絞り、手を伸ばす。
腕が震える。指先が海水を掻く。
あと少し。
あと、ほんの少し――
指先が、硬い物に触れた。
「…………!」
フシは反射的に、それを掴む。
胸元へ引き寄せる。
淡い緑色の光が、フシの手の中で揺らめいた。
(……形成晶だ)
間違いない。
船を作るために使っていた、あの水晶だった。
(……まだ、使える)
フシは形成晶を握りしめる。
身体には、もうほとんど力が残っていない。
それでも――
ここで諦めるわけにはいかなかった。
(父さんを……探すんだ)
一年前。
墓の前で口にした言葉が、頭をよぎる。
(……まだ、父さんに会ってない)
フシは沈みゆく意識を無理やり繋ぎ止める。
そして――
最後に残った魔力を、形成晶へ流し込んだ。
────────
「ティシア! フシ! 助けてください!」
ノアは二人の男を背後に庇いながら、襲い掛かってくるセレペンスたちを相手にしていた。
「アースショット!」
放った岩がセレペンスの身体を正面から捉える。
吹き飛ばされたセレペンスが海面へ叩きつけられる。
だが――
「シャァッ!」
倒れた個体の横をすり抜け、別のセレペンスが迫ってくる。
「……っ!」
ノアは天照を振り、続けて魔法を放つ。
しかし、次から次へと別の個体が襲い掛かってくる。
時には、攻撃を掻い潜ったセレペンスの牙が腕や足を掠めた。
「……っ!」
鋭い痛み。傷口から血が流れ、海面を赤く染めていく。
何十匹倒しても――
終わりが見えない。
「はぁ……はぁ……」
息が上がる。
腕も重い。魔力も、少しずつ減っている。
それでも、ノアは男たちの前から退かなかった。
「……怖いです……」
震える声が漏れる。
恐怖を抑えきれず、目から涙がこぼれた。
それでも――
天照を握る手だけは、緩めない。
「アースショット!」
また一体を吹き飛ばす。
「……ティシア……」
息を整える暇もない。
「……フシ……」
二人の名前を呟いた、その時――
バシャッ!
目の前の海面が、突然弾けた。
「……え?」
海中から、セレペンスが飛び上がる。
「────!」
牙が迫る。
避ける暇はない。
ノアが目を見開く。
「もう――」
パンッ!
海底から伸びた蔓が、セレペンスを横から弾き飛ばした。
一本だけではない。
海底から何本もの蔓が伸び、次々とセレペンスへ襲い掛かっていく。
「…………?」
ノアは呆然と蔓を見つめる。
「これは……」
その直後――
海底から、さらに一本の蔓が伸びてきた。
その先に、誰かがいる。
「…………!」
蔓に身体を持ち上げられ、そのまま海面へ引き上げられてくる。
「フシ……!」
ノアの顔が、ぱっと明るくなる。
「レビテーション!」
ノアはすぐに天照をフシへ向ける。
浮力を失ったフシの身体が、ゆっくりと海面へ降ろされる。
「ゲホッ……ゲホッ……!」
フシは激しく咳き込み、口から海水を吐き出した。
肩を大きく上下させながら、荒い息を繰り返す。
やがて、フシはノアへ顔を向けた。
「フシ! 大丈夫ですか?」
「大丈夫…………」
声は掠れていた。
それでも、フシは呼吸を整えながら答える。
「形成晶を海底に置いてきた」
フシは海底から伸び続ける蔓へ目を向ける。
「中の精霊が、ある程度は自分で動いてくれる」
蔓が一体のセレペンスを絡め取り、海面へ叩きつける。
「俺が込めた魔力が尽きるまで、援護してくれるはずだ」
フシは膝に手をつく。身体はまだ重い。
それでも、ゆっくりと立ち上がった。
そして――
腰から短剣を抜く。
「弓矢は流されちまった」
短剣を握り直す。
「ティシアは?」
ノアは周囲を見渡す。
海面には、無数のセレペンス。
砕けた船の残骸。
そして――
「いません……」
ノアの声が震える。
「それに……水龍も消えました!」
「…………」
フシの表情から、疲労が消える。
────────
ティシアは海の中で、襲い掛かってくるセレペンスを切り倒していた。
上から。下から。
前後左右――あらゆる方向から牙が迫ってくる。
「……!」
水の抵抗が身体にまとわりつき、思うように動けない。
それでも、迫ってくる牙を見極め、剣を振るう。
一匹を切り裂く。
その直後、背後から別の個体が迫る。
ティシアは身体を捻った。
ザンッ!
剣がセレペンスの身体を断ち切る。
切り裂かれた身体から血が流れ、海水の中へ赤い筋が広がっていく。
その間にも――
左目が、少しずつ回復していた。
潰れた眼球が形を取り戻す。失われていた視界が、徐々に戻っていく。
「何で……そこまでして僕らを襲うのかな……」
ティシアの視線の先。
海中に、水龍がいた。
濁った目が、まっすぐティシアを睨みつけている。
「もしかして……」
ティシアは周囲へ目を向ける。
先ほどまで戦っていたセレペンスたち。
そして、そのさらに上方。
「君の真上で、仲間を倒したこと……怒ってる?」
水龍の身体が、ゆっくりと動く。
巨大な鱗が海水を押し分ける。
そして――
肯定するように、大きな口が開いた。
「……やっぱり、そうなんだ」
水龍が、ティシアへ向かって進み始める。
海水を押し退けながら、巨大な顎が迫ってくる。
その巨体が近づくだけで、水流が乱れる。
ティシアの身体が、わずかに押し流された。
「……怖いな」
握っている剣が、わずかに震える。
これほどの巨体と海中で戦えば――
何度、死ぬことになるか分からない。
噛み砕かれる。潰される。身体を引き裂かれる。
そのたびに、激しい痛みが襲ってくる。
不死身だからといって――
痛みまで消えるわけじゃない。
むしろ、死ぬことができないからこそ、その痛みから逃げることもできない。
「…………」
それでも。
ティシアは剣を握り直す。
「でも……逃げるわけにはいかない」
ノアもいる。
フシもいる。
自分がここで逃げれば――
あの二人まで危険に晒される。
「……来い」
ティシアは震える手に力を込める。
恐怖を押し殺し、水龍を睨み返す。
「僕が相手だ」
バチンッ!
水龍の口が、勢いよく閉じた。
「……!」
ティシアは身体強化を使い、横へ逃れる。
だが――
右足に牙が掠めた。
次の瞬間、足が途中から切断される。
「……っ!」
激痛が走る。
ティシアは歯を食いしばり、意識を繋ぎ止める。
巨大な顎が、すぐ横を通り過ぎていく。
(狙うは……目)
ティシアは身体を反転させる。
水流に逆らいながら、水龍へ向かって剣を振り抜く。
グサッ!
剣が、水龍の目へ深々と突き刺さった。
「ギャアアアアッ!!」
水龍が激しく身をねじる。
ゴォォォッ!
海水が一気にかき乱される。
巨大な身体が生み出した渦に、ティシアの身体も巻き込まれていく。
「……っ!」
身体が回転する。
それでも――
ティシアは剣を握りしめたまま、離さなかった。
口から大量の空気が抜けていく。
(呼吸をしなくても、活動できるのは助かった)
(けど……かなり苦しい)
水龍が身体を大きくねじった。
ゴッ!
巨体が海底へ叩きつけられた。
その衝撃が水中を走り、ティシアの身体を激しく揺さぶる。
「……っ!」
身体が海底へ打ちつけられ、骨が軋む。
肋骨が折れる鈍い音が響いた。
(あばらが折れた……でも、これくらいなら一分以内に治る)
痛みに耐えながら、ティシアは剣を握る手に力を込める。
そして――
目に突き刺さった剣を、さらに深く押し込んだ。
そのまま剣を横へ振り抜く。
水龍の目が大きく裂ける。
傷口から血が流れ、海水の中へ赤い筋が伸びていく。
「ギャア”ア”ッ!!」
巨大な身体が激しくのたうつ。
だが――
それだけでは終わらなかった。
水龍は身体を海底へ押しつける。
そのまま――
横へ滑った。
ズズズズズッ!
巨大な身体が海底を削りながら進んでいく。
(……潰す気か!)
ティシアの身体が、海底と巨体の間へ挟まれる。
「ぐっ……!」
全身に凄まじい圧力がかかる。
骨が、さらに軋む。
このままでは――
身体ごと擦り潰される。
(まずい……!)
ティシアは咄嗟に剣を握り直す。
そして――
目に突き刺さった剣を引き抜いた。
血が噴き出す。
水龍の身体が海底を擦りながら通り過ぎていった。
ティシアは海底に取り残される。
「…………」
だが、休む暇はない。
水を切る音が響いた。
ヒュンッ!
水龍の鱗が、弾丸のように飛んでくる。
「……っ!」
ティシアは剣を振るう。
一枚。二枚。三枚。
飛来する鱗を次々と打ち落とす。
(このセレペンス……パワーもスピードもかなりある。どうすれば――)
考える暇もなかった。
横から、巨大な顎が迫ってくる。
「……!」
(避けられない!)
ティシアは咄嗟に剣を鞘へ戻した。
両腕を交差させ、身体を縮める。
「影狼!」
バチンッ!
水龍の口が閉じた。
鋭い牙が、ティシアの身体へ食い込もうとする。
だが――
牙は、ティシアの身体を完全には捉えられなかった。
全身を覆った影狼の力が、牙と身体の間に入り込んでいる。
ギギギ……
巨大な顎が、さらに力を込める。
それでも――
ティシアの身体は、喰い千切られない。
水龍も動かない。ティシアも動けない。
互いの力が、拮抗していた。
(……月光が刺してる)
ティシアは、わずかに差し込む月明かりを感じる。
(完全に暗くなれば……影狼の力も、もっと強くなる)
そう考えた、その時――
ガブッ!
横から、普通のセレペンスがティシアへ噛みついた。
「何でこの時に!」
別の牙が、影狼に覆われた身体へ食い込む。
「……っ!」
その瞬間――
影狼の力が、大きく揺らいだ。
「……まずい!」
黒い影が、波打つ。
バチッ!
影の一部が弾けた。
防御が崩れる。
「……っ!」
巨大な顎が、一気に閉じた。
「ぐあっ!」
ティシアの身体が、水龍の口の中へ引きずり込まれる。
その奥には――
何重にも並んだ、大量の歯。
ザシュッ!
鋭い歯が身体へ食い込み、肉を切り裂いていく。
腕。足。腹。顔。
全身を激痛が駆け巡る。
「――ッ!」
声を上げることすらできない。
それでも――
ティシアは耳飾りと腕輪だけは離さなかった。
両手でそれらを必死に押さえ込む。
そして、そのまま――
ティシアの身体は、水龍の喉の奥へと引きずり込まれていった。
────────
ティシアは、真っ暗な空間で目を覚ました。
「…………」
身体を動かす。
傷は――すでに完全に治っていた。
ゆっくりと息を吸う。僅かだが、空気はある。
だが、外の空気とは明らかに違った。
「……臭い」
鼻の奥へ、生臭さがまとわりつく。
湿った獣のような臭い。
腐った肉にも似た、嫌な臭いが混じっている。
「……気持ち悪いな」
ティシアは顔をしかめた。
身体を起こそうとした、その時――
手が何かに触れた。
「……?」
指先を動かす。
ブヨブヨとした、柔らかな感触。
表面にはぬめりがあり、触れるたびに指が沈み込む。
「…………」
ティシアはすぐに手を離した。
すると――
周囲の壁が、わずかに動いた。
「……!」
ドクン。
遠くから響いたような振動が、身体へ伝わってくる。
また――
ドクン。
今度は、先ほどよりも大きい。壁そのものが、脈打っている。
(……動いてる)
ティシアは耳を澄ます。
低い音が、身体の周囲から響いてくる。
水龍が身体を動かすたび、内部全体がゆっくりと揺れていた。
足元には粘液が溜まっている。
靴底が沈み、ぬるりとした感触が足へ伝わる。
肌にも冷たい液体がまとわりついていた。
「……最悪だ」
ティシアは立ち上がる。
周囲を探るように手を伸ばす。
だが――
何も見えない。光は一切ない。
自分の手すら見えないほどの、完全な暗闇だった。
「ここは……セレペンスの体内か…………」
ティシアは息を吐く。
そして、右手を前へ伸ばした。
「影狼――」
その瞬間。
「……っ!」
身体の奥を突き刺すような激痛が走った。
「ぐっ……!」
膝から力が抜ける。
その場に崩れ落ちた。
「オエッ……!」
胃の中から込み上げてきたものを吐き出す。
荒い息を繰り返しながら、身体を震わせる。
(影狼を……使い過ぎたか)
しばらく動けない。
やがて、ティシアは震える手を持ち上げた。
(頑張れば……あと一回くらいなら使えそうだ)
だが――
(ここで使ってもいいのか)
ティシアは周囲の暗闇を探る。
(暴れて、このセレペンスに致命傷を与えられるとは限らない)
巨大な身体。
分厚い鱗。
そして、外からではなく、その内側にいる自分。
(下手に使えば……俺の方が先に動けなくなる)
ティシアは拳を握った。
その脳裏に、ノアとフシの姿が浮かぶ。
外では、まだ二人がセレペンスに襲われているはずだ。
ここで時間を使っている余裕はない。
「…………賭けに出るか」
ティシアは一度、深く息を吸った。
そして――
剣、耳飾り、腕輪。
身につけていた大切な物を、収納袋へ入れていく。
(セレペンスは、水の中に生息している)
ティシアは暗闇の中で考える。
(なら……炎への耐性は、ないんじゃないか?)
確証はない。
それどころか――
炎竜を使えば、自分自身も無事では済まない。
それでも。
ここで何もしなければ、状況は何も変わらない。
ティシアは拳を握る。
そして、小さく呟いた。
「炎竜」




