80.フシ・プネヴマ
水龍は、身体を大きくうねらせた。
ザバァァンッ!!
巨体に押し退けられた海水が、激しく跳ね上がる。
その巨体が再び海面へ身を沈める。
そして――
ダダダダダダダダッ!!
無数の鱗が、船へ向かって一斉に飛んできた。
「……!」
フシが手を伸ばす。
だが、それよりも早く――
バキバキッ!
植物の船体から大量の蔓が伸びた。
蔓同士が絡み合い、瞬く間に分厚い壁を作る。
飛来した鱗が、正面から次々と突き刺さった。
バキッ!
バキバキッ!
蔓が軋む。
だが――
一本の鱗が、蔓の壁を突き破った。
続けて二本。三本。
バキバキバキッ!!
壁の至るところに亀裂が走る。
次の瞬間、崩れた隙間から無数の鱗が船内へ飛び込んできた。
「危ないです!」
ノアが叫ぶ。
「任せて!」
ティシアが前へ出る。
剣を握り直し、迫り来る鱗を見据えた。
一枚。二枚。三枚。
飛来する鱗の軌道を見極め、剣で正確に弾き落としていく。
だが――
「…………!」
死角から、一枚。
ザクッ!
鋭い鱗が、ティシアの左目へ深々と突き刺さった。
「────ッ!!」
激痛が頭の奥まで突き抜ける。
視界が一瞬、真っ白になった。
それでも――
ティシアは倒れなかった。
歯を食いしばり、右手の剣を握り直す。
左目に鱗が突き刺さったまま、飛来する鱗を次々と叩き落としていく。
「……っ!」
最後の一枚を弾き飛ばす。
ようやく攻撃が止まった。
ティシアは剣を下ろす。
「おい!」
男の一人が駆け寄る。
「大丈夫か!?」
ティシアは答えず、左目へ手を伸ばした。
指先に、鱗の硬い感触が伝わる。
そして――
ズルッ
鱗を引き抜く。眼球ごと。
「…………」
血が、顔を伝って流れ落ちる。
ティシアは引き抜いた眼球を手にしたまま、何事もなかったかのように口を開いた。
「……大丈夫」
そして、男たちへ視線を向ける。
「次のバリスタを準備して」
「…………」
男たちは動かなかった。
いや――
動けなかった。
目の前で、人間なら致命傷になるはずの傷を負った少年が、まるで何もなかったかのように戦闘を続けようとしている。
「……あんた……」
男の一人が、震える声を漏らす。
ティシアは男の恐怖した目に心を乱す。
だが、再び水龍へ目を向ける。
その左目では――
すでに再生が始まっていた。
(脳も損傷してる)
左目の奥に残る痛みを感じながら、ティシアは冷静に考える。
(今回は回復に時間がかかるな)
ティシアは左目に手を当てる。
指の隙間から、赤い血が滴り落ちた。
そのときだった。
ティシアが、ふと違和感を覚える。
水龍の姿がない。
先ほどまで海面を埋め尽くしていた巨体が、どこにも見当たらなかった。
「逃げた……?」
ティシアは周囲を見回す。
「いや、どこかにまだ――」
バシュッ!
海水を切り裂く音が響いた。
「……!」
ティシアが振り向く。
その瞬間――
巨大な尻尾が、船へ向かって振り下ろされていた。
「――ッ!」
ティシアはノアとフシを見る。
二人はまだ、迫り来るセレペンスたちの処理に追われている。
気づくのが、遅れた。
「避けられない!」
ドガァンッ!!
巨大な尻尾が船体を直撃した。
木の蔓が弾け飛ぶ。
船体が大きくひしゃげ、軋みながら形を崩していく。
「まずい!」
フシが叫ぶ。
だが――
巨大な力に耐え切れず、船体が一気に砕け散った。
無数の破片と蔓が、海面へ叩き落とされる。
ティシアたちの乗っていた船は――粉々に砕け散った。
「うわっ!」
「きゃあっ!」
足場を失った全員の身体が、宙へ投げ出される。
フシは空中で身体を捻る。
視線の先には、砕け散った船の破片。
(もう一度、船を作る!)
周囲を見回す。
船を作るために使っていた形成晶が見当たらない。
砕けた船の破片に紛れて、海へ落ちたのだ。
「どこだ……!」
フシは必死に目を走らせる。
だが、無数の木片と蔓が海面へ散らばっている。
見つからない。
その間にも、身体は落ちていく。
「くそっ……!」
フシは手を伸ばす。
だが、掴めるものは何もなかった。
その時――
「レビテーション!」
ノアが天照を掲げた。
ノアの身体が浮かび、空中でゆっくりと落下していく。
「…………!」
しかし――
ティシアと二人の男は、ノアの魔法の範囲から外れていた。
「もっと近づいてください!」
ノアが叫ぶ。
「分かった!」
ティシアはノアへ向かって身体を動かそうとする。
だが――
「…………っ」
進まない。
腕を伸ばしても、空気しか掴めない。
足を動かしても、何も蹴れない。
(……くそっ!)
地面も、船もない。
身体を押し出すための足場がない以上、空中では自力で距離を詰められない。
「近づけない……!」
ティシアが焦りの声を上げる。
「ティシア!」
ノアは天照を握り直した。
「私が行くです!」
「ノア!?」
ノアはレビテーションを維持したまま、風を後方へ噴き出す。
「ウィンドバースト!」
ゴォォォォッ!
突風がノアの身体を押し出す。
浮かんでいた身体が、一気に前へ進んだ。
「つかんで!」
ノアが手を伸ばす。
だが――
男たちは、ノアとは反対側にいた。
しかも、二人ともすでに気を失っている。
このままでは、レビテーションの範囲に入れることができない。
「……だったら!」
ティシアは男たちへ腕を伸ばす。
「影狼!」
腕から影が噴き出し、黒く染まっていく。
ティシアは、その腕を見つめる。
(影は……形を持たない)
(大きくするだけじゃない)
黒い腕を見つめながら、考える。
(形を変えられるなら……)
(伸ばすことも、できるはず……)
「届け!」
腕を覆っていた影が、一気に前へ伸びた。
まるで一本の黒い帯のように、空中を走っていく。
伸びた影が、男たちへ迫る。
そして――
影が一人の男の身体を掴んだ。
続けて、もう一人にも絡みつく。
「よし……!」
ティシアは二人を掴んだ影を引き寄せる。
そして、ノアへ振り向いた。
「ウッ…………」
「……?」
ノアの手から、血が流れていた。
「何が――」
ガブッ!
その瞬間だった。
船の破片とともに打ち上げられていたセレペンスが、ティシアへ飛びかかる。
「……!」
鋭い牙が、ティシアの喉へ深々と食い込んだ。
「グッ……!」
血が噴き出す。
喉を貫かれたティシアの身体が、大きく揺れる。
それでも――
ティシアは構わなかった。
二人の男を掴んだ影を、ノアへ向かって振り抜く。
「ティシアもこっちに!」
ノアの叫び声が響く。
男たちの身体がノアの近くへ投げ出される。
その直後――
ティシアの身体が、セレペンスとともに海へ落ちた。
ノアは水面に浮かびながら、必死に周囲を見回す。
「ティシア……!」
だが――
姿が見えない。
先ほどまで、数え切れないほどのセレペンスが海面を埋め尽くしていた。
その数は、明らかに減っている。
それでも――
まだ、多い。
「……フシもいないです!」
ノアは必死に周囲を探す。
だが、フシの姿も見つからない。
「…………」
ノアの顔から、血の気が引いていく。
────────
フシは、海の中へ沈んでいた。
(確か……飛んできた船の破片に当たって…………)
身体に力が入らない。
手足を動かそうとしても、思うように動かなかった。
口から、残っていた空気がゆっくりと抜けていく。
「…………」
冷たい海水が身体を包み込む。
光の届かない海の中は、暗い。
音も遠くなっていく。
(……まずい)
身体が、沈んでいく。水面がどんどん遠ざかる。
(こんなところで……死ぬわけにはいかない)
必死に意識を繋ぎ止めようとする。
だが、身体は動かない。
視界が滲む。意識が、少しずつ遠のいていく。
それでも――
最後に頭へ浮かんだのは、一つのことだった。
(まだ……父さんに会ってない)
────────
フシは、神聖国家アルカディアの田舎で育った。
十歳の頃。
ある日、ふと疑問に思ったことがあった。
「俺の親って、どんな人なの?」
フシの実の両親は、物心がついた頃にはすでにいなかった。
残されたフシを引き取ったのは、同じ村に住んでいた一人のおばあさんだった。
「そうねぇ……」
おばあさんは少し考え込むように、顎へ指を添える。
やがて、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「あなたのお母さんは……何といえばいいのかしらねぇ」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「純粋で、人を引き寄せるような優しさを持った人だったわ」
「例えば?」
フシが身を乗り出す。
「傷ついた小鳥を見つければ、放っておけなかったり……」
おばあさんは、窓の外へ目を向ける。
「枯れかけた花を見つけた時も、家へ持って帰って、一生懸命育てていたわ」
「ふーん」
十歳のフシは、なんとなく頷いた。
自分の知らない母親を、頭の中で想像する。
小鳥を手のひらに乗せている姿。
花に水をあげている姿。
「でも、あの人は生まれつき身体が弱くてね」
おばあさんの声が、少しだけ沈む。
「まるで…………」
そこで言葉が止まった。
「まるで?」
フシが首を傾げる。
おばあさんはしばらく黙っていた。やがて、静かに口を開く。
「儚い花のような人だったわ」
「そうなんだ」
フシは短く答えた。
おばあさんは、そんなフシの顔を見ながら話を続ける。
「そんなお母さんに惹かれたのかしらね。あなたのお父さんは、よく話しかけていたわ」
「お父さんから?」
「ええ」
おばあさんが小さく笑う。
「何度も話しているうちに、お母さんの方がお父さんを好きになってね」
「それで、二人は結婚したの」
「へぇ……」
フシは少しだけ目を丸くした。
自分の知らないところで、そんな二人の時間があったのだ。
けれど、おばあさんの表情から、笑みが消える。
「でも……」
その声が、静かになる。
「お母さんは身体が弱かったからね」
「あなたを生んですぐに、亡くなってしまったわ」
「…………」
フシは俯いた。
自分の知らない母親。
顔も知らない。声も知らない。
どんな話し方をして、どんな笑い方をしていたのかも分からない。
それでも――
優しい人だった。小鳥を助けて。花を育てて。
人を惹きつけるほど、優しい人。
フシは、そんな母親の姿を頭の中で思い浮かべた。
おばあさんは少し間を置いてから、顔を上げる。
「次は、あなたのお父さんね」
「あなたのお父さんは、お母さんが亡くなってすぐ、どこかへ消えてしまったわ」
「…………俺を置いて?」
フシの声が、少し小さくなる。
「そう」
おばあさんは静かに頷く。
「秘密の多い人だったわ。最初は、エルフだなんて知らなかったもの」
「それに……あなたが見ている光る玉も、お父さんから受け継いだものなんでしょうね」
「これ?」
フシは、自分の肩の近くを漂う光へ手を伸ばす。
光はフシの指先を避けるように、ふわりと揺れた。
「ええ。それは精霊っていうらしいわ」
「精霊……」
フシは、その小さな光をじっと見る。自分には当たり前のように見えているもの。
けれど、それが父親から受け継いだものだと聞くと、少しだけ違って見えた。
おばあさんは、傍らに置いていた一冊の手帳を手に取る。
そして、それをフシへ差し出した。
「これは?」
「お父さんの日記よ」
「日記……?」
「何冊か持っていたんだけどね」
おばあさんは、少し寂しそうに笑う。
「今残っているのは、それだけ」
フシは両手で日記を受け取った。
古びた表紙。端は擦れていて、何度も持ち歩いた跡が残っている。
「…………」
ページを開く。
そこには、知らない文字と、知らない人の時間が残されていた。
何を思っていたのか。どんな人生を歩んできたのか。
そして――
どうして自分を置いて行ったのか。
それが知りたかった。
おばあさんは、日記に釘付けになっているフシを見ながら、静かに口を開く。
「お父さんは、おそらくまだどこかで生きているわ」
「…………」
フシの指が、ページの端で止まる。
「あなたは精霊魔法も使えるし……」
おばあさんは、フシを見る。
「きっと、お父さんから受け継いだものもあるのでしょうね」
「…………父さんから」
フシが小さく呟く。
おばあさんは、フシの頭を優しく撫でる。
「もう少し大人になったら、探しに行きなさい」
「…………」
フシは答えなかった。
しばらくして――
「別に、父さんのことなんてどうでもいいし」
フシは、おばあさんの手を払いのける。
そう言いながらも――
フシの視線は、日記から離れなかった。
────────
それから、十四年が経った。
フシは、おばあさんの墓の前に立っていた。
静かに手を合わせる。
「…………俺、父さんを探しに行く」
誰もいない墓へ向かって、フシは言葉を続ける。
「シルヴァリアだけじゃなくて、世界中を探し尽くす」
懐から白い水晶を取り出す。
その水晶を、そっと握りしめる。
「どうか、見守っててくれ」
フシは白い水晶を懐へ戻す。
そして――
墓に背を向けた。




