75.ハーフエルフの青年
黒い手に首を掴まれ、フシの身体が宙へ持ち上げられていた。
足が地面から離れ、つま先が空を蹴る。
「ぐっ……!」
首を締めつけられ、フシの喉から苦しげな声が漏れる。
それでも、フシは弓を手放さなかった。
ティシアはフシを見上げる。
「これを解け」
命令に従うように、ゴーレムの木の根がティシアの身体から離れていく。
絡みついていた根が一本、また一本とほどけ、地面へ落ちた。
自由になったティシアは、フシへ歩み寄る。
「俺は……解けなんて……言ってないぞ……」
フシが苦しそうに言葉を絞り出す。
黒い手が消えていく。
支えを失ったフシの身体が地面へ落ちる。
「ゴホッ! ゴホッ!」
フシは首を押さえながら激しく咳き込む。
何度も荒い呼吸を繰り返し、目には苦しさから涙が滲んでいる。
それでも、弓だけは離さなかった。
ティシアはそんなフシを見下ろす。
口の中に、鉄のような血の味が広がっていた。
(影狼は……刃を作ったり、口を増やしたりしてた)
ティシアは自分の手を見る。
先ほどまで黒い手を生み出していた場所には、何の痕跡も残っていない。
(できるか試してみたけど……うまくいってよかった)
ティシアは、自分の中にある影の力を確かめるように、指をゆっくり動かした。
「大丈夫ですか!」
馬車からノアが駆けてくる。
ティシアは、フシに襲われたことを説明した。
────────
「やっぱり敵でしたか。怪しいと思ってたです」
ノアはフシの傷を治療しながら、身体にロープを巻きつけていく。
「動かないでください」
「……分かった」
フシは抵抗しなかった。
ノアの視線が、ふとフシの右腕で止まる。
そこには木が何重にも巻きつき、皮膚へ食い込んでいた。
「……これは?」
フシが自分の右腕へ目を落とす。
「ティシアに腕を折られたから、使えるようにしたんだよ」
そう言って、フシは右腕をわずかに動かした。
ミシ……
木が軋む。
その振動が、折れた骨の奥まで響いているようだった。
「このままだと弓を使えないからな」
ティシアは右腕を見る。
(腕を折った?)
そこで、目を覚ましたときのことを思い出した。
王宮で襲ってきた、透明な人間。
「……たしか王宮で、透明な人の腕を折ったね」
フシは答えなかった。
しばらく沈黙が続く。
やがて、フシは諦めたように息を吐いた。
「あれは俺だ」
ノアの手が止まった。
「じゃあ……デルトを殺したのも、あなたですね」
フシは顔を伏せる。
「……済まなかった」
ノアの拳が、ゆっくりと握り締められる。
爪が掌へ食い込む。
「謝って済むことじゃないです」
フシは何も言い返さなかった。
「……あの人を殺すつもりはなかった」
「ティシアを狙ってたですよね」
ノアはフシをまっすぐ見据える。
「……何故ですか」
フシは視線を落とした。
「ノアを初めて見たとき……心を奪われたんだ」
「え?」
ノアが目を瞬かせる。
「俺は、あんなに精霊がついている人間を見たことがなかった」
ティシアが首を傾げる。
「ノアの周りに精霊なんて見えないけど……」
「お前が見えているのは、他より力の強い精霊だけだ」
フシはティシアを見る。
「力の弱い精霊は、お前には見えないんだろう」
「そうなんだ……」
フシは再びノアへ視線を戻す。
「でも……ノアには、もう一つ気になるものがあった」
ノアの表情が曇る。
「気味の悪い気配だ」
フシの声が低くなる。
「ノアに纏わりついている力だった」
「人間とも違う。神とも、魔物とも違う」
フシは僅かに眉を寄せる。
「俺は、あんな気配を見たことがなかった」
拳が、ゆっくりと握られる。
「だから思ったんだ」
「放っておいたら……ノアに何か起きる」
フシはノアを見る。
「ノアが、そいつの近くにいたら……絶対に良くないことが起きるって」
ティシアが口を開く。
「それで……僕を?」
「ノアが『ティシアを救う』と言ったとき、確信した」
フシはティシアを睨む。
「お前に近づけば、ノアが危険な目に遭う」
「だから、僕を殺そうとした」
「……そうだ」
フシは否定しなかった。
「儀式を邪魔すれば、ノアが危険な目に遭うことはないと思った」
「だから王宮に潜入した」
「情報を集めて……それを聖騎士に伝えた」
フシは淡々と続ける。
「それが失敗した後は、偶然を装ってこの馬車に乗った」
「精霊に監視を任せていたからな。俺は何も知らない顔をして、普通にしていればよかった」
フシは自嘲するように笑う。
「ひっそりと殺す予定だったが……この姿を見られて焦ったな」
ノアは天照を強く握りしめる。
「……ティシアに変な気配がある」
怒りを押し殺すような、低い声だった。
「それだけで、これだけのことをしたんですか」
「あれほど悍ましい気配は見たことがない」
フシは迷いなく答える。
「あれは、ノアの傍にいていいものじゃないって――」
ゴンッ!
天照がフシの頭へ振り下ろされた。
「ティシアのことを知らないくせに、勝手なことしないでください!」
ノアの声が、静かな夜に響き渡る。
それでも、怒りは収まらない。
「えいっ!」
ノアはフシの身体を蹴り飛ばした。
「うおっ……!」
フシの身体が地面を転がっていく。
何度か土の上を転がったあと――
そのまま動かなくなった。
「最低限の治療はしたので、馬車に戻れです!」
ノアは怒ったまま、倒れたフシを指差す。
ティシアは倒れているフシの顔を覗き込む。
「ノア……フシ、気絶しちゃってる」
フシは白目をむいたまま、ぴくりとも動かない。
「……」
ノアはフシを見下ろす。
「自業自得です」
────────
馬車が揺れる。
車輪が地面の凹凸を踏むたび、車体が軋み、身体が小さく跳ねた。
その揺れの中で、フシはゆっくりと目を覚ます。
「……ここは?」
「起きた?」
すぐ近くから声がした。
ティシアがフシの顔を覗き込んでいる。
フシは身体を起こし、自分の右腕へ目を落とす。
身体に巻かれていたロープは解かれていた。
折れていたはずの腕も、すでに元通りになっている。
「……治したのか?」
「うん。ノアがね」
フシはティシアを見る。
そして、ふと目を細めた。
「君は……エルフなんだよね?」
その言葉を聞いた途端、フシの手が耳へ伸びる。
長い耳を隠すように、髪をかぶせた。
「……正確には、人間とのハーフだ」
「そうなんだ」
ティシアはそれ以上、追及しなかった。
フシは少し拍子抜けしたように眉をひそめる。
「……で、お前は俺をどうするつもりだ」
「どうするって?」
ティシアが首を傾げる。
「奴隷商人にでも売るつもりか?」
「ん?」
ティシアは少し考える。
「別に、何もしないよ」
「騙されないぞ!」
フシが声を荒らげる。
「お前を殺そうとしたんだぞ。それで何もなしってのは、おかしいだろ」
ティシアは顎に手を添え、少し考える。
「今回のことは、ノアを思ってしたんでしょ」
そして、フシを見る。
「僕は、君を恨むつもりはないよ」
「ノアも、時間はかかるだろうけど……許そうとはしてるみたいだよ」
フシはノアへ目を向けた。
ノアは顔を背けている。
「…………デルトを殺したのは、許せないです」
小さく握られた手に、力が入る。
「でも……デルトは、私を守るために何人もの人を不幸にしてきたです」
ノアは俯く。
しばらく、言葉が出てこない。
「だから……」
唇が、わずかに震える。
「ある意味……天罰だったんじゃないかって、そう思ってしまうです」
フシは何も言わず、その言葉を聞いていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
そして、深く頭を下げた。
「……もう一度、ちゃんと謝ろう」
「皆に迷惑をかけてしまって、本当に済まなかった」
ティシアはフシを見る。
「僕に関しては……手配書の件もあるし、仕方がないよ」
「…………」
ノアは何も言わなかった。
フシはそのまま座り、耳に付いた水晶へ触れる。
すると、水晶が淡く光った。
光が耳を包み込み、長く尖っていた耳が少しずつ短くなっていく。
やがて、人間とほとんど変わらない形になった。
「何それ?」
ティシアが尋ねる。
「これは投影晶だ」
フシは耳に触れながら答える。
「周りの景色と同化したり、こうやって姿を変えたりできる」
「凄いね。ゴーレムとかはどうやって出したの?」
フシは懐から別の水晶を取り出す。
すると、水晶が淡く光り、その内部から木の根が伸びた。
「これは形成晶だ」
伸びた木の根がフシの腕へ絡みつく。
「中にいる精霊が木の根を作って、それを操れる」
「大きいゴーレムを作るとなれば、準備が必要だがな」
ティシアは興味深そうに頷く。
「精霊魔法って、全部水晶を使うの?」
「そういうわけじゃない」
フシは水晶をしまう。
「精霊が見えて、魔法陣を刻めるものなら何でもいい。水晶の方が精霊が干渉しやすいってだけだ」
「そうなんだ」
ティシアが頷く。
フシは少しだけ気まずそうに、自分の耳へ触れた。
「……良かったら、お前のことも教えてくれ」
「ティシア……さん」
ティシアはちらりとノアを見る。
ノアは何も言わず、こちらを見ていた。
「ティシアでいいよ」
少し考えてから、ティシアは続ける。
「そうだね……僕の名前も知ってるなら、もう自分のことを話してもいいかな」
ティシアはフシに、これまでのことを簡潔に話した。
サーナトスとアルジャのこと。
そして、ノアがもともと聖女だったこと。
フシは黙って話を聞いていた。
やがて、両手を組み、俯く。
「そうか……」
しばらくして、フシは顔を上げた。
「マジで悪かったな」
その声には、先ほどまでの警戒した様子はなかった。
「そんなお前のこと、何も知らずに……」
フシは一度言葉を切る。
そして、二人をまっすぐ見る。
「その代わりってわけじゃないが……お前らのことを手伝う」
「シルヴァリアへの入国も、協力できるかもしれない」




