65.気の狂った従者
グルムが扉を開ける。
足を踏み入れると、冷えた石床が足元を心地よく冷やした。
窓辺に置かれた香炉からは、甘い樹脂の香りが漂っている。
部屋の中央には、ヴォルガルドの王――ガルベスが座っていた。
王と呼ばれるには、まだ若い。
見た目は二十代後半ほどの青年だった。
「叔父さん。」
ガルベスが顔を上げる。
「ここには誰もいません。気軽に座ってください。」
「ああ、助かる。」
グルムは近くの椅子に腰を下ろした。
ガルベスは、机の上に置かれた資料へ視線を落とす。
「遺跡調査の結果は、すべて目を通しました。」
「……獣人が存在していた証拠だけでも、歴史を書き換える発見です。」
「ただ……。」
ガルベスは腕を組む。
「サーナトスに関する情報については、扱いに困ります。」
「アルジャを信仰している者は、この国にも多く存在しています。」
ガルベスは資料へ視線を落とした。
「サーナトスが、かつて人々から信仰されていた。」
「そして、良き神だった可能性がある。」
「それを公表すれば、国内で混乱が起きるでしょう。」
「最悪の場合……内戦に発展する可能性もあります。」
グルムは黙って話を聞いていた。
「それだけではありません。」
ガルベスは顔を上げる。
「ウラノス王国や、アルカディア神聖国との関係も悪化するでしょう。」
「特にアルカディアは、アルジャを唯一の神として信仰しています。」
「彼らが、この発見をどう受け取るか……。」
ガルベスは、そこで言葉を止めた。
グルムは椅子にもたれる。
「お前の立場もあるからな。」
「できる限りでいい。公表してくれ。」
「……叔父さん。」
ガルベスは、じっとグルムを見る。
「なぜ、そこまで真実を公表したがるのですか?」
グルムは答えない。
ガルベスは続ける。
「ウラノスの第二王子。」
「アルカディアの聖女。」
「叔父さんが望めば、二人を保護したというだけで、この国は大きな交渉材料を得られた。」
「それなのに叔父さんは、政治的な利益よりも真実を優先しようとしている。」
グルムの声が低くなる。
「……ガルベス。」
ガルベスは視線を落とした。
「………息子さんを思い出したからですか。」
グルムの動きが止まる。
「確かに、あの息子さんが無事に育っていれば……。」
ガルベスは、ゆっくりと顔を上げる。
「今のティシアさんと、同じくらいの容姿に──」
「ガルベス!」
部屋に、グルムの怒鳴り声が響いた。
「………すみません。」
ガルベスは小さく頭を下げた。
グルムは深く息を吐く。
「別にいい。」
「……わしは、もう出る。」
「叔父さん。」
グルムが立ち上がる。
ガルベスは、少し迷った後に口を開いた。
「ティシアさんの……。」
グルムが振り返る。
その視線に、ガルベスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……ティシアさんの体は、安全な場所で管理します。」
「叔父さんが決めたことです。」
「できる限りの支援をします。」
グルムは、しばらくガルベスを見つめていた。
「………悪いな。」
そう呟くと、グルムは部屋を後にした。
───────
ノアは、一冊の本を開いた。
乾いた紙を傷つけないよう、慎重にページをめくる。
文字は長い年月によって擦れ、ところどころ消えかかっていた。
ノアは目を細めながら、その文章を読み上げる。
「聖女とは……全ての魔法を扱う才能を持った者のことである。」
ノアの手が止まる。
「そして。」
次の一文を読む。
「聖女にしか扱えない魔法がある。」
「……聖女にしか、扱えない魔法。」
自分の手に刻まれた魔法陣を見る。
「もしかして……。」
次のページをめくった。
「それは、神とつながる魔法である。」
その隣には、一つの魔法陣が描かれていた。
手に刻まれたものと、まったく同じ形。
「……私の魔法陣と同じ。」
ノアは、さらに文章を読み進める。
「神とつながり、その力を引き出す。」
ノアは眉をひそめた。
「神の力を……?」
さらに読み進める。
「引き出した力を、魔力へと変換する。」
「それによって、通常の魔法とは異なる力を発揮する。」
しかし、すぐに疑問が浮かぶ。
「でも……ティシアには反応しなかったです。」
ノアは、再び本へ視線を落とした。
続きを読もうとする。
しかし。
文字のほとんどは擦れ、消えていた。
「……読めないです。」
静かに本を閉じる。
そして、部屋を見渡した。
壁一面に並ぶ本棚。
そこには、おそらく千冊を超える本が収められている。
「これだけあるなら……。」
ゆっくりと立ち上がる。
「きっと、同じような本があるはずです。」
一冊ずつ。
ティシアを助けるための手掛かりを探す。
「……神の力を、抑える方法も。」
ノアは本棚へと歩き出した。
───────
侍女が扉を開けた。
「ノア様。夕食の時間です。」
本棚の裏から、ノアがひょこっと顔を出す。
「もう、そんな時間でしたか?」
「分かったです。」
ノアは本を棚へ戻し、侍女の後をついていった。
食堂へ入ると、そこにはグルムとガルベスが座っていた。
「君がノアさんだね。」
ガルベスは穏やかに微笑む。
「どうぞ、座って。」
「ありがとうございます。」
ノアはガルベスが示した席へ腰を下ろした。
食卓の中央には、オアシスから運ばれた果実が山のように盛られている。
その周囲には銀の皿が並び、香辛料をふんだんに使った肉料理や、ハーブの香りが漂う温かなスープが置かれていた。
湯気がゆっくりと立ち上り、食堂の中に香りが広がっている。
三人が食事を進めていると、ガルベスが口を開いた。
「ノアさん。図書館はどうでしたか?」
ノアは少し緊張しながら答える。
「とても綺麗でした。」
「それに、本もたくさんあって……とても読み切れる量じゃなかったです。」
ガルベスは小さく笑う。
「父によると、あの図書館にある本の半分ほどは、各地を巡る商人から集めたものらしい。」
「だから、ヴォルガルドとは関係のない国や種族について書かれた本も残っています。」
ガルベスは食事の手を止めた。
「きっと……ティシアさんを助けるための情報も、どこかにあるはずです。」
ノアは、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます。」
その様子を見ていたグルムが、小さく呟く。
「……昔は、もっと本があったはずなんだがな。」
ノアが首を傾げる。
「なくなったんですか?」
「ああ。」
グルムは食事を口に運びながら答えた。
「500年前、ある従者が……気でも狂ったのか。」
「図書館にあった本のほとんどを、燃やしたんだ。」
「ほとんどを……?」
ガルベスは、手にしていたグラスを静かに置いた。
「その従者は、当時の王がとても信頼を置いていた人物だったそうです。」
「だからこそ、衝撃は大きかった。」
ガルベスは静かに続ける。
「何の前触れもなく、本を燃やした。」
「そして、その後……。」
ガルベスは静かに言った。
「王を殺そうとした。」
ノアは驚き、思わず口を覆う。
「その場で、従者は殺害された。」
「調査も行われました。」
「ですが、従者が単独で行ったのか。」
「誰かに命じられたのか。」
「それすら、今では分かっていません。」
グルムが低い声で続ける。
「さらに、当時は戦争が終わった後でヴォルガルドは大きな被害を受けた」
「それで、焼かれた本を修繕する余裕もなかった。」
ノアは、図書館のことを思い出す。
(……だから、500年以上前の本がほとんど残っていない。)
グルムが頭を掻いた。
「しかも、戦争が何をきっかけに始まったのか。」
「どれくらいの犠牲が出たのかも、分かっちゃいねぇ。」
ガルベスが口を開く。
「現状で分かっているのは、一つだけです。」
ノアとグルムがガルベスを見る。
「我々は、その戦争に負けた。」
「そして……何に負けたのかすら、詳しくは分かっていません。」
食卓に、一瞬だけ沈黙が流れた。
ガルベスは続ける。
「ですが、遺跡の調査を続ければ。」
「失われた歴史についても、何か分かるかもしれません。」
ノアは、静かに目を伏せた。
500年前。
サーナトス。
そして、ティシアの体に起きている異変。
ノアは、自分の手に刻まれた魔法陣を見る。
(……偶然なわけ、ないです。)
そう思えてならなかった。




