37.影狼
ティシアは剣を構える。
影のウルフが、ティシアたちへ襲い掛かってくる。
「っ!」
ティシアは迎え撃つように剣を振る。
しかし――。
ザンッ!
剣が当たったはずの身体が、まるで影のように揺らいだ。
刃は何の抵抗もなく、その身体をすり抜けてしまう。
「……!」
ティシアの目が見開かれる。
剣を振り抜いた勢いのまま、身体がわずかに前へ傾いた。
影のウルフが大きく口を開く。
「──っ!」
鋭い牙が、ティシアの肩に食い込んだ。
「──ぐっ!」
牙が肉へ深く沈む。
鈍い衝撃の直後、焼けるような痛みが肩を走った。
「くっ……!」
肩の肉が食い千切られる。
温かい血が腕を伝い、指先から床へ落ちた。
ティシアの手から力が抜ける。
剣が指の間を滑り落ち、硬い床へ転がった。
カランッ。
影のウルフは、血の流れるティシアの肩を見つめている。
唸り声も上げず。
ただ、その傷口から流れる血を見つめていた。
まるで――。
ティシアの中にある何かを、求めているかのように。
影のウルフが、再び身体を沈める。
次の瞬間、ティシアへ飛びかかろうとした。
「燃えてるです!」
ノアの声が響いた。
ティシアが視線を向ける。
先ほど放たれた火球から火が燃え広がり、壁や床を赤く照らしていた。
熱気が肌へ押し寄せる。
焼けた木の匂いが鼻を刺し、煙が喉へ入り込んだ。
影のウルフは炎へ顔を向けた。
「……グルル。」
低く唸りながら、一歩後ずさる。
赤い炎を見つめ、その身体がわずかに揺らいだ。
「……火が怖いのか?」
ティシアは肩を押さえながら、影のウルフを見る。
影のウルフが炎から逃げるように、壁へ向かって走り出した。
「待て!」
ティシアが叫ぶ。
しかし、影のウルフの身体は壁へ触れた瞬間、何の抵抗もなくその中へ沈み込んでいく。
そして、そのまま暗闇の中へと消えていった。
「……逃げたです。」
ティシアは血のついた肩を押さえながら、影のウルフが消えた壁を見つめた。
「……火が弱点みたいだね。」
ノアはすぐに水魔法を使い、燃え広がった火を消していく。
炎が消えると同時に、焦げ臭い煙だけが部屋に残った。
「ありがとう。」
「別にいいです。」
ノアはティシアの肩をちらりと見る。
「それより、ティシアは宿屋の店主さんや冒険者ギルドに事情を説明してきてください。」
「分かった。」
ティシアは宿屋の店主に、先ほど起きたことを説明した。
「なるほど……。変なウルフが、ここまで追ってきたということですか。」
「たぶん。あのウルフは普通の魔物じゃない。」
店主はしばらく考えたあと、ランプを手に取った。
「分かりました。私も一緒に行きましょう。」
「いいんですか?」
「この宿を壊されたんですからね。それに、あんな化け物を野放しにするわけにもいかないでしょう。」
店主はランプを持ち、ティシアたちと一緒に冒険者ギルドへ向かった。
────────
冒険者ギルドに着くと、ティシアは受付嬢にこれまでの経緯を説明した。
話を聞き終えた受付嬢は、暗い表情を浮かべる。
「実は……ティシアさんから報告をもらった後、あの遺跡に調査員を何名か送ったんです。」
「結果は?」
受付嬢は目を伏せる。
「……戻ってきた人間は、一人もいません。」
ティシアの表情が変わる。
「……誰も?」
「はい。連絡が途絶えています。」
「ギルドではそのウルフを影狼と呼んでいます。」
「……それ、本当にウルフなんですか?」
「分かりません。」
「え?」
「調査員が戻ってこない以上、誰も正体を確認できていませんから。」
受付嬢はそれ以上、何も言わなかった。
「……今日は、ここでお休みください。」
受付嬢が二人を見る。
「何がいるのか分かりません。宿に戻るのは危険だと思います。」
「分かりました。」
ティシアとノアは、冒険者ギルドの一室を借りて休むことになった。
しかし――
二人とも、なかなか眠ることができなかった。
ティシアは壁を見つめながら、昼間の出来事を思い出していた。
(……あのウルフ。)
剣が通じなかった身体。
炎を恐れて逃げたこと。
そして何より――
自分だけを狙っていたこと。
ノアもまた、毛布にくるまりながら不安そうに目を閉じていた。
「……明日、どうするですか?」
「……遺跡に行く。」
ティシアは少し考えてから答えた。
「あの影狼は、ただ僕たちを襲ったわけじゃない気がする。」
「どういうことです?」
「僕だけを狙っていた。」
ティシアは自分の肩を押さえる。
「何か理由があるはずだ。」
「……怖くないですか?」
「怖いよ。」
ティシアは苦笑する。
「でも、理由が分からないまま逃げる方が嫌なんだ。」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
夜は長く続いた。
────────
翌朝。
ティシアとノアは、冒険者ギルドの受付嬢に影狼について話していた。
「では、今日のうちに討伐隊を編成します。明日、討伐を行います。」
受付嬢は二人を見る。
「明日、その討伐隊に同行してください。」
「分かりました。」
ティシアは頷く。
しかし、少し考えてから尋ねた。
「……一つ、聞いてもいいですか?」
「はい。」
「あの遺跡で、今までに何が起きたんですか?」
「……。」
受付嬢の表情が曇る。
「実はあの遺跡は昔からあるんです。しかし、探しても何も見つからなかったのであまり情報がないんです。」
「そうですか……。」
ティシアは小さく頷いた。
ティシアがノアを見る。
身体の横に下ろされた指先が、小さく震えている。
ティシアはしばらくその手を見つめた。
「……。」
そして、少しだけ笑う。
「じゃあ今日は……街を見て回ろうか。」
「こんな状況でですか?」
ノアが顔を上げる。
「うん。」
ティシアは笑った。
「明日、何が起こるか分からないからね。」
「だから今日くらいは、普通に過ごそう。」
「……はいです!」
ノアの強張っていた表情が、少しだけ緩む。
ティシアとノアはギルドを出ると、街の屋台を見て回った。
通りには多くの人が行き交い、小さな笑い声があちこちから聞こえてくる。
「ティシア! こっち見てください。おいしそうなものがいっぱいです!」
ノアはティシアの手を引きながら、楽しそうに歩いていく。
歩くたびに、その足取りが弾んでいる。
「ノア、落ち着いて。時間はたくさんあるから。」
「でも、時間は有限です。」
ノアは振り返って笑う。
「だから、たくさん回るです!」
「……それもそうだね。」
ティシアも小さく笑った。
ノアが口いっぱいに食べ物を頬張っていると、あるものを見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
「ノア、どうしたの?」
ティシアがノアの視線の先を見る。
そこには、店先に並べられた杖があった。
「……杖?」
「そういえば……。」
ノアは杖を見つめる。
「神翼の羽……力の破片自体はもうないので、前ほどの効果は発揮できませんが、杖の部分は一級品なので光くらいなら放てると思います。」
「光?」
「はいです。」
ノアは杖を指差す。
「火が効いたというより……炎そのものを嫌がっていたように見えました」
ノアは杖を見つめる。
「なら、光にも何か反応するかもしれません」
ティシアは少し考える。
「火が弱点だったから、光も効く可能性はあるかもしれないね。」
「ですよね!」
ノアの目が輝く。
「じゃあ、明日、神翼の羽を持ってくるです。頑張ります!」
ノアは杖を手に取り、明日の戦いについて楽しそうに話している。
その間、ティシアは店の中を見渡していた。
そして――
あるアクセサリーに目が留まる。
(……カーネーションの首飾り。)
赤いカーネーションを模した、小さな首飾りだった。
ティシアは、その首飾りをしばらく見つめる。
母が好きだった花。
ノミアとの記憶が、ふと脳裏をよぎった。
「……。」
ティシアは首飾りを手に取る。
(……ノアに似合いそうだ。)
そう思った。
明日の討伐が終わったら――
ノアに渡そう。
ティシアはそう決めると、首飾りを購入した。
────────
日は落ち、夕暮れになった。
ティシアとノアはギルドへ戻った。
「今日は楽しかったです!」
「うん。明日に備えて、今日はゆっくり休もう。」
「はいです!」
二人はそれぞれの部屋へ戻り、明日の討伐に備えて休むことにした。
しかし、ティシアは眠らなかった。
部屋の隅に座り、剣を手元に置いたまま朝を待つ。
(前に僕を襲ってきたのは、何か原因があるはずだ。)
ティシアは窓の外を見る。
(今日も襲ってくるかもしれない。)
それから数時間が経った。
街は完全に暗闇に包まれている。
しばらくすると、窓から冷たい風が入り込んできた。
「……。」
ティシアの表情が変わる。
警戒しながら、周囲の音に耳を澄ませる。
ギシ……。
木が軋む音。
そして――
視界の端で、何かが僅かに揺れた。
「……。」
ティシアは剣を握る。
ティシアはゆっくりと立ち上がった。
その瞬間――
「ティシア!」
バァン!
部屋の扉が蹴破られる。
「ノア!?」
ノアが部屋へ飛び込んできた。
その手には、神翼の羽が握られている。
「早く!」
ティシアが振り返った瞬間だった。
「……っ!」
いつの間にか、影狼がティシアの背後に迫っていた。
大きく開かれた口。
鋭い牙が、ティシアの首へ伸びる。
「ティシア! 目を閉じて!」
ノアが神翼の羽を掲げる。
「────!」
次の瞬間。
部屋の中を、眩い光が包み込んだ。
「────ギィィィィッ!」
獣の悲鳴が響き渡る。
耳を裂くような叫び声に、ティシアは思わず目を細めた。
影狼が光から逃げるように、激しく身をよじる。
「今だ!」
ティシアは悲鳴の聞こえた方向へ向かって、迷わず剣を振り抜いた。
ザシュッ!
今度は確かな手応えがあった。
刃が何かを切り裂く感触。
硬くはない。
しかし、確かに。
今まで何度振ってもすり抜けていた剣が、影狼の身体を捉えていた。
「……!」
先ほどまで曖昧だった影狼の身体が、光に照らされて少しずつ形を現していく。
「効いてるです!」
ノアの声が響く。
影狼は苦しむように身をよじる。
その身体が、徐々に小さくなっていった。
そして――。
「……っ!」
ベッドの下へ滑り込む。
「逃がすか!」
ティシアは剣を振り上げた。
ベッドごと影狼を切り裂こうとした、その時。
ドンッ!
突然、ベッドが勢いよく持ち上がった。
「なっ……!」
影狼の力によって弾き飛ばされたベッドが、ノアへ向かって飛んでいく。
「ノア!」
「っ!」
ノアは咄嗟に横へ飛んだ。
直後。
ベッドが大きな音を立てて床へ叩きつけられる。
あと一歩遅れていれば、直撃していた。
しかし、部屋を照らしていた光が消えた。
「……!」
ティシアはすぐに周囲へ視線を走らせる。
暗闇の中。
部屋の隅に、影狼がいた。
その身体から、触手のような黒い影が何本も伸びている。
ゆらゆらと揺れながら、ティシアを睨みつけていた。
「……。」
ティシアは剣を構える。
影狼もまた、低く唸る。
「……グルルル。」
しかし。
影狼はティシアから目を逸らさないまま、ゆっくりと後ろへ下がった。
そして、突然。
窓へ向かって走り出した。
「逃げるのですか!」
ノアが神翼の羽を掲げる。
「光よ!」
再び、眩い光が部屋を照らす。
しかし――。
「……いないです。」
ノアが窓へ駆け寄る。
影狼は、すでに外へ逃げていた。
ティシアは、影狼が消えていった窓の外を見つめる。
「……。」
そのときだった。
胸の奥が、わずかに震えた。
影狼を見た瞬間から感じていた。
説明できない、奇妙な感覚。
(……知っている。)
ティシアは胸元へ手を当てる。
この感覚を。
この、身体の奥へ直接触れてくるような感覚を。
ティシアは知っていた。
「……まさか。」
ティシアは、影狼が消えた闇を見つめる。
そして、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「……サーナトスの力……?」




