35.初めての依頼
「ウルフですか? 確か、群れで動くって聞いたです」
ノアは少し眉を下げ、ティシアの顔を見上げる。
「そうだよ。ウルフを五匹討伐すればいいみたい」
「まだ時間はありますね。今から行くです?」
ティシアとノアは街を出ると、街の近くにある森へと足を踏み入れた。
森の中は、街とはまるで違う空気に包まれていた。
湿った土の匂いが鼻をくすぐり、足元では枯れ枝が小さく折れる。頭上では葉が風に揺れ、さわさわと耳元を撫でていった。
「ウルフは鼻が利くから、先に僕らの存在に気づくと思う。」
「じゃあ、どうするですか?」
「こっちから探し回るより、向こうから来てもらった方がいい。」
ティシアは周囲の木々へ視線を走らせながら続ける。
「もちろん、ノアには危害がないように僕が守るよ。」
「……分かったです。」
ノアは一度ティシアの横顔を見上げると、小さく頷いた。そして、彼の隣へぴたりと寄り添うように歩き出す。
しばらく森の奥へ進んだ頃だった。
「ティシア」
ノアが突然、足を止めた。
「囲まれたです」
ティシアもすぐに立ち止まり、腰の剣へ手を伸ばす。
「……分かるの?」
「はいです。魔力探知で。範囲は小さいですが……。」
ノアは目を閉じ、周囲へ意識を集中させる。
森の静けさの中、風が木の葉を揺らす音だけが響いた。
「前に三匹。後ろにも二匹いるです。」
「五匹か。」
ティシアは剣を鞘から抜いた。
金属が擦れる音が、静かな森に響く。
「依頼の数と同じだね。」
「……グルルルル」
森の奥から、低い唸り声が響いた。
腹の奥まで震わせるような声に、ノアの肩がわずかに跳ねる。
「……来るよ。」
ティシアがそう呟いた瞬間――。
前方の茂みが大きく揺れた。
バサッ!
一匹のウルフが木の葉を撒き散らしながら飛び出してくる。
「来た!」
ティシアは地面を踏みしめ、迫ってくるウルフへ剣を構えた。
ウルフの牙が目前まで迫る。
「ッ!」
ガキンッ!
ティシアの剣と牙がぶつかり合う。
腕へ鈍い衝撃が走り、手のひらが痺れた。
ノアがすぐに手をウルフへ向ける。
小さな手のひらへ魔力が集まり、空気がわずかに震えた。
「えいっ!」
次の瞬間。
岩の塊が勢いよく放たれる。
ドンッ!
鈍い衝撃音が響いた。
岩はウルフの胴体へ直撃し、その身体を地面へ叩きつける。
土埃が舞い上がり、ウルフはそのまま動かなくなった。
「やったです!」
ノアがぱっと顔を上げる。
しかし、その直後。
「……グルルル。」
背後から唸り声が聞こえた。
「ノア!」
ティシアが振り返る。
一匹のウルフが地面を蹴り、ノアへ向かって駆けていた。
ティシアは咄嗟にノアの前へ飛び出す。
ザシュッ!
鋭い爪がティシアの腕を切り裂いた。
熱を持った痛みが腕を走り、赤い血が地面へ落ちる。
「ティシア!」
ノアの声が響く。
「大丈夫。」
ティシアは眉を寄せながらも、腕を一度振った。
傷口から流れた血が地面へ散る。
「下がってて」
ティシアは剣を握り直す。
そして、再び飛びかかってきたウルフへ踏み込んだ。
ザシュッ!
剣がウルフの身体を貫く。
温かい血が剣を握る手へ飛び散った。
「……これで一匹。」
ティシアは荒くなった息を整えながら、周囲へ視線を走らせた。
その目に、一匹だけ明らかに大きなウルフの姿が映る。
他の個体よりも一回り大きく、太い四肢が地面を踏みしめていた。
(あれが……ウルフのリーダーか)
「ノア」
ティシアは剣を構えたまま言う。
「あそこにいる大きなウルフを倒して」
「分かったです。でも、詠唱するので時間をください」
ノアは大きなウルフへ両手を向ける。
「分かった。僕が時間を稼ぐ」
ノアが詠唱を始める。
その直後、二匹のウルフがティシアへ襲いかかった。
「来る!」
ティシアは横から迫った一匹へ剣を振り抜く。
ザシュッ!
剣が毛を切り裂き、ウルフが地面へ転がった。
しかし。
「グルァッ!」
もう一匹が、足元へ飛びかかってくる。
「くっ!」
ティシアは咄嗟に足を引いた。
牙が靴の先を掠める。
あと少し遅れていれば、足を噛み砕かれていた。
だが、その瞬間――。
「グルァァァッ!」
巨大なウルフが地面を蹴っていた。
土を抉り、巨体が一直線に迫ってくる。
狙いは――首。
ティシアは剣を構える。
しかし───
(……間に合わない!)
鋭い牙が目前まで迫った、その瞬間――。
「──っ!」
凄まじい衝撃がリーダーの身体を襲った。
ドォンッ!
爆発したような轟音が森に響く。
リーダーの巨体が横から弾き飛ばされ、そのまま太い木へ激突した。
木の幹が大きく揺れ、葉が雨のように降り注ぐ。
「今のは……!」
ティシアは振り返る。
そこには、両手を前へ突き出したノアが立っていた。
「ティシア! 大丈夫ですか!」
「うん」
ティシアは自分の首にそっと手を当てる。
冷や汗が背中を伝っていた。
「助かったよ、ノア」
「よかったです……」
ノアは張り詰めていた肩から力を抜く。
ティシアはすぐに剣を握り直し、残ったウルフへ向き直った。
「これで終わりだ!」
地面を蹴る。
一気に距離を詰め、ティシアは剣を振り抜いた。
ザシュッ!
最後のウルフが地面へ倒れる。
森に響いていた唸り声が消えた。
残ったのは、ティシアとノアの荒い呼吸だけだった。
「ふぅ……これで終わりだね。」
ティシアは剣についた血を振り払い、鞘へ納める。
「魔石と牙を取ろう。」
「私も手伝うです。教えてください。」
「分かった。まずは……」
ティシアは倒れたウルフの前へしゃがみ込む。
まだ温かい身体に触れながら、ナイフを取り出した。
「ここを切って……この奥に魔石がある。」
「こうですか?」
ノアは恐る恐る刃を入れる。
生暖かい血の匂いが鼻を突いた。
「そう。力を入れすぎると魔石を傷つけるから、ゆっくりね。」
「……分かったです。」
ノアは唇を結び、慎重にナイフを動かしていく。
そのときだった。
「……ん?」
ティシアの手が止まる。
「どうしたですか?」
ティシアは倒れたウルフを一匹ずつ見渡した。
そして、指を折りながら数え始める。
「一、二、三、四……」
そこで動きが止まった。
ティシアは眉を寄せ、周囲へ視線を走らせる。
「……一匹足りない」
「え?」
ノアも立ち上がり、周囲を見渡した。
すると。
木々の隙間を縫うように、森の奥へ走っていく一匹のウルフが見えた。
「いたです!」
「逃げたのか」
ティシアは立ち上がる。
「僕はウルフを追う。ノアはここで解体しておいてほしい。何かあったら知らせて」
「分かったです!」
ティシアは逃げていくウルフの背を追い、森の奥へ走り出した。
────────
ティシアは木の根を飛び越えながら、ウルフを追っていた。
湿った土を踏むたび、靴の裏が沈む。
前方では、逃げるウルフが荒い息を吐いていた。
「もう……逃がさない!」
ティシアは地面を蹴る。
距離を詰めると、剣を振り上げた。
「ッ!」
ザシュッ!
剣が振り抜かれる。
ウルフの身体が大きく揺れ、そのまま地面へ倒れ込んだ。
ティシアはしばらくその場で息を整える。
「……結構、奥まで来たな」
森の中は、先ほどまでいた場所よりも薄暗かった。
木々が密集し、湿った空気が肌へまとわりつく。
ティシアは周囲を見渡した。
すると。
木々の隙間から、何かが見えた。
「……あれは?」
さらに近づく。
苔に覆われた石壁。
崩れかけた柱。
木々の間に隠れるように、古びた石造りの建物が建っていた。
「……遺跡?」
ティシアは足を止める。
(何の遺跡だろう)
近づいてみたい。
だが、ノアを一人で待たせている。
ティシアは一度、倒れたウルフの死体を確認してから、来た道を振り返った。
「とりあえず、ノアと一緒に見てみよう。」
ティシアは何度か遺跡を振り返りながら、ノアの待つ場所へ戻っていった。
「ノア? 解体できた?」
「できたです!」
ノアは血のついたナイフを持ち上げ、ティシアへ見せる。
「ティシアもウルフ倒せたですか?」
「うん。これが魔石と牙。」
ティシアは回収した魔石と牙を手のひらへ乗せる。
「……ねえ、さっき森の奥に遺跡みたいなものがあったんだけど、見てみない?」
「遺跡ですか?」
ノアの目が少し大きくなる。
「いいですよ。見てみたいです。」
ティシアはノアを連れ、再び森の奥へ向かった。
しばらく進むと、木々の隙間を抜けた先で、古びた遺跡が姿を現した。
崩れた石壁には苔が広がり、入口の周囲には雑草が生い茂っている。
「ここだよ。」
その瞬間――。
ノアの手に刻まれた魔法陣が、淡い光を放ち始めた。
「……え?」
ノアは足を止め、自分の手を見つめる。
淡い光が指の隙間から漏れ、周囲の薄暗い森をわずかに照らした。
「ノア? 大丈夫?」
「これは……」
ノアの瞳が遺跡へ向けられる。
魔法陣の光は、まるで遺跡の奥を指し示すように、次第に強くなっていった。
「……あの遺跡の中に、聖遺物があるです。」
「聖遺物?」
ティシアは遺跡へ目を向ける。
「私の魔法陣は、聖遺物と使用者のつながりを強くして、本来の効果を引き出すものです。」
ノアは光を放つ自分の手を見つめた。
「だから、近くに聖遺物があると反応するです。」
「なるほど……」
ティシアは遺跡の暗い入口を見つめる。
中から冷たい空気が流れてくるような気がした。
「じゃあ、あの中に何か凄いものがあるってことだね」
「そういうことです。あそこに行くですか?」
ティシアはしばらく遺跡を見つめた。
だが、首を横に振る。
「いや、今はギルドに依頼を達成したことを伝えよう」
そして、ノアを見る。
「それと、ノアの冒険者登録も一緒にやろう」
「分かったです!」
ノアは光る手を胸元へ引き寄せ、小さく頷いた。
二人は遺跡を後にし、街へ戻った。
────────
ティシアは受付へ依頼書とウルフの牙、魔石を差し出す。
「依頼、達成しました。これがウルフの牙と魔石です。」
受付嬢は牙と魔石を一つずつ確認する。
「はい。討伐数も確認できました。依頼達成ですね。」
受付嬢は報酬を取り出す。
「お疲れさまでした。こちら、報酬の銀貨五枚です。」
ティシアは銀貨を受け取った。
「ありがとうございます。」
そして、ティシアはノアを見る。
「それじゃあ、次はノアの登録だね。」
「はいです!」
ティシアはギルドの外でノアを待つ。
しばらくすると、ノアが元気よくギルドから出てきた。
「ティシア~! 冒険者証もらったです!」
ノアは嬉しそうに冒険者証を見せる。
「よかった。」
ティシアも笑う。
「それじゃあ、どこかで夕食でも食べよう。」
「はいです! 何食べるですか?」
「ノアが決めていいよ。」
ノアは周囲を見渡す。
すると、店先に掲げられた看板に「オムライス」の文字が目に入った。
「あ、じゃあ、あそこがいいです。」
ノアは嬉しそうに指を差す。
「オムライス、好きなので。」
「じゃあ、そこにしようか。」
二人はその店で夕食を済ませると、宿屋へ向かった。
宿屋で部屋を取り、二人で廊下を歩いていると。
ティシアの足が止まった。
「……ん?」
壁に、一枚の紙が貼られていた。
何気なく視線を向ける。
その瞬間。
ティシアの身体が固まった。
紙に描かれていたのは、見覚えのある顔。
いや。
見間違えるはずがない。
『指名手配』
そして、その下には――。
『ティシア・バシレウス』
「…………」
ティシアはしばらく、その紙を見つめていた。
自分の顔。
自分の名前。
まるで、そこにいる自分を指差されているようだった。
ティシアはゆっくりと視線を逸らす。
しかし。
別の壁にも。
さらに、その先にも。
『ティシア・バシレウス』
どこを見ても、自分の手配書が貼られていた。
紙が壁一面に並び、自分が逃亡者であることを何度も突きつけてくる。
「ティシアの手配書、どこにでもあるですね……」
ノアは壁の手配書とティシアを交互に見た。
それから、申し訳なさそうに指先を握りしめる。
「申し訳ないです」
「ノアは関係ないよ」
ティシアはそう言って、ノアの方へ顔を向ける。
「どちらにせよ、僕は追われる身だったんだから」
「……はいです」
ノアは小さく頷いた。
二人はそのまま部屋へ戻った。
扉が閉まる。
カチャリ、という鍵の音がやけに大きく響いた。
静かな部屋の中。
ティシアはベッドの端へ腰を下ろす。
身体を倒し、そのまま天井を見上げた。
(……僕は、本当に追われているんだな)
街を歩けば、そこら中に自分の手配書がある。
今までは、逃げることに必死だった。
立ち止まれば捕まる。
そう思って、ただ前へ進んできた。
けれど。
こうして静かな部屋で一人になると、嫌でも現実が頭の中へ浮かんでくる。
(もう、ウラノス王国には戻れない)
ティシアは目を閉じる。
瞼の裏に、壁へ貼られた無数の手配書が浮かんでいた。
そこに描かれていたのは、確かに自分自身だった。




