Ex30.アルカディアの国民、ノア
私が九歳だった頃。まだ、聖女になる前の話だ。
────────
「お母さん、あそこで何をするの?」
私はアギアの塔を見上げながら尋ねた。
母は優しく笑う。
「あそこで聖女様が、みんなに温かい光を届けるのよ。」
次の瞬間。
アギアの塔から眩い光が空へ広がり、王国全体を包み込んだ。
「わあ……あったかい。」
光に触れた、その時だった。
私の体が、淡く白く輝き始める。
「お、お母さん!」
私は慌てて母の服を掴んだ。
「怖いよ……。」
周囲がざわめく。
「まさか……。」
「光ったぞ。」
人々の視線が、一斉に私へ集まる。
その直後、鎧の音が響いた。
大勢の騎士たちが、人混みをかき分けながらこちらへ駆け寄ってくる。
「聖女様だ! 新たな聖女様が誕生したぞ!」
歓声が上がる。
人々は祝福するように私を見つめていた。
母は驚いた表情を浮かべたあと、そっと私を抱きしめた。
「……大丈夫。ノアは、ノアのままでいてね。」
そう優しく頭を撫でてくれた。
その日から私は、騎士たちに連れられ、聖女として生きるための教育を受けることになった。
聖女としての言葉遣い。
聖女としての役割。
聖女としての振る舞い。
毎日、必死に学んだ。
あの日、私を祝福してくれた人たちの期待に応えたかったから。
でも、その代わりに、お母さんと会える時間は少しずつ減っていった。
最初は、一週間に一度。
次は、一か月に一度。
半年に一度。
そして――一年に一度。
気づけば、お母さんと過ごす時間より、聖女として生きる時間の方がずっと長くなっていた。
聖女になって四年後。
お母さんが死んだ。過激派に殺されたと聞かされた。
最後に会ったのは、一年前だった。
葬儀には出してもらえた。
お母さんの顔を見た。痩せ細り、ひどくやつれていた。
穏やかな顔だったはずなのに、私にはどこか悲しそうに見えた。
私はデルト聖騎士を呼び止めた。
「デルトさん。お願いがあります。」
「聖女様。どうか『デルト』とお呼びください。あなたは私より上の立場なのですから。」
「……では、デルト。」
私は小さく息を吸う。
「母の店へ行きたいです。」
デルトは一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。
「承知しました。」
「私は聖女様をお守りする聖騎士です。どこへでも同行いたします。」
私は母の店へ入った。
一年前と、何も変わっていない。
店の奥へ足を運ぶ。
生活の跡が、そのまま残っていた。台所には、食材が並んでいる。
卵や玉ねぎ、鶏肉、そしてケチャップがあった。
私は、それを見つめた。
「……オムライス。」
私の、一番好きな料理だった。
「……練習してたのかな。」
その瞬間、昔の記憶が蘇る。
『次に会えるのは一年後?』
『うん……』
寂しそうに笑う私に、お母さんは優しく笑った。
『じゃあ、お母さんがもっと美味しい料理を作れるようにならないとね。』
『次に会った時、ノアが喜ぶ料理を作ってあげるから。』
────────
机の上には、私が幼い頃に描いて贈った似顔絵が飾られていた。
『おかあさん! これあげる!』
『私の似顔絵?』
お母さんは嬉しそうに笑った。
『ありがとう。大事にするわ。』
その言葉通りだった。
色あせていても、傷んでいても。
そこには、ずっと大切にされていた証が残っていた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
「デルト。」
私は似顔絵を見つめたまま、小さく口を開く。
「私……お母さんのお店で働きたいです。」
デルトは少しの間、黙っていた。
「……本来であれば、お止めすべきです。」
「ですが、聖女様のご意思を無視することもできません。」
「条件があります。」
「正午は聖女としてのお務めを果たしてください。それ以外の時間であれば、お店へ通うことを認めます。」
「……ありがとうございます。」
それから私は、母の店で働くことになった。
当時はまだ、今の『魔素材商会アルカ』という名前ではなかった。
母が亡くなったあと、その店はアルカの支店として引き継がれることになった。
私はそこで、聖女ではなく、一人の店員として働いた。
最初は、お客さんはほとんど来なかった。
でも、少しずつ。
本当に少しずつ、お店に人が集まるようになった。
「ノアちゃん! 今日もスライムの買取お願い!」
「はいです! 少々お待ちください!」
聖女として身についた言葉遣いは、なかなか抜けなかった。
気づけば、語尾に「です」を付ける変な話し方になっていた。
それでも誰も笑わなかった。
「それがノアちゃんらしい。」
みんなはそう言って、受け入れてくれた。
私は、それが嬉しかった。
だけど、お店を始めて三年後。
来てくれる人が、一気に減った。
隣に、大きな魔素材商会ができたからだ。
それでも、足を運んでくれる人はいた。
だけど――。
国からの圧力が始まった。
ある人は、別の土地へ追いやられ。
ある人は、脅され。
そして、ある人は──殺された。
もう店を閉めようと思った。
それでも、お母さんが命より大切にしていた店を、自分の手で終わらせることはできなかった。
気づけば、一年が過ぎていた。
ティシアさんと出会ったのは、その時だった。
貴族みたいに凛々しい顔立ち。
でも、その人を見た瞬間、私は息をのんだ。
(なに、この魔力……。)
視線を向けると、その人の腰袋から、とてつもない魔力が漏れ出していた。
あれほどの魔力を持つ魔石を、私は見たことがない。
(この人……こんな魔物を倒してきたの?)
でも、ティシアさんが取り出した魔石は――十個だけだった。
「……これだけですか?」
思わず口に出てしまった。
「……? はい。それだけですが、何か?」
「あ……。」
しまった。
魔力の強い魔石は、武器や魔道具にも使われる。
もし私が魔力を感じ取れると知られたら、不自然に思われるかもしれない。
「その服、かなり仕立てが良いので。てっきり貴族の方かと思いまして。」
私は慌てて誤魔化した。
「もっとたくさん持ち込まれるのかと思っただけです! 少々お待ちくださいです。」
ティシアさんと話すのはとても楽しかった。でもデルトから警告された。
「聖女様としての役割を果たしてください。あなたは、この国の民を幸せにする人なのですから。」
「分かっています。もうすぐで聖人の儀は始まります。その時は……ちゃんとしますよ。」
ティシアさんが来た時は、焦った。
(秘密がばれたんじゃないかって。)
でも、ティシアさんは何も聞かなかった。聖女としてではなく、ただの私として接してくれた。
その日、私はティシアさんのことを知った。
お互いに母を亡くしていることを知って、少しだけ親近感がわいた。
だからこそ、アギアの塔でティシアさんを見つけた時は驚いた。
(あの時魔力……ティシアさん?)
間違えるはずがない。
あれほど強大な魔力を持つ魔石を持っていた人。
でも――。
(なんで、アギアの塔で掃除をしているの?)
私は首を傾げた。
正直、ティシアさんには聖女としての私を見てほしくなかった。
あの店で笑っていた、ただの少女の私だけを知っていてほしかった。
ティシアさんには、こんな作られた笑顔で、決められた言葉を話す私を見てほしくなかった。
聖女という仮面をかぶった私を、知られたくなかった。
────────────
今、私には二つの道がある。
聖女として生きる道。
自分を縛り続ける代わりに、多くの人を幸せにする。
それとも――。
一人の少女として生きる道。
心から笑える代わりに、たくさんの人を傷つけ、迷惑をかける。
私は、────




