第四章:制服の朝
第四章
翌日の朝、ユジュが目を覚ます。
枕元で鳴るスマホのアラームを止め、薄く目を開く。
ユジュは身を起こし、スマホを手に取ってベッドを降りた。
部屋を出てリビングへ向かうと、朝の匂いがした。
キッチンではソヨンが朝食の支度をしている。
鍋の煮える音、食器が置かれる音、温かな匂い。
まだ頭が起きていなくても、それだけで一日の始まりが分かる。
ソヨンが振り返る。
「おはよう、ユジュ。朝ごはん、できてるから食べなさい」
頷いて席に着き、スマホを操作する。
打ち込んだ文字をソヨンへ向けた。
〈お父さんは?〉
「今日も早いみたい。もう先に出たわ」
ユジュは軽く頷く。
食卓には穏やかな静けさがあった。
ソヨンが廊下の方へ目を向ける。
「……ユナは相変わらずね」
そして、もう一つの部屋へ視線を流した。
「ヒロキくんも、朝は弱いのかしら?」
ユジュはすぐに打ち込む。
〈だとしたら手間が増えるね〉
その一文に、ソヨンがくすりと笑った。
「ユナは起こすから、ヒロキくんお願いしてもいい?」
ユジュは素直に頷いた。
ソヨンはユナの部屋へ向かい、ユジュはそのままヒロキの部屋の前で足を止めた。
軽くノックする。
返事はない。
少し間を置いて、もう一度。
それでも中から音はしない。
ユジュはドアノブに手をかけ、そっと扉を開けた。
部屋の中には朝の光が薄く差し込んでいる。
ヒロキはベッドの上で、まだ眠っていた。
ユジュは中へ入り、ベッドのそばまで行く。
起こそうと身をかがめたその時、初めてヒロキの顔を近くで見る。
やはり整っている。
普段は目つきの冷たさや、触れがたい雰囲気の方に意識が向く。
けれど、眠っている今はそうしたものが削がれて、綺麗な顔立ちだけが浮かび上がっていた。
ユジュは数秒、見入ってしまった。
それから我に返り、そっと肩に手を置く。
軽く揺らす。
起きない。
もう少し強く揺らしてみる。
服越しでも身体の硬さが伝わってきた。
初めて触れた男子の体は、女子とこれほど違うものなのかと思う。
だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。
ユジュはもう一度肩を揺らした。
起きない。
まるで死んでいるように深く眠っている。
ユジュは眉をひそめる。
今度は遠慮なく、肩を強く揺さぶった。
そこでようやく、ヒロキの眉がわずかに動いた。
目が少しだけ開き、また閉じそうになる。
ユジュはさらに揺さぶる。
ヒロキが不機嫌そうに目を開けた。
ユジュはすぐにスマホを打ち込み、その画面を視界に入る位置へ差し出す。
〈早く起きないと遅刻するよ〉
ヒロキは細く息を吐いた。
「……もうちょっとやさしく起こせよ」
ユジュはむすっとした表情で打ち返す。
〈やさしく起こしても起きないじゃん〉
〈あと昨日起こさなくていいって言った〉
それを読んだヒロキは、ため息をついた。
「ちょっとしたら行く」
その声は低く、まだほとんど眠ったままだった。
ユジュは呆れた表情でヒロキを見つめたが、それ以上は何もせず部屋を出た。
リビングへ戻ると、ユナが食卓に座っていた。
とはいえ、こちらもまだ完全には目が覚めていない。
「……おはよう」
ユジュは軽く手を振る。
ソヨンが尋ねる。
「ヒロキくん、どうだった?」
ユジュはスマホを見せた。
〈ちょっとしたら来るって言ってた〉
もう一文続けて打つ。
〈でも、たぶんまた寝る〉
その画面を見て、ユナが吹き出した。
「え、私よりひどくない?」
ソヨンも笑う。
「ユナより朝弱いのかもしれないわね」
ユジュが笑いながら再度スマホを向ける。
〈だとしたらユナお姉ちゃんよりめんどくさいかも〉
「何それ、ひどい」
ユナは不服そうに言いながらも、本気では怒っていない。
ソヨンは穏やかに言う。
「まだ時間あるし、もう少しだけ寝かせてあげましょう」
「え、ずるくない?」
「来たばかりなんだから仕方ないでしょ」
ユナは口を尖らせたが、それ以上は反論しなかった。
そうして二人が朝食を終え、支度を進め始めた頃。
ようやく廊下の奥で扉の開く音がした。
ユナが真っ先に反応する。
「あ、起きた」
ヒロキはゆっくりと廊下を歩いてきた。
髪には寝癖がつき、目もほとんど開いていない。
そのまま食卓の椅子を引いて座る。
ソヨンがやさしく声をかけた。
「ヒロキくん、おはよう」
ヒロキは小さく頷くだけだった。
ユナが面白がるように顔を覗き込む。
「朝弱いの?」
反応はない。
「あれ、まだ寝てる?」
その直後、ヒロキが口を開いた。
「……いただきます」
そして、無言で食べ始めた。
その姿に、三人の表情がやわらぐ。
昨日までの、どこか触れがたい少年とは全く違う、年相応の鈍さがあった。
無防備というほどではない。
だが、眠気のせいで鋭さだけが鈍っている。
ユナが笑いを堪えながら言う。
「なんか、昨日と全然違うね」
ユジュが打つ。
〈今は眠気が勝ってる〉
ユナは納得したように頷いた。
「たしかに」
ユナはヒロキを見て、昨日よりずっと話しかけやすいと感じた。
怖いというより、抜けている。
そんな印象に少し拍子抜けした。
だからつい、反応を見たくなる。
ヒロキはそのやり取りを聞いているのかいないのか分からないまま、黙々と食べ続けた。
やがて三人はそれぞれ支度を終える。
しかしヒロキは食事を終えてもなお、食卓に座ったまま、ぼんやりとしていた。
ユナが声をかける。
「そろそろ準備しないと、本当に遅刻するよ」
ヒロキは気のない様子で頷いた。
ユジュがユナにスマホを見せる。
〈というか、もう遅刻確定かも〉
ユナがそれを見て苦笑する。
ソヨンは時間を見て、急いで立ち上がった。
「私、そろそろ出ないと」
ユナがそれに答える。
「はーい」
「戸締まりだけお願いね」
「分かった」
ソヨンは最後にヒロキに目を向けた。
「ヒロキくん、本当に大丈夫?」
ヒロキは眠たそうな顔のまま、頷いた。
ソヨンは困った顔で話を続ける。
「今日学校に着いたら、まず職員室へ行ってね。編入初日だから、そのまま教室には行かないで」
ヒロキは一拍遅れて、頷いた。
「先生が案内してくれるはずだから。先生の名前、聞いてる?」
ヒロキは首を横に振る。
それを聞いて、ユナが呆れたように口を挟む。
「そこは聞いておいてよ……」
ソヨンは小さく笑った。
「大丈夫。ヒロキくんの名前を言えば、すぐ分かるはずだから」
ユジュがスマホを見せる。
〈もう話題になってるかも〉
ユナがそれを見て答えた。
「それはそうかも」
そのやり取りにもヒロキの反応はない。
ソヨンはあらためて言う。
「とにかく、着いたらまず職員室。忘れないでね」
「……はい」
信用していいのか微妙な返事だったが、時間がない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃ~い」
ユジュも手を振る。
玄関の扉が閉まる音がした。
それでもヒロキはまだ席に残ったままだった。
ユジュがヒロキのそばまで行く。
そしてためらいなく肩を強く揺さぶった。
ヒロキが不機嫌に目を開ける。
「……先、行けよ」
ユナが眉を上げた。
「一人で来れるの?」
「ああ」
「ほんとに?」
「ああ」
短い返事だった。
ユナとユジュは顔を見合わせる。
これ以上引っ張っても無理な気がした。
「じゃあ、鍵お願いね」
ヒロキは小さく頷いた。
二人は玄関へ向かう。
出る直前、ユナが一度だけ振り返った。
本当に来るのかどうか、わからない。
それでも二人は、先に家を出るしかなかった。
エレベーターの中で、ユナが小さくため息を吐いた。
「ヒロキって、結構マイペースだよね」
ユジュが打つ。
〈うん、かなり〉
「絶対遅刻だよね」
〈もう無理だと思う〉
ユナが笑う。
「初日から遅刻って、ほんとに大丈夫かなぁ」
ユジュはそれに困った顔をした。
そしてわずかな間の後、ユナが照れくさそうにぽつりと言う。
「でも……ちょっと可愛かったね」
ユジュも笑顔で頷く。
昨日までのヒロキは、もっと温度の低い印象だった。
だが今朝の姿は、まるで別人のようだ。
二人は顔を見合わせて小さく笑う。
そしてエレベーターの扉が開き、二人は学校へと向かった。
家に残ったヒロキは、しばらくそのまま動かなかった。
静かな部屋に朝の光だけが差し込んでいる。
ようやく立ち上がると、リビングを抜け、ベランダへ出た。
煙草を一本取り出し、火をつける。
深く吸って、ゆっくり吐く。
朝の空気はまだ冷たい。
高層階から見える整った街並みは、やはりどこか自分のものではないように見えた。
今日から学校が始まる。
煙を吐きながら、昨日の有馬の言葉を思い出す。
「この辺なら、今までみたいにやり返して終わりで済んだかもしれないけど、次はそう簡単にはいかないかもね」
ヒロキは眉を寄せた。
今までとは違う環境。
力だけで片がつく場所ではないかもしれない。
むしろ、下手にやれば余計な面倒が増える。
「……めんどくせえ」
小さく呟く。
煙草を吸い終え、灰皿に押し消す。
そのまま洗面所へ向かい、顔を洗い、歯を磨く。
濡れた前髪を手でかき上げ、適当に整えてから部屋へ戻った。
ハンガーにかけてあった制服に手を伸ばす。
シャツを着て、ネクタイを軽く締め、ブレザーを羽織る。
姿見の前に立つと、制服姿の自分が映った。
鏡の中の自分は、この家にも、この制服にも、まだ馴染んでいない。
ヒロキは短く息を吐き、緩んだ襟元に一度だけ触れたが、そのまま手を離した。
リュックを手に取り、部屋を出る。
静かな家を抜け、玄関で靴を履く。
扉を開けると、新しい一日が待っていた。
進明高校。
新しい家。
新しい姓。
新しい関係。
何一つ、自分のものだとは思えなかった。
それでも、もう始まっている。
ヒロキはマンションを出て、駅へ向かって歩いた。
朝の空気はまだ冷えている。
空は明るく、通勤や通学の人の流れが街にでき始めていた。
きれいな歩道に、管理された植え込み。
急ぎ足で駅へ向かうスーツ姿。
この街は朝の顔まで整いすぎていた。
ヒロキはポケットに手を入れたまま歩く。
駅に入り、改札を抜ける。
通勤通学ラッシュに紛れるように電車へ乗り込んだ。
車内はそれなりに混んでいたが、押し潰されるほどではない。
吊り革につかまり、窓の外へ視線を向ける。
すると近くの席に座る女子生徒が、一度だけこちらを見た。
すぐに目を逸らしたが、数秒遅れて、またこちらを見る。
隣にいた友人がつられて顔を上げ、目を見開いた。
どちらもすぐに視線を逸らしたが、意識だけはまだこちらに残っていた。
「……ねぇ、あんな人いたっけ?」
「初めて見た」
「ビジュやばくない?」
抑えた声だったが、耳には届いた。
ヒロキは表情を変えない。
やがて最寄り駅に着き、改札を出る。
学校までは駅からそう遠くない。
同じ方向へ歩いていく制服姿が少しずつ増えていく。
ダークグレーのブレザー、深いワイン色のネクタイやリボンが目に入った。
しかし、同じ制服が増えても、ひとりだけ質感が違った。
前を歩いていた女子生徒が何気なく振り返る。
視線が止まる。隣の友人の袖を軽く引く。
もう一人もつられて振り返り、三人の足並みがほんの少し乱れた。
「……うそ、まじ?」
「うちの高校の子よね?」
「ちょっと待って、イケメンすぎるんだけど」
ヒロキはそのまま歩き続ける。
しばらくして、進明高校の校門が見えてきた。
敷地は広く、門も校舎もいかにも私立らしく整っていた。
威圧感があるわけではない。
だが、金がかかっていることだけは一目で分かる。
朝の校門前には、生徒がまだ何人もいた。
友人と並んで笑っている者、ぎりぎりの時間に駆け込む者、教師に頭を下げて通る者。
校門に近づくにつれ、視線が増した。
数人の女子生徒が同時にヒロキを見て、会話のテンポが一拍ずれる。
片方が何か言い、もう片方が思わず息を漏らし、それでもまた見てしまう。
「編入生ってあの人?」
「たぶん」
「……顔つよすぎない?」
男子の視線もあった。
ただ、女子ほど素直ではない。
値踏み、警戒、無関心を装った観察。
そんなものが混ざっていた。
ヒロキは気にせず校門を通り抜ける。
敷地内に入った瞬間、雰囲気がわずかに変わった。
外より賑やかだが、管理されている。
自由に見えて、しっかりと線が引かれていた。
だが、その内側でも視線は消えない。
すれ違う生徒が一瞬だけ目を向ける。
通り過ぎたあとも背中に意識が残る。
見ていないふりをしているだけで、ちゃんと見ている。
そのような視線が校舎までの短い距離にいくつもあった。
そして校舎に入る。
中は明るく、清潔。
廊下の床はよく磨かれていて、朝の光を淡く反射している。
掲示物も雑に貼られていない。
何もかもが『きちんとしている』学校。
そのぶん、馴染まないものはすぐに浮く。
正面玄関近くの案内板に目をやり、職員室の位置を確認する。
一階。廊下の奥。
ヒロキは廊下を進む。
職員室の前まで行き、静かに扉を開けた。
職員室の中は、朝の忙しさで満ちていた。
書類をめくる音。
パソコンのキーを打つ音。
短い会話。
扉が開いた音で、いくつかの視線がこちらへ向く。
見知らぬ生徒が職員室へ入ってきたことで、意識がひとつひとつ寄ってきた。
ヒロキはそれを正面から受けながら、淡々と口を開く。
「……今日から編入のパク・ヒロキです」
その名前に、職員室の奥で一人の教師が反応し、立ち上がる。
四十代半ばほど。
きっちりしすぎないスーツ姿に、少し疲れた目。
だが、その目は鈍くなかった。
警戒と観察が混ざっている。
最初から敵意を向けてくる種類ではないが、与えられている情報と実物を照らし合わせているのは分かった。
男は近寄りながら問う。
「パク・ヒロキ?」
「……はい」
そして、ヒロキの前で足を止めた。
近くで見ても視線は変わらない。
品定めというより、確認に近い目だった。
「俺はカン・ドユン。お前が所属する一年B組の担任だ」
「……そうですか」
ドユンはその反応に、わずかに口元を緩めた。
「そうですか、じゃない。でも、ちゃんと職員室に来たのはえらいな」
「行けって言われたんで」
「それでも勝手に教室行くやつはいる」
ドユンはそう言い、軽く肩をすくめた。
「初日から廊下でうろつかれても面倒だからな。助かった」
ヒロキは何も言わなかった。
その反応を見ても、ドユンは特に気を悪くした様子はない。
むしろ、その無愛想さも込みで想定の範囲だった。
「少し時間食ってるから、手短にいくぞ」
やはり遅れていることは向こうにも認識されていた。
だが、責める口調ではなかった。
ただ事実として処理しただけ。
ドユンは続ける。
「このあと校長と教頭に顔だけ出す。そのあと教室。ホームルームにはもう少し遅れるかもしれん」
面倒が一つ増えた。
そう顔に出たのか、ドユンが少しだけ笑う。
「そんな顔するな。俺も面倒だと思ってる」
ヒロキは初めて、ほんの少しだけドユンをまともに見た。
「……そうですか」
「そうだよ」
ドユンはあっさり言う。
「お前を受け入れる側も、手順ってもんがある」
その言い方には、教師らしい説教臭さはなかった。
そういうものだと説明しているだけ。
ヒロキは返事をしなかったが、ドユンも追及はしなかった。
「荷物はそれだけか」
ヒロキは肩にかけたリュックに一度だけ触れる。
「はい」
「ならいい」
ドユンは一度、職員室の中を振り返る。
何人かの教師がまだこちらを見ていたが、ドユンは気にした様子もなく言った。
「とりあえず行くぞ」
外へ出るよう促して、ふと思い出したように声をかけた。
「そういや、お前」
ヒロキが振り向く。
「敬語、使えないタイプかと思ってた」
ヒロキは一拍置いてから答えた。
「使えます」
「そうか」
「使いたくないだけです」
その返しに、ドユンが短く笑った。
「十分だ」
職員室の雰囲気が、ほんの少しだけ緩む。
誰かが小さく咳払いをし、別の教師がまたパソコンへ視線を戻す。
止まっていた朝の流れが、少しずつ元に戻っていく。
ドユンは改めて顎をしゃくった。
「ほら、行くぞ」
ヒロキが扉を開ける。
職員室の中からも、いくつかの視線が背に刺さる。
好奇心。警戒。値踏み。
どれも見慣れた種類のものだった。
扉の外へ出ると、ドユンは足を止めずに言った。
「一応言っとくが、教頭は面倒くさい」
ヒロキは聞き返す。
「校長は?」
「話は早い」
わずかな間を置き、ドユンは続けた。
「だから先に疲れるなよ」
その言葉に、ヒロキは返事をしなかった。
だが、少なくともこの担任は、最初から無意味に威圧してくるタイプではない。
それだけでも、想定よりマシだった。
ドユンの背中を追って、ヒロキは廊下を歩く。
少し歩くと、ドユンが扉の前で足を止めた。
校長室。
扉の横には、その文字が簡素に掲げられていた。
ドユンは軽くノックする。
中からすぐに声が返った。
「どうぞ」
ドユンが扉を開ける。
「失礼します」
ヒロキもその後に続いて中へ入った。
部屋の中はきれいに整っている。
大きな机、本棚、応接用のソファ。
広さがあり、必要以上に威圧的ではない。
奥にいた男が顔を上げる。
五十代後半。
年齢相応の落ち着きがある。だが、柔らかいだけではない。
長く人の上に立ってきた者の静かな重みが、そのまま佇まいに出ていた。
男は立ち上がると、ヒロキをまっすぐ見た。
その目には、警戒も値踏みもなかった。
少なくとも、最初の一瞥では。
「パク・ヒロキくん、だね」
「はい」
男はゆっくりと頷き返した。
「ようこそ、進明高校へ」
その言葉は、儀礼的な歓迎にも聞こえたし、それ以上の意味を含んでいるようにも聞こえた。
「校長のハン・ジョンウクです」
ヒロキは短い間を置いて答える。
「……どうも」
その返答にドユンは横で小さく息を漏らした。
だがジョンウクは気にする様子もなく、穏やかな表情のまま続ける。
「緊張しているかな?」
「……別に」
ジョンウクは、その短い返事にも表情を変えなかった。
「そうか」
そして一歩だけ距離を詰める。
「私の仕事は、君を最初から信用しきることでも、最初から疑ってかかることでもない」
ヒロキは黙って聞いていた。
「ここでどう過ごすかを見ることだ。君にも事情があり、こちらにも責任がある。まずはそれで十分だと思っている」
言い方は穏やかだった。
だが、その穏やかさはやさしさではない。
相手との間にきちんと線を引いた、合理的なものだった。
ヒロキは、そこで初めて校長をまともに見た。
説教ではない。
綺麗事でもない。
それが意外だった。
ジョンウクは続ける。
「学校という場所は、問題のない人間だけが集まる場所じゃない。誰にだって事情はある。大事なのは、その先をどうするかだ」
ヒロキは何も言わない。
ジョンウクも返答を求めるようには見えなかった。
代わりに、小さく微笑んだ。
「まずは今日を無事に終えることだね」
その言葉にヒロキの肩の力がわずかに抜けた。
「はい」
返事は今までで一番素直だった。
ジョンウクは短く頷いた。
「うん。十分だ」
そこでドユンが口を開く。
「校長、次は教頭のところへ顔だけ出して、そのまま教室へ連れて行きます」
「分かった」
ジョンウクはそう言い、最後にもう一度ヒロキへ視線を向けた。
「焦らなくていい。だが、投げるのも早すぎない方がいい」
ヒロキは何も返さない。
ジョンウクもそれ以上は言わない。
「行っていいよ」
ドユンが軽く会釈する。
「失礼します」
ヒロキも続いて部屋を出た。
ドユンはそのまま歩き出す。
「校長はああいう人だ」
ヒロキは隣を歩きながら返す。
「見れば分かります」
「分かるか?」
「綺麗事しか言わないタイプじゃない」
その返しに、ドユンが口元を緩める。
「まあな」
だが、その空気も次の扉の前で途切れた。
教頭室。
ドユンはノックする。
返ってきた声は、校長よりも硬かった。
「入ってください」
扉を開ける。
部屋の中には、校長室とは違う息苦しい雰囲気があった。
整理された書類の束。
きっちり並べられた備品。
何もかもが整えられすぎていて、そこにいる人間の神経質さまで見える気がした。
オ・テソン。
進明高校の教頭。
五十代前半。
体格は大きくなく、視線が妙にせわしない。
人をまっすぐ見るより、細部を先に見てしまうタイプの目だった。
テソンは椅子に座ったままヒロキを見た。
最初に視線が行ったのは顔、その次が制服、最後に全体の立ち姿だった。
一瞬で値踏みしているのが分かった。
その視線が、首元で止まる。
「まず、身だしなみを整えなさい」
数秒遅れて、その意味が制服に向いているのだと分かった。
「シャツのボタン。ネクタイもです」
ヒロキは無言のまま、自分の首元に手をやった。
緩んでいたネクタイを軽く引き、開いたままだったシャツのボタンを留める。
テソンはそれを見届けてから、ようやく口を開いた。
「……パク・ヒロキくん」
声には歓迎がなかった。
かといって、露骨な拒絶でもない。
表向きは整えているが、内側にははっきりした警戒心がある。
「はい」
テソンはそこでわずかに眉を動かした。
想像していたより素直に返事が返ってきた、そんな顔だった。
「進明高校は、自由と自律を重んじる校風です。ただし、それは秩序の上に成り立つものです」
ドユンが横で無言のまま立っている。
テソンは言葉を続ける。
「君にも色々事情があることは聞いています。ですが、本校ではそれ以前に、生徒としての振る舞いを求めます。特別扱いはありません」
ヒロキは黙って聞いていた。
言いたいことはすぐわかった。
問題を起こすな。面倒を増やすな。学校の秩序を乱すな。
そういう意味が、回りくどい言葉の下にそのまま入っていた。
「返事は?」
テソンが言う。
ヒロキは一拍置いてから答えた。
「分かりました」
テソンはそれでも満足した顔をしなかった。
「返事は結構です。問題は、その通りにできるかどうかです」
その言い方に、ドユンの目がわずかに動く。
だが、口は挟まない。
テソンは続ける。
「君については、最初から安心して見ていられるとは思っていません」
ヒロキは教頭を見つめる。
「……そうですか」
部屋の空気が固まる。
テソンの眉がわずかに動いた。
今の返事は反抗ではない。
だが、素直に受け流しているわけでもなかった。
テソンはしばらく無言でヒロキを見た。
その視線には、さらに一段強い探りが入っていた。
やがて口を開く。
「ずいぶん落ち着いていますね」
ヒロキは答えない。
テソンは視線を外さないまま言った。
「それが余裕から来るものなら、早いうちに捨てた方がいい。ここでは、余計なことをしないことです。まずはそれを覚えておきなさい」
ヒロキは短く返す。
「……はい」
その返事は、校長室でのものよりずっと温度が低かった。
それで十分だと判断したのか、テソンはそれ以上何も言わなかった。
「以上です」
ドユンが軽く会釈する。
「失礼します」
ヒロキも続いて教頭室を出た。
扉が閉まる。
廊下に戻った瞬間、ヒロキは小さく息を吐いた。
整えさせられた襟元が鬱陶しくて、シャツのいちばん上のボタンを外す。
ネクタイも、指先で少し緩めた。
ドユンが横で言う。
「言っただろ。面倒くさいって」
ヒロキは正面を向いたまま返す。
「相当ですね」
ドユンが軽く笑う。
「だろうな」
わずかに間が空く。
「でもまあ、あれでもだいぶ抑えてる方だ」
「あれで?」
その一言に、ドユンは今度ははっきり笑った。
「お前、そういうとこ正直だな」
校長は、見ると言った。
教頭は、警戒を隠さなかった。
どちらも面倒だが、少なくとも学校側の温度差だけはよく分かった。
それだけでも、来た意味はあったのかもしれない。
ドユンは廊下の反対側へ視線を向けた。
「じゃあ、教室行くか」
ヒロキも同じ方向を見る。
一年B組。
まだ入ってもいないのに、面倒な空気だけはもう想像がついた。
それでも、もう後戻りはできない。
ヒロキは無言のまま、ドユンの背中を追った。
第四章
完




