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Afterglow ~アフターグロウ~  作者: まっと


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第三章:開きはじめた扉

第三章


 夜は、昼よりも街の輪郭をやわらかくする。


 有馬の家は駅から少し歩いた先にあった。

 表には暖簾が出ていて、店先の灯りが通りを照らしていた。


 前から知っている日本式のとんかつ屋。

 ただ、以前より整って見えた。

 看板も、ガラスも、店の中も、きちんと手入れされている。


「ただいま~」


 先に戸を開けた有馬が、日本語で声をかける。


「おかえり、恒一」


 返ってきたのは、落ち着いた女性の声だった。

 カウンターの奥から有馬の母、真由美が顔を出す。


 ヒロキの姿を見ると、笑顔で出迎えた。


「ヒロキくん、いらっしゃい。久しぶりね」


 ヒロキは軽く頭を下げる。


「どうも」


「今ちょうど出せるから、座ってて」


 それだけ言って、真由美はすぐに厨房へ戻っていく。

 必要以上に気を遣うわけでもなく、変に湿っぽくもならない。

 その距離感がヒロキにとってはありがたかった。


 ヒロキと有馬は向かい合ってテーブル席に座る。


 厨房から油の音が聞こえてくる。

 香ばしい匂いがゆっくり店の中へ広がり、腹の奥が反応した。


「店、いい感じだな」


 ヒロキが言う。


 有馬は向かいで頷いた。


「うん。前よりはずっと。母さんも楽しくやってるし」


「よかったな」


 やがて真由美が二人の前に皿を置く。


 揚げたてのとんかつ。

 千切りキャベツ。

 味噌汁と白飯。


 久しぶりの日本食。

 目の前に出されただけで力が抜けそうになる。


「はい。熱いうちに食べて」


 ヒロキは手を合わせる。


「いただきます」


 真由美が笑顔で答える。


「召し上がれ」


 ヒロキは箸を取り、とんかつを一切れ口に運ぶ。

 衣は軽く、肉はやわらかい。

 余計なことを考えずに食べられる味だった。


 有馬も自分の分に箸をつける。


 しばらく、食器の音だけが続いた。


「ヒロキくん、高校決まったんだって?」


 真由美がさらりと聞く。


 ヒロキは口の中のものを飲み込んでから、遅れて答えた。


「はい」


「進明高校だったっけ?」


 ヒロキは頷く。


「大変そうね」


 真由美は変に持ち上げることもなく、同情もしない。


 ヒロキは平然と答える。


「そうですね」


 真由美はそれ以上は聞かなかった。


 有馬が口を挟む。


「でも、ヒロキくんならなんとかするでしょ」


 ヒロキは特に反応せず、味噌汁を飲む。


 少しして、真由美が言う。


「今日はもう遅いし、泊まっていく?」


 ヒロキは迷わず答えた。


「泊まります」


 有馬が笑う。


「早いな~」


「その方が楽だろ」


「そういうとこ、ほんと変わってないね」


 真由美もそれを聞いて、口元をやわらげた。


「じゃあ、あとで布団出しておくわ」


 ヒロキは頷く。


「ありがとうございます」


 店の時計が時を刻む。

 表の通りを走る車の音が、ときどき遠くで聞こえた。


 食事を終えたあとも、二人はしばらく店先に出ていた。

 駄菓子をつまみながら、取り留めのない話をする。


 その夜、ヒロキは有馬の家に泊まった。


 同じ頃、パク家でも夕食の時間になっていた。


 ムヨルは仕事でまだ戻っていない。

 もちろんヒロキも不在だった。


 食卓にいるのは、ソヨンとユナとユジュの三人だけ。


 テーブルにはいつもの家の晩ご飯が並んでいる。


「まだ帰ってこないね」


 ユナが時計を見て言う。


 ソヨンはすぐには答えず、取り分けてから口を開いた。


「そうね」


 ユジュがスマホを取り、短く打ち込む。


〈連絡は?〉


 ユナは首を横に振る。


「そもそも連絡先交換してない」


 ユジュが口を尖らせる横で、ユナが言う。


「制服、ちゃんと取りに行くかな?」


 ソヨンが頷く。


「行くんじゃないかしら」


「ほんとに?」


「必要なことはちゃんとやる子に見えたわ」


 ユナは少しだけ考える。


「……まあ、それはそうかも」


 ユジュがまた画面を打つ。


〈帰るかどうかは別かも〉


 その一文を見て、ユナが黙る。


 否定しきれなかった。


 ソヨンもそれ以上は言わなかった。

 まだ何も分からない。

 分かった気になってはいけない段階だった。


 その夜、ヒロキは戻らなかった。


 ムヨルが帰宅したのは日付が変わる前で、そのことを聞いても深く息を吐いただけだった。

 責めるにはまだ早い。


 家の中には、何とも言えない静けさが残った。


 それは眠る前の穏やかな静けさではなく、まだ馴染まないものを抱えたままの静けさだった。


 翌日の昼過ぎ。

 ヒロキは制服を受け取りに行った。


 名前を告げ、紙袋を受け取る。

 それだけのことだった。


 制服。

 明日から着るもの。

 紙袋越しに伝わる重みで、一気に現実味が湧いた。


 店を出て、煙草を一本吸い、しばらく街をぶらついた。


 帰る気になったのは、日が傾き始めてからだった。


 夕方の光の中でマンションへ戻る。

 エレベーターを上がり、廊下を歩く。


 昨日も来た場所。

 まだ自分の家だとは思えないが、昨日より足は迷わなかった。


 暗証番号を入力し、中へ入る。


 靴を脱ぎ、廊下を抜け、リビングへ出ると、ソヨンがキッチンから顔を出した。


「おかえりなさい」


 続いてユナ、遅れてユジュが姿を見せる。


 ユナはヒロキの手にある紙袋を見た。


「ちゃんと取ってきたんだ」


「ああ」


 ヒロキは短く答える。


 ユジュの視線も、紙袋へ落ちていた。


 ソヨンが近づいてくる。


「受け取れたのね」


 ヒロキは頷く。


「はい」


 ユナは少し迷ってから口を開く。


「昨日、帰ってこなかったね」


 ヒロキは答えた。


「ああ」


 謝罪も言い訳もない。


 ユナはヒロキを見つめ、つぶやく。


「……そっか」


 ヒロキもユナを見つめ返す。


 その空気を切るようにソヨンが聞く。


「制服、見せてくれる?」


 ヒロキは紙袋をそのまま差し出す。


 ソヨンが受け取り、中を確かめる。

 ブレザー、シャツ、ネクタイ、スラックス。

 進明高校の制服一式がきれいに入っていた。

 制服に加え、指定のジャージも一式揃っていた。


「ちゃんと揃ってるわね」


 ユナが横から覗き込む。


「絶対目立つでしょ、これ」


 ユジュがスマホを打つ。


〈かなり〉


 ユナがそれを見て笑う。


「だよね」


 ヒロキは何も言わない。

 ただ、あからさまに嫌そうな顔もしなかった。


 昨日より、三人の前に立つことに慣れている。

 その程度の変化だった。


 ソヨンが紙袋を返す。


「部屋に置いてくる?」


「はい」


 ヒロキは受け取り、廊下の方へ向かった。


「これから夜ご飯作るけど食べる?」


 後ろからソヨンの声がかかる。


 ヒロキは振り返り、答えた。


「もらいます」


 そして部屋へ向かう。


 その背中を、三人は見ていた。


 ユナがぽつりと言う。


「昨日よりは、ちょっとマシかも」


 ソヨンは頷く。


「そうね」


 ユジュもまた、頷いていた。


 距離が縮まったわけではない。

 ただ、昨日より少しだけ言葉を返し、ユナとユジュにも目を向けるようになった。

 それだけの、かすかな変化だった。


 部屋へ戻ると、ヒロキは制服の入った紙袋を机の脇に置いた。

 そのままベッドに腰を下ろし、しばらく動かなかった。


 部屋は昨日と変わらない。

 しかし、少しだけ息苦しさが薄くなっていた。

 それでも、落ち着くとはまだ言えない。


 天井を見上げる。


 明日から学校。

 考えたところで面倒が減るわけでもない。

 むしろ、考えるほど余計なことばかり浮かんでくる。


 ヒロキは小さく息を吐き、ポケットを探った。

 煙草の箱が指先に触れる。


 立ち上がって、部屋を出る。

 廊下を抜け、そのままリビングへ向かった。


 ユナとユジュは、それぞれ別のことをしていたが、無言のままヒロキの動きを目で追った。


 ヒロキは何も言わず窓際へ行き、サッシを開けてベランダへ出た。


 夕方の風が流れ込む。


 手すりのそばに立ち、煙草に火をつける。

 一口吸って、ゆっくり吐き出す。


 細い煙が、夕暮れに溶けていく。


 それを見て、ユナは小さく息を呑んだ。

 ユジュはただその姿を見ていた。


 ヒロキはもう一度吸う。

 煙草の先だけが赤く灯る。


 誰も何も言わないまま、数秒だけ時間が止まった。


 先に動いたのはユナだった。

 無言のまま窓を開け、そのままベランダへ出る。


 隣に増えた気配に、ヒロキが顔だけを向けて聞いた。


「何?」


 ユナは単調に答える。


「別に」


 そしてヒロキの指先の煙草を見てから言う。


「吸うんだって思っただけ」


「ああ」


 会話が途切れる。


 ユナは少しだけ気まずくなるが、そのまま続けた。


「いつから?」


 ヒロキは短く煙を吐く。


「覚えてない」


 また切れる。


 会話を続ける気がないのは明らかだった。


 ユナは手すりの向こうを見たまま言う。


「私、煙はあんまり好きじゃない」


「ふーん」


 ぶっきらぼうな返答。

 それでも、追い返すわけでもなく、完全な無視でもなかった。


 夕方の風だけが間を埋める。


 やがてヒロキが最後の一口を吸う。

 ポケットから灰皿を取り出し、火を押しつけて蓋を閉じた。


 ユナがその手元を見る。


「ちゃんとしてるんだ」


「何が?」


「そのへんに捨てないんだなって」


「まぁな」


 短い返事だった。


 ユナは小さく笑う。


「もっと適当かと思ってた」


 ヒロキはそれに答えない。

 そして、低く言う。


「寒い」


「あ、うん」


 ヒロキは先に中へ戻る。

 ユナも遅れて、リビングへ入った。


 最初ほど、話しづらくはなかった。


 ヒロキはそのままリビングを抜け、自分の部屋へ戻る。


 扉は閉めなかった。

 半分ほど開いたまま、ベッドの端へ腰を下ろす。


 すると、廊下の方で気配が止まったことに気づく。


 ユジュだった。


 開いた扉の前で立ち止まり、スマホを持ち上げる。


〈制服、ちゃんと取ってきたんだね〉


「ああ」


〈一人で大丈夫だった?〉


 ヒロキは軽く頷く。


 ユジュはそれを見て、わずかに間を置いた。


〈この家、落ち着かない?〉


「何で?」


 ユジュは打ち直す。


〈なんとなく〉


「適当だな」


〈そうかも〉


 それ以上、ヒロキは答えなかった。


 扉は開いたまま。

 廊下の空気が部屋の中へそのまま流れ込んでくる。

 閉じきらない感じが、かえって気楽だった。


 ユジュは無理に続けようとはしない。

 少しだけヒロキを見て、それからまた打つ。


〈昼、ご飯食べてる時だけ普通だった〉


 ヒロキは思い出して答える。


「腹減ってたから」


〈そう見えた〉


 それで会話はまた途切れた。


 ヒロキは扉を閉めない。

 ユジュも踏み込みすぎない。


 やがてユジュが最後に打つ。


〈夜も食べるんだよね?〉


「ああ」


〈そっか〉


 それだけ残して、ユジュはリビングへ戻っていった。


 ヒロキはしばらくそのまま座っていた。


 変なやつだと思う。

 だが、閉め出したいとは思わなかった。


 しばらくして、開いた扉の向こうからユナの声がした。


「ご飯できたよ」


 ヒロキが顔を上げると、ユナが半分だけ中を覗いている。


「行く」


 短い会話だけで終わる。


 ユナが先に歩き、ヒロキがその後をついていった。


 食卓にはソヨンとユジュも座っていた。


 今日は四人だけ。

 ムヨルはいない。


 テーブルにはキムチチゲ、ケランマリ、豆もやしとほうれん草のナムル、焼きのり、キムチ、白飯が並んでいた。

 気取らない、どこにでもある韓国家庭の晩ご飯だった。


 ヒロキは空いた席に座り、つぶやいた。


「いただきます」


 三人もそれに続いた。


 しばらくは食器の音だけが続いた。


 昨日の昼よりは静けさが薄い。

 だが、まだ賑やかとは言えない。


 ソヨンはチゲを口にしてから、首を傾げた。


「今日、ちょっと辛かったかしら」


 そう言って、ヒロキの方を見る。


「ヒロキくん、辛くない?大丈夫?」


 ヒロキは一口食べてから、答えた。


「うまいです」


「ほんと?」


「はい」


 ソヨンは安心したように笑った。


「よかった」


 ユジュはケランマリを箸で割っている。

 ユナはそれを見ながら言う。


「ユジュ、それ好きだよね」


 ユジュは頷いた。


 ソヨンがヒロキを見ながら言う。


「もし、足りなかったら言ってね」


 ヒロキは短く頷く。


「はい」


 しばらくして、ヒロキの茶碗が空になる。


 ソヨンが気づいた。


「ご飯、おかわりいる?」


 ヒロキは茶碗を差し出した。


「もらいます」


「はい」


 ソヨンは笑顔で受け取り、自然な手つきでよそう。


 そしてヒロキは茶碗を受け取った。


「ありがとうございます」


 そのやり取りを見て、ユナも笑顔になる。

 昨日より雰囲気が変わっている。


 四人で食卓を囲んでいる。

 それだけが、まだ不思議だった。


 食事が終わり、少ししてヒロキが立ち上がった。


「ちょっと出ます」


 ソヨンが顔を上げる。


「こんな時間に?」


「少しだけです」


「遅くならないでね」


「はい」


 ヒロキは部屋へ戻り、上着を取ってきた。


 それを見て、ユナが立ち上がる。


「私も行く」


 ヒロキが振り返る。


「何で?」


「暇だから」


 ユジュも、すでにスマホを持って立っている。


〈私も〉


 ヒロキは二人を見たあと、特に止めもせず玄関へ向かった。


「あっそ」


 三人で外へ出る。


 夜の外はひんやりしていた。

 マンションの周りは静かで、足音だけが小さく響く。


「どこ行くの?」


 ユナが聞く。


「コンビニ」


「だけ?」


「だけ」


 そのやり取りにユナの口元が緩む。


 ユジュは一歩後ろでついてくる。


 コンビニは近かった。

 ヒロキは飲み物を買い、ユナはアイスを一つ、ユジュはチョコ菓子を一つ選んだ。


 外へ出て、店の脇に立つ。


 ヒロキが煙草を取り出す。

 今度は誰も驚かない。


 ユナが横目で見る。


「ほんと毎回吸うんだ」


「ああ」


「まずくない?」


「まずい」


 ユジュがスマホを打つ。


〈ならなんで吸うんだろうね〉


 ユナは笑いながら答えた。


「ほんと、なんで吸うんだろ」


 ヒロキは何も言わない。

 火をつけた煙草を吸い、空を見上げる。


 少しして三人は家に戻った。

 ほんの短い外出だったが、妙に変な時間だった。


 帰宅すると、先に玄関に入ったユナが声をかけた。


「先、シャワー浴びていい?」


「ああ」


 返事をしたあともなぜかヒロキを見つめるだけのユナに、ヒロキは視線を返す。


「なに。一緒に入りたいの?」


 ユナは一瞬止まり、顔を少し赤くして眉を吊り上げた。


「は!?バカじゃないの?」


 ユジュが、口元を緩めながらスマホを打つ。


〈最低〉


 ヒロキはその画面を見て、鼻で笑う。


「全然おもしろくない」


 ユナは不機嫌そうに言い捨てる。


 ユジュは続けてもう一文打つ。


〈ユナお姉ちゃん、顔赤くなってるよ〉


「なってない!」


 ユナが即座に否定する。


 ヒロキはそれ以上何も言わず、視線を外した。


「早く入れよ」


 ユナはまだ不機嫌なまま、自室へ向かった。


 その背中が見えなくなると、廊下に短い沈黙が落ちる。


 ヒロキはそのまま自分の部屋へ戻り、ユジュはリビングのソファに座る。


 やがて、シャワーの音が流れ始めた。


 少しして、ユジュがヒロキの部屋の前まで来た。


 ノックすると、ヒロキが扉を開ける。


「何?」


 ユジュはスマホに打ち込む。


〈ユナお姉ちゃん、ああいうの弱いから〉


 ヒロキは画面に目をやる。


「あっそ」


 ユジュは表情を変えず、また打つ。


〈たぶん今、わりと本気で怒ってる〉


「ふーん」


 それだけだった。


 ユジュが続けて打つ。


〈でも、たぶんすぐ直る〉


 ヒロキは壁にもたれたまま返す。


「お前、それ言いに来たの」


〈一応〉


「親切だな」


〈そうでもない〉


 ヒロキは小さく鼻で笑う。


 そしてユジュがさらに一文加える。


〈次、シャワー使っていい?〉


 ヒロキは頷き、答えた。


「ああ」


 ユジュも頷き返し、そのままリビングへと戻っていく。


 ヒロキはしばらくその背中を見て、自分の部屋の扉を閉めた。


 少しして、また風呂場からシャワーの音が流れ始めた。


 二人が浴びた後、ヒロキがシャワーを浴びに行く。


 熱い湯を浴びると、ようやく一日分の疲労が落ちていく気がした。


 シャワーを終え、濡れた髪のまま浴室を出る。

 タオルで適当に拭きながら部屋に戻り、立ち尽くす。


 それから、また部屋を出た。


 リビングはもう静かだった。

 灯りは落とされ、窓の向こうに夜の街の明かりだけが浮いている。


 ヒロキは窓際へ向かい、ベランダへ出る。


 夜はもう深く、街の灯りだけが下の方で淡く光っていた。


 煙草に火をつける。

 一口吸って、吐く。


 昼よりも、夜の方が音が少ない。

 そのぶん、自分の中のざらつきが薄くなる気がした。


 気配がした。


 振り返ると、開いた窓のところにユジュが立っていた。


 ユジュは何も言わず、スマホを持ち上げる。


〈また吸うんだ〉


「ああ」


〈ベランダ落ち着く?〉


「別に」


 ユジュはその返事を聞いて、また打つ。


〈夜、静かだね〉


「そうだな」


〈私は好き〉


「そうか」


 ユジュは窓枠に軽くもたれた。

 ベランダへは出てこない。

 でも戻りもしない。


〈明日、学校いく?〉


「ああ」


〈緊張してる?〉


「いや」


 ユジュはヒロキの反応を見て、少しだけ口元が緩んだ。


〈してるんだ〉


「してない」


 その返しに棘はなかった。


 ユジュは最後に打つ。


〈起こしてあげようか?〉


 ヒロキは鼻で笑う。


「いらない」


〈残念〉


 それだけ打って、ユジュは窓の内側へ下がる。


 ヒロキは最後まで煙草を吸い、灰皿に押し消した。


 夜の街をもう一度だけ見てから、ベランダを離れる。


 窓を閉め、部屋へ戻る。


 ベッドへ横になる。

 天井を見上げる。


 有馬の家、パク家、どちらも自分の場所ではない。

 だが、追い出されてもいない。


 その曖昧さだけを抱えたまま、ヒロキは目を閉じた。


 ほどなくして、意識は沈んでいった。


第三章

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