第二章:変わらないもの
第二章
ムヨルは深く息を吐く。
そして、しばらく黙ったあと、重い口を開いた。
「……あれは、一年半前のことだ」
リビングの空気が、わずかに張りつめた。
「当時、ヒロキは母親、シオリのもとで暮らし、その家には再婚相手の義父と義姉がいた」
「だが、義父のハン・ガンチョルという男が、相当質の悪いやつでな」
ムヨルは言葉を選ぶように続けた。
「日常的に娘に暴力を振るっていたらしい」
ユナが眉をひそめる。
「娘って……」
「お前たちも知っているだろ。ハン・リナという子だ」
「うん。知ってる」
ユナが頷いた。
「同じクラスだし……親権の話し合いの時も来てた」
ムヨルも短く頷き返した。
「あの日、ヒロキはたまたま帰宅したらしい。そこで、娘が暴力を受けているところを見た」
「それまでのこともあったんだろう。ヒロキは、その場でやり返したんだ」
ユナがためらいながら口を開く。
「でも……やり返しただけで、少年院に送られるほどのことになる?」
ムヨルは一瞬だけ目を伏せた。
「ああ。ただやり返しただけなら、な」
そこで言葉が止まる。
どのように話すべきか、迷っているのが見て取れた。
だが、ここまで来て濁すこともできなかった。
「徹底的に叩きのめしたらしい。ゴルフクラブで顔面をな。それも、かなりひどく」
声は低かった。
事実を告げているだけのようでいて、その実、どこか固かった。
「警察が駆けつけた時には、現場はひどい状態だったそうだ。部屋は荒れ、床には血が広がっていた。死んでいてもおかしくないくらいだった」
ユナの表情が引きつる。
ユジュも視線を落としていた。
ムヨルは続ける。
「その後、ヒロキは拘束され、家族と一緒に事情聴取を受けた。だが、本人は何も話さなかったらしい」
「……」
「最終的に殺人未遂まではいかなかったが、精神的に不安定な義息子による暴行として処理された。そして、家庭裁判所で一年半の少年院送致が決まった」
ユナが、納得しきれない顔でムヨルを見る。
「リナに暴力振るってたお父さんには、何もなかったの?」
「ああ」
「ガンチョル側は、娘への躾の範囲だと主張した。証拠も足りず、継続的な虐待としては扱われなかった」
「え、そんなの……」
ユナの声には、はっきりとした嫌悪が滲んでいた。
ムヨルは苦い顔のまま続ける。
「それに対して、ヒロキの方は普段から喧嘩や補導歴があった。だから、周りも『あいつならやりかねない』で済ませたんだ」
そこでようやく、言葉が切れる。
「……俺が、庁内の報告書で読めたのはそこまでだ」
重たい沈黙が落ちた。
ユナもユジュも、簡単には言葉を返せなかった。
そんな二人の様子を見ながら、ムヨルは続ける。
「俺ももう少し掘ろうとしたんだが、上に止められた」
ユナが顔を上げる。
「なんで?」
「分からん」
ムヨルは首を横に振った。
「もう終わったことだから、そう言われただけだ」
短い沈黙のあと、ソヨンが静かに口を開いた。
「……だから、なのよ」
ちょうど食事を運んできたところだった。
彼女は皿を置きながら、穏やかな声で続ける。
「私は、ヒロキくんが理由もなく暴力を振るう子だとは思わないわ」
三人は何も言わずにその言葉を聞いている。
「急に全部うまくいかなくてもいいの。まずは、この家がヒロキくんにとって落ち着ける場所になってくれればいい」
ソヨンはそう言い、微笑んだ。
「さあ。お昼、冷める前に食べましょう」
三人は頷き、食事を始める。
さっきまでの重さが完全に消えたわけではない。
それでもソヨンは食卓を日常へ戻そうとしていた。
食事の匂いで、ヒロキが目を覚ます。
ぼんやりと天井を見たあと、体を起こした。
腹が減っていた。
そのまま外へ出ようと部屋を出る。
玄関に向かう途中で、リビングを横切った。
食卓にいた四人は、ヒロキに目を向けた。
「どこ行くんだ?」
ヒロキはムヨルを無視し、立ち止まることもなく玄関へ向かおうとする。
代わりにソヨンがやさしく声をかけた。
「よかったら、お昼食べない?ヒロキくんの分もあるわ」
するとヒロキの足が止まり、食卓へ目が向いた。
そこには、湯気の立つ料理が並んでいた。
ほんの短い間の後、ヒロキが答えた。
「もらいます」
その返答に、ソヨンの表情がやわらぐ。
「うん。用意するからちょっと待ってね」
ヒロキは空いている椅子に座った。
ソヨンがすぐに、取り分けてあった食事を運んでくる。
ムヨルとのやり取りから、ユナとユジュはてっきり断るものだと思っていた。
けれど、ヒロキはソヨンの言葉には素直に答えた。
料理が目の前に置かれる。
ヒロキは食事を見て、つぶやく。
「いただきます」
食べ始めたのを見て、他の四人も再び箸を動かしはじめた。
ソヨンがそっと尋ねる。
「どう?おいしい?」
ヒロキはソヨンを見つめる。
「うまいです」
無表情のまま。
だが言葉だけは素直だった。
その返事に、ソヨンは笑みをこぼす。
それからしばらく、食卓には静かな時間が流れた。
ヒロキはよく食べた。
遠慮も気取りもなく、出されたものをきれいに口へ運んでいく。
その食べっぷりに、ユナが思わず目を丸くする。
ユジュは食事を続けながら、時折その姿を見ていた。
成長期の少年らしいと言えば、それまでだった。
だが、それだけではない切実さが、その食べ方にはあった。
しばらくして、ソヨンが思い出したように口を開く。
「そういえば、ヒロキくん。来週からの制服のことなんだけど」
その言葉に、ヒロキの箸が止まる。
「学校指定の制服店に受け取りに行かないといけないの。このあと、みんなで一緒に行こうかと思ったんだけど……」
ヒロキはソヨンをまっすぐ見た。
「どこですか?」
ソヨンは案内の紙を手渡す。
「ここなんだけど……」
ヒロキはそれを受け取ると、一度見て折りたたみ、そのままポケットへしまった。
「自分で行きます」
それだけ言って、また食事に戻る。
断るというより、もう決めていたような言い方だった。
すると、ヒロキのスマホが鳴った。
画面を見て、そのまま通話に出る。
食事の手を止めることなく、耳に当てた。
「何?」
短く、答える。
「ああ」
「飯中」
「ああ」
「分かった。すぐ行く」
そして通話を切った。
相手が誰なのかは分からない。
だが、ヒロキの口調には、さっきまでの家族への応答とは違う慣れがあった。
ヒロキは残りの食事をきれいに平らげる。
「ごちそうさまです」
席を立ち、食器を持って行こうとしたところで、ソヨンが声をかけた。
「あ、洗い物はしておくから大丈夫よ」
ヒロキは軽く頷き、食器を置く。
そして、まっすぐ玄関へ向かった。
ムヨルが後ろから声を投げる。
「どこ行くんだ?」
ヒロキは答えない。
その背中を見て、ムヨルが立ち上がる。
「おい、これを持っていけ。家の暗証番号だ」
ヒロキは差し出された紙を受け取り、何も言わずポケットへしまう。
靴を履くヒロキにムヨルはもう一度声をかけた。
「夜までには帰ってこい」
返事はない。
そして扉を開け、家を出ていった。
扉の閉まる音が、短く玄関に残る。
ムヨルは腰に手を当て、息を吐いた。
それから食卓へ戻り、椅子へ腰を下ろした。
わずかな沈黙のあと、ソヨンがぽつりと言う。
「男の子って、よく食べるのね」
その一言に、雰囲気がやわらぐ。
「これからは、もっと多めに作らないと」
ユナは笑い、ユジュも口を押さえ、肩を揺らした。
さっきまでそこにいた異物のような少年は、自分の皿だけをきれいに空けて去っていった。
肌寒い中、ヒロキは駅へ向かって歩いていた。
歩きながら、あらためて思う。
このあたりは、元いた場所とは何もかもが違っていた。
整った街並み。
明るい色のマンション。
穏やかな顔をした家族連れ。
どこを見ても、育ちの良さそうな人間ばかりだった。
嫌なわけではない。
だが、どうにも落ち着かない。
この場所に身を置いていると、自分の中の何かが鈍っていく気がした。
弱くなる、という感覚に近いのかもしれない。
だからといって、元の場所が好きなわけでもない。
久しぶりに帰るはずなのに、高揚感は一つもなかった。
むしろ、また行くのかという面倒くささの方が勝っていた。
考え事をしているうちに、駅へ着く。
改札を抜け、ホームで電車を待つ。
しばらくして、隣に親子が並んだ。
仲の良さそうな母親と、小さな息子。
ヒロキは無意識に、その二人を見ていた。
そして、気づけばその母親に、自分の母を重ねてしまう。
それがひどく不快だった。
自分を捨てた女のことなど、とっくに吹っ切れたつもりでいた。
それなのに、心の奥底にはまだ何かが残っている。
そんな自分に腹が立った。
やがて電車が滑り込んでくる。
ヒロキは乗り込み、空いている席に座った。
電車が動き出し、窓の外がゆっくり流れ始める。
雰囲気だけで分かる。
自分のいる場所が、どれほど場違いなのか。
社会そのものに、見せつけられているようだった。
やがて、目的の駅に電車が着く。
見慣れた町。
外へ出た瞬間、嫌でも戻ってきたことを実感した。
戻るつもりがなかった場所。
うんざりしていたはずの景色。
なのに、それを目にすると、気持ちが落ち着く自分もいた。
ヒロキは煙草を吸おうとポケットを探る。
だが、指に触れたのはライターだけ。
小さく舌打ちして、ゆっくりと歩き出した。
しばらく歩くと、コンビニが見えてきた。
その店の前に、一人の少年が立っていた。
茶色く染めた髪。
清潔感のある整った顔立ち。
ヒロキと同じくらいの背丈で、体つきは驚くほど細い。
ぱっと見れば、喧嘩だの裏だのとは無縁そうな、モデルじみた少年。
少年はヒロキの姿に気づくと、笑顔で手を振り、その場で待った。
「久しぶり、ヒロキくん」
日本語だった。
ヒロキも、自然に日本語で返す。
「よぉ、有馬」
有馬恒一。
小・中学校の同級生。
そして、ヒロキが唯一信頼している男。
「元気そうだね」
「お前もな」
そう言って、二人はコンビニ前のプラスチック椅子に並んで座った。
静かな時間が流れた。
それが妙に心地よかった。
そして、ヒロキが先に口を開く。
「有馬。かあちゃん元気か?」
「うん。ヒロキくんがいつ出てくるのか、ずっと気にしてたよ」
ヒロキは小さく笑う。
「店は?」
「いい感じ。母さんも毎日楽しそうに働いてる」
「よかったな」
有馬は肩を揺らして笑った。
「はい。これ、退院祝い」
そう言ってカップコーヒーを差し出した。
「ホットでよかったよね」
ヒロキはそれを受け取る。
「悪いな」
すると、二人の前を、アイスコーヒーを手にした女性二人が横切る。
有馬はその女性たちを見て、自分のカップを両手で包むように持った。
「この時期にアイスは無理だよね~」
ヒロキは軽く鼻で笑う。
「無理だな」
「僕ら、生まれも育ちも韓国なのにね」
「まぁな」
ヒロキはコーヒーに口をつけた。
まだ少し熱い。
けれど、その熱さに気持ちが落ち着く。
「あと、これも」
有馬は続けて、未開封の煙草の箱を差し出した。
ヒロキは一瞬だけそれを見て、箱ごと受け取った。
「お前、吸わねえだろ」
「ヒロキくん用」
ヒロキは封を開け、一本を抜き取った。
ライターの火が揺れ、細い煙が上がる。
「気が利くな」
「でしょ」
有馬は満足そうに笑い、自分のコーヒーに口をつけた。
そして、今度はポケットから丸めたレジ袋を取り出した。
「そうだ。これも」
ヒロキは少し驚く。
「まだあんの?」
ヒロキが受け取って中を覗くと、駄菓子がたくさん入っていた。
「お前、相変わらずこんなんばっか食ってんな」
「だっておいしいじゃん」
二人は適当に一つずつ取り出し、包装を開ける。
有馬が駄菓子を齧りながら言った。
「ちょっと前までは、この辺にも駄菓子売ってるお店あったのにね。最近はもう全然見ないよ」
「前のとこは?」
「なくなった。おばあちゃんが亡くなって、そのまま店閉めた」
「ふーん」
「最近はコンビニでも色々売ってるけど、やっぱり違うよね。あの雰囲気の中で買って、そのまま外で食べるのがよかったのに」
「一緒だろ」
「全然違うよ」
有馬はそう言って笑う。
それからまたしばらく、二人は黙ったまま駄菓子を食べる。
有馬が口を開く。
「久しぶりだね、こういうの」
「ヒロキくんと駄菓子食べてる時が、一番楽しいよ」
ヒロキは答えなかった。
だが、否定もしない。
有馬は前を見たまま続ける。
「ヒロキくんがいなくなってから、この辺ちょっと荒れたよ」
ヒロキは何も言わず、顔だけを有馬に向けた。
「今までおとなしかった奴らが、また顔出すようになってきてね。でも、僕らの周りは大丈夫」
その一言で、ヒロキの顔から少しだけ力が抜けた。
有馬はそれを見て、察した。
そして、さりげなく名前を出す。
「リナちゃんには会った?」
「いや」
「会いに行ってあげなよ。すごく心配してたよ」
「何回か面会で会った」
「足りないでしょ、それじゃ」
有馬はわざとらしくため息をついた。
「あの子、ヒロキくんのこと好きだからね。会いに行ってあげてもいいんじゃない?」
ヒロキは黙ったまま前を見つめる。
だが、有馬はそれ以上しつこく言わなかった。
しばらくして、今度はヒロキが話題を変える。
「高校は?」
「近所のとこ。普通の高校だよ」
「ふーん」
「ヤンキーもいるし、真面目なのもいるし、まあそれなり」
そこで有馬は口元を上げた。
「でも、女の子のレベルは高いと思う」
「あっそ」
「今度紹介しようか?」
「いらない」
有馬はくすくす笑う。
「やっぱりリナちゃんだけ?」
その瞬間、ヒロキの顔に苛立ちが浮かんだ。
有馬は面白そうに笑う。
「冗談だって。相変わらずだね、ヒロキくんは」
ヒロキは舌打ちしたあと、また別の話を振る。
「お前相変わらず男に嫌われてんの?」
有馬はあっさり頷く。
「嫌われてる。嫌われてる」
ヒロキが鼻で笑う。
有馬は気にした様子もなく続けた。
「絡まれるほどじゃなくなったけど、やっぱり女の子にモテるって罪だよね」
「そういうとこだろ」
「ひどいなあ」
有馬は笑ったまま続ける。
「でも、普段は家の手伝いしてるし、遊ぶ時は女の子とデートするくらいだから、そんなに困ってないけどね」
「余計そういうとこだろ」
「そんなこと言ったら、ヒロキくんだって同じじゃない?」
有馬は悪びれずに言う。
「昔から、女取られたとか言われて絡まれてたじゃん」
ヒロキは一瞬だけ顔をしかめたが、何も言い返さない。
有馬はにこにこと笑う。
「いやぁ、お互いモテる男はつらいね〜」
ヒロキは鼻を鳴らした。
「そういえば、ヒロキくんも高校行くんでしょ」
「ああ」
「進明高校だっけ?」
ヒロキが眉を動かす。
「何で知ってんだよ」
「風の噂」
有馬は笑顔で答えた。
「さすがだね〜。有名な進学校じゃん」
「ふーん」
「ヒロキくん、昔から頭よかったしね」
「お前も悪くなかっただろ」
「まあね。でも、母さんに負担かけたくなかったから。近場で済ませた」
「そうか」
「でも、よかったね」
「何が?」
「何って」
有馬は当然のように言う。
「リナちゃんと同じ高校でしょ」
ヒロキは驚いてはいなかった。
ただ、そうなのか、という顔をしていた。
有馬がそれを見て笑う。
「知らなかったの?」
「聞いてない」
「リナちゃん、かわいそう」
有馬が続けて言う。
「まあでも、これで何かあったらまた守ってあげられるね」
その言葉に、ヒロキは何も答えなかった。
有馬も深くは踏み込まない。
「しかも、美人姉妹と家族になったんだって?」
「お前、何でも知ってんな」
「まあね~」
有馬は駄菓子を口に放り込んでから、真面目な声で言った。
「でも、気をつけてね」
「何が?」
「喧嘩」
ヒロキは黙って聞く。
「リナちゃんがいて、美人姉妹もいて、しかも編入でしょ。男は嫌うよ~そういうの」
「……」
「この辺なら、今までみたいに拳でやり返して終わりで済んだかもしれないけど、次はそう簡単にはいかないかもね~」
ヒロキは眉間に皺を寄せた。
「めんどくせえ……」
有馬は笑う。
「まあ、何かあったら連絡してよ。情報くらいならすぐ渡せるから」
「助かる」
また二人は無言になる。
だが、その静けさは重くはなかった。
久しぶりに手に入れた、気を張らなくていい時間。
しばらくして、有馬がふと思い出したように言う。
「そういえば、今日の夜予定ある?」
「いや」
「じゃあ、うちでご飯食べようよ。母さんも会いたがってるし」
「ああ」
「その前に、どっかで時間つぶす?」
「金ない」
「僕も」
それに二人とも小さく笑った。
コンビニの前。
煙草の煙。
安い駄菓子と、冷めていくホットコーヒー。
何も変わっていないようで、何かは確かに変わっていた。
それでも今だけは、それを考えずにいられる。
ヒロキは煙を吐き、隣の有馬を見ないまま、もう一つ駄菓子の袋を開けた。
第二章
完




