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Afterglow ~アフターグロウ~  作者: まっと


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第一章:帰る場所

第一章


 四月。まだ冬の気配が抜けきらない、ソウル特別市内の少年院。


 硬い足音が、ひと気のない廊下に規則正しく響く。


 少年院指導員のチェ・ミョンファンは、一つの房の前で足を止める。


「学生。前へ」


 その声で、少年がゆっくりと立ち上がる。


 高身長で、年齢に見合わぬほど鍛えられた身体。

 引き締まった肩と背中。

 無駄のない逆三角形の体躯。


 温度も情も削ぎ落としたような、虚無と冷酷さだけを残した瞳。


 しばらく切っていない髪は無造作に伸び、襟足は肩につきかかっている。


 そして、目を引く顔立ち。

 この場所には不釣り合いなほど整っている。

 だが、その造形に甘さはない。

 触れれば怪我をする類の美しさだった。


「今日で退院だ。手続きと荷物の引き渡しを済ませる。妙な気は起こすなよ」


 少年は答えない。


 ミョンファンは軽く眉をひそめる。


「相変わらず無口だな。返事くらいしろ」


「……」


「まあいい。来い」


 促され、少年は房を出た。命じられるまま前を歩き、窓口の前で足を止める。


 職員が書類から顔を上げた。


「名前は?」


 少年は口を開かない。


 職員の声が一段と低くなる。


「確認が取れないと出せねえぞ。それとも、まだここにいたいのか?」


 数拍置いて、少年がようやく答える。


「ヒロキ……」


「苗字は?」


「知らない」


 職員は露骨に顔をしかめたが、すぐに諦めて視線を落とす。


「はあ……まあいい。最近また変わったらしいな」


 そう言って、荷物を差し出した。


「入所時の所持品だ。持ってけ」


 ヒロキは袋の中を一瞥し、低く問う。


「煙草は?」


「お前、未成年だろ」


 ミョンファンが呆れたように口を挟む。


「没収だ、没収」


 職員も鼻を鳴らした。


「ライター返しただけでもありがたく思え」


 ヒロキはそれ以上言わず、荷物を受け取る。

 そして、鍵のかかった扉の前で立ち止まった。


 解除音が鳴り、扉が開く。

 ヒロキはそのまま出口へ向かおうとしたが、ミョンファンに呼び止められた。


「ちょっと待て。お前は裏口からだ」


 ヒロキは無言のまま、ミョンファンの後についていく。


 裏口の扉が開いた途端、外気と一緒に煙草の匂いが流れ込んできた。

 そこに、一人の男が立っていた。


 壁に寄りかかり、煙草を指に挟んだままこちらを見ている。

 大きな体に、鋭い目つき。あまりにも厳つい面構えで、ぱっと見、裏社会の人間にしか見えない。

 だが、その全体から漂うのは単純な威圧感ではなかった。

 現場を知り尽くした人間特有の、気安さと図太さがあった。


 ミョンファンがすぐに頭を下げる。


「ドジンさん、お疲れ様です。連れてきました」


 男の名は、ファン・ドジン。

 城南中院警察署刑事課強力班長。

 階級は警監。

 ヒロキの入所以来、少年院に何度も顔を出してきた男だった。


「おう、ミョンファン。ご苦労さん。ここからは俺が連れてく」


「かしこまりました」


 ミョンファンが施設の中へ戻っていく。


 それを見送ってから、ドジンはヒロキに顔を向ける。

 数秒、値踏みするように眺めた後、口元だけで笑う。


「よう。お勤めご苦労さん。久しぶりのシャバの空気はどうだ?」


 ヒロキは淡々と返した。


「一緒だろ」


 ドジンは短く笑い、煙草の箱を差し出す。


「吸うか?」


「警察が未成年に煙草渡していいの?」


「誰も見てねえ。それに、どうせ中でも吸ってたんだろ」


 ヒロキは一本抜き取ると、ライターで火をつけた。

 深く吸い込み、細く煙を吐く。


 ドジンはその横顔を見ながら言う。


「これから親父さんとこで世話になるらしいな」


 返事はない。


「よかったじゃねえか。お前を引き受ける場所なんざ、他になかっただろ」


「……」


「色々あったのは分かる。だが、これを機にまともに生きろ」


 声は軽い。

 だが、言っていることは軽くなかった。


「せっかく帰る場所ができたのに、また問題起こして路頭に迷うのはごめんだろ」


 ヒロキは煙を吐きながら、低く言った。


「俺にあんの、そんなとこ」


 ドジンは何も言えなかった。

 短い間を置き、話を変える。


「親父さんが迎えに来てるぞ」


 その一言で、ヒロキの眉間に皺が寄る。


 その反応を見て、ドジンは呆れたように鼻を鳴らす。


「そんな顔すんな。仕事の合間を縫って来てくれたんだ。しかも十三年ぶりだろ」


「誰?」


 即答だった。


 ドジンは顎をしゃくる。


「分かった分かった。煙草消せ。行くぞ」


 ヒロキは足元に煙草を落とし、靴先で火を潰した。


 二人は並んで、裏手の車寄せへ向かう。


 そこには、濃色の大型セダンが一台停まっていた。

 磨かれた車体は、この場には浮いて見える。


 その傍らに、スーツ姿の男が静かに立っていた。

 伸びた背筋。抑えられているのに消えない圧。

 長く組織の上に立つ者だけが身につける緊張感が、その男にはあった。


 ドジンが敬礼する。


「パク部長、お疲れ様です」


 男は小さく頷いた。


「ドジンさん。ご苦労さまです」


 パク・ムヨル。

 ソウル警察庁公共安寧情報部長。

 階級は警務官。

 そして、ヒロキの実父だ。


 ムヨルはヒロキを見つめる。


「……ヒロキ。大きくなったな」


 十三年ぶりの再会。

 だが、その言葉を受け取っても、ヒロキの中で何かが動くことはなかった。

 返事の代わりに向けたのは、冷たい視線だけ。


 ムヨルはそれを受け止めきれないように、ほんのわずか目を伏せる。

 それからドジンへ向き直った。


「迷惑をかけました。あとは私が」


「かしこまりました」


 ドジンは一歩引き、ヒロキを見る。


「おいヒロキ。大人しくしてろよ」


 ヒロキは返答せず、そのまま助手席へと乗り込んだ。


 ドアが閉まる。


 残されたムヨルが、かすかに息を吐く。


「心配だ……」


 ドジンが口を開く。


「あいつはとんでもねえやつですが、根っこまで腐ってるわけじゃありません。少し、まともに息をする場所が必要なだけです」


 ムヨルは苦く笑った。


「大人しくしてくれればいいが……もし何かあれば、連絡してもいいですか?」


「もちろんです」


「ありがとうございます。では、また」


「お気をつけて」


 ムヨルは軽く会釈し、運転席へ乗り込む。

 車は静かに走り去っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、ドジンは新しい煙草を取り出す。

 そこへ、ミョンファンが小走りで戻ってきた。


「ドジンさん。大丈夫でしたか?」


「ああ。あとは何も起きねえことを祈るだけだな」


 ミョンファンは去っていく車の方を見ながら言う。


「大丈夫っすかね、あいつ」


「さあな」


 ドジンは煙草に火をつけた。


「このまままともに生きるか、また戻ってくるか」


「最悪、次は少年院じゃ済まねえかもしれねえ」


 冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。


 ミョンファンも乾いた笑いを漏らす。


「冗談キツイっすよ。でも、何もなければいいっすね」


「そうだな。じゃあ俺は行く。仕事が残ってる」


「はい。また飲みに行きましょう」


「おう。お前も気をつけろ」


 二人は軽く手を上げて別れた。


 ムヨルの運転する車が、公道を静かに走る。

 車内には、息苦しいほどの沈黙が落ちていた。


 それに耐えきれなくなったムヨルが口を開く。


「……調子はどうだ?」


 ヒロキは答えない。


 ムヨルは前を向いたまま続ける。


「元気そうでよかった。ずっと心配していた」


 ヒロキが二歳の時に両親は離婚した。

 親権は母に渡り、それ以来、二人は一度も会っていなかった。


 その言葉が本心であることに疑いはない。

 ただ、その思いはヒロキには届かない。


「今までのことは聞いている」


 ムヨルは慎重に声をかける。

 気遣うというより、踏み外さないようにしていた。


「とにかく、これからは普通に生きていけばいい」


「……」


「新しい家族も、みんないい人だ。きっとお前の力になってくれる」


 そこまで言ってから、わずかに間を置く。


「ただ、そのためにも……問題だけは起こさないでくれ」


 問題だけは起こすな。


 ヒロキにとっては聞き飽きた言葉。

 どこへ行っても、自分は結局そういう存在なのだと、あらためて思う。


 歓迎されているわけではない。

 受け入れられたのではなく、監視と管理の範囲に入れられるだけ。


 そんな扱いには慣れていた。

 だから、今さら腹も立たない。


 ムヨルは沈黙を埋めるように、別の話題を口にする。


「これから高校にも通ってもらう。進明高校だ」


「首都圏でも名の知れた進学校だ」


「お前、かなり頭がいいらしいな。受け入れが決まった時は驚いた」


 返答はない。


 ムヨルは一度だけ横目でヒロキを見た。


「娘たちもそこに通っている。上が二年生、下がお前と同学年だ」


 それから、言葉を選ぶように付け足す。


「仲良くしてくれると助かる……」


 父親らしい言い方を考えた末の言葉なのだろう。

 だが、ヒロキにはその不器用さすら届かなかった。


 再び沈黙が戻る。

 車窓の外だけが、何事もないように流れていく。


〜自宅・城南市盆唐区の高級マンション〜


 車は整った高級住宅街を進んでいく。


 古い路地も、煤けた壁も、雑多な店もない。

 見えるもののすべてが、ヒロキの知っている生活圏から遠かった。


 やがて一棟の高級マンションの前で減速する。


「ここだ」


 ヒロキは窓の外に目をやる。


 明るく、静かで、隙のない場所だった。

 自分とはまるで接点のない世界のように見えた。


 車は地下駐車場へ入り、所定の場所に停まる。


 エンジンが切れ、わずかな振動も消えた。


 ムヨルがヒロキに向き直る。


「……大丈夫か?」


 ヒロキは無言で見返した。


 その目は何も映していないようでいて、同時に何かを測っているようでもあった。

 虚無的で、冷たく、底が読めない。


 ムヨルはその目に、ごく短い恐怖を覚える。


 この少年を本当に家へ入れてよかったのか。

 自分の家族の中へ迎え入れるという判断は、正しかったのか。


 そんな迷いが頭をよぎる。

 だが、それを今さら口にできるはずもない。


「……行こう」


 それだけ言い、ムヨルは車を降りた。


 ヒロキも黙って後に続く。


 二人はマンション内のエレベーターに乗り込んだ。


 ムヨルがボタンを押す。


「二十階だ。景色がいい」


 ヒロキの反応はない。

 興味がないことが、横顔だけで分かる。


 わずかな機械音とともに、エレベーターが上昇する。

 沈黙もまた、同じように続いていた。


 やがて二十階に着く。


 エレベーターを降り、廊下を進む。

 そして、玄関扉の前でムヨルが立ち止まった。

 扉の横のパネルに暗証番号を打ち込むと、短い電子音のあと、ロックが外れた。


「ただいま」


 奥からすぐに声が返ってきた。


「おかえりなさい」


 その声だけで、ヒロキは感じた。


 家の空気が違う。


 玄関には靴がきちんと揃えられている。

 誰かがここで暮らしている匂いがする。

 家族が帰ってくることを前提に整えられた生活の跡が、ここにはあった。


 前の家にはなかったものが、ここにはありすぎる。


 二人は靴を脱いで中へ上がる。


 廊下を抜け、広いリビングの手前で、ヒロキの足が止まった。


 理由は一つ。


 胸の奥に、はっきりとした感覚があった。


 ここに入れば、もう後戻りはできない。


 明るい照明。

 穏やかな声。

 人の気配。

 食卓を囲むことを前提にした、壊れていない家。


 それらすべてが、ヒロキには眩しすぎた。


「おかえりなさい、あなた」


 柔らかな笑みを浮かべた女性が出迎える。

 清潔感があり、穏やかで、どこにも棘がない。

 ムヨルの妻、ソヨン。


 それに続き、ソファでくつろいでいた少女が明るく顔を上げる。


「お父さん、おかえりー」


 長い手足に都会的で洗練された雰囲気。

 一目で人目を引く華のある少女だ。

 パク・ユナ。ソヨンの長女。


 その隣にいたもう一人の少女は、声の代わりに手を振る。


 静かで、儚げで、けれど不思議と視線が留まる。

 パク・ユジュ。ユナの妹であり、ヒロキと同学年になる少女。

 耳が聞こえないわけではない。けれど、過去の出来事を境に、声を失っていた。


 ソヨンはムヨルのコートを受け取りながら、玄関の方を見た。


「あら……」


 そこで初めて、ヒロキがリビングへ入ってきていないことに気づく。


 ムヨルが振り返った。


「どうした。入らないのか?」


 ヒロキは数秒、動かなかった。


 本来、自分とは無縁のはずだった景色。


 それでも、促されるまま一歩だけ前に出る。


 そして、リビングへ足を踏み入れた。


 ソヨンがやさしく声をかける。


「はじめまして、ヒロキくん」


 ヒロキは小さく会釈した。


 ユナは一瞬、目を見開いた。

 思っていたよりずっと整った顔立ち。

 虚無で冷たい目つきさえなければ、どこかの芸能人だと言われても信じられるほどに。


 ユジュもまた、黙ってヒロキを見つめている。

 ただ、その反応はユナのような素直な驚きではなく、もっと静かなものだった。


 最初にユナが動いた。


「はじめまして。私、ユナ。これからよろしくね」


 そう言い、明るく手を差し出す。


 だが、ヒロキはその手を取らなかった。

 ユナを見たのかどうかも分からないまま、顔だけをムヨルへ向ける。


「部屋は?」


 ムヨルが一瞬言葉に詰まる。


「あ、ああ……廊下の一番奥だ」


 それだけ聞くと、ヒロキはそのままリビングを横切っていった。


 差し出したままになった自分の手を見て、ユナは唇を尖らせる。


「なんか……感じ悪い」


 ソヨンが取りなすように言った。


「緊張しているのよ」


「みんなお腹すいたでしょう。これからお昼ご飯作るわね」


 ユナはまだ不満そうに、ヒロキが去っていく姿を見る。


 その横で、ユジュもヒロキの後ろ姿を、静かに見つめていた。


 ヒロキは部屋の扉を開け、中へ入る。


 必要なものだけが、きれいに揃えられていた。


 新しいシーツの敷かれたベッド。

 まだ服が入っていないクローゼット。

 使う人を待つだけの机と椅子。


 どこにも生活の跡はない。

 まるで待っていたとでも告げるように、部屋の中は整えられていた。


 ヒロキには分からない。

 なぜ自分のために、ここまでするのか。


 素直に好意として受け取ることができない。

 何か裏があるのでは、と先に考えてしまう。


 ヒロキはベッドの縁に腰を下ろした。


 廊下の向こう、遠くリビングからかすかに声が聞こえる。

 誰かが笑い、誰かがそれに応じる。

 普通の家の音。


 これからどうなるのか。

 この家で何を求められるのか。

 考えても、分からない。


 煙草を吸いたくなり、ポケットを探る。

 だが、没収されたことを思い出す。


 小さく舌打ちする。


 今すぐ家を出る気力もない。

 ヒロキはそのままベッドに横になり、目を閉じた。


 一方、リビングには週末の昼らしい穏やかな空気が流れていた。


「お父さん、今日はもう仕事終わり?」


 ユナが気軽に尋ねる。


「いや。昼食べたらまた戻らないといけない」


「え、今週も?最近ちゃんと休んだ?」


「いつだったか……もう覚えてないな」


 ユナは呆れたように笑い、ユジュも肩を揺らす。


「ちゃんと休んだ方がいいよ」


 ユジュも頷いた。


「そうしたいのは山々なんだが、今ちょっと厄介な事件があってな」


 それを聞いて、ユナが身を乗り出す。


「へえ。何の事件?」


 ムヨルは笑った。


「言えるわけないだろ」


「けち」


 ユナが不満そうに言い、リビングに小さな笑いが落ちる。


 その流れのまま、ムヨルがふと思い出したように言った。


「そうだ。来週からヒロキも同じ高校に通うって話は、していたよな」


 ユナとユジュが頷く。


「うん。ユジュと同じクラスになるんだっけ?」


 ユジュはスマホを取り、素早く文字を打ち込んだ。


〈学年でも結構噂になってる〉


 ムヨルがそれを読み、質問する。


「先生から聞いたのか?」


 ユジュは首を横に振り、また打ち込む。


〈噂好きの女の子が職員室で聞いて、広まった〉


 さらに、次の一文を見せる。


〈今女子の間では、頭のいい国宝級のイケメンが来るってことになっていて、男子の間では、アイドル級の美少女が来ることになってる〉


 それを見て、ムヨルとソヨンが思わず笑う。


「片方は当たってるわね」


「今どきの高校生はすごいな。情報収集力が警察並みだ」


 その言葉に、ユナとユジュも笑った。


「ほんとにすごいよ。特に女子は」


 ユナが言う。


「私の学年でも、ここ数週間ずっとその話題だし。途中入学って珍しいみたいだしね」


 それを聞きながら、ムヨルは庁内で回ってきた報告書の内容を思い出した。


「あ~、確かに報告書にも書いてあった。試験で、ありえないくらいの高得点を出したらしい」


 ユナが目を丸くする。


「へえ……」


 ユジュも感心する。


 少し間が空く。


 それから、ユナがややためらいながらも口を開いた。


「ねえ、お父さん……」


「なんだ?」


「ヒロキくんって……なんで少年院に入ってたの?」


 その瞬間、雰囲気が変わった。


 ムヨルとソヨンが一度だけ視線を交わす。

 ユナもユジュも、ヒロキに言いづらい過去があることくらいは、以前から察していた。

 だが、詳しい話は何も聞かされていない。


 ソヨンは黙ったまま、ムヨルを見る。

 話してもいいのではないか。

 そう言う代わりのような目だった。


 ムヨルは深く息を吐く。

 そして、しばらく黙ったあと、重い口を開いた。


「……あれは、一年半前のことだ」


第一章

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