第二話 扉が開く時
横断歩道を渡った薫は、何事もなく、いつもと同じ時刻に、市立瑞穂中学校校へたどり着いた。
他の生徒達と一緒に表門を通って、すれ違うクラスメイト達と挨拶を交わし、校内の隅に設置された駐輪所に自転車を停める。
他の生徒達と一緒に玄関をくぐって校舎へと入り、靴箱の前で上履きに履き替え、廊下を歩いて突き当たりの階段を登って二階に上がる。
廊下を歩き、『一年B組』と書かれた札が下げられた教室へ足を踏み入れた。
「あ、小鳥遊さん、おはよっ」
「薫おはよー」
「おはよう」
クラスメイト達に挨拶を返しながら、中央の自分の席へ向かう。
窓際の後方にある自分の席に着き、リュックから出した教科書を机の中に仕舞っていると、不意に、誰かの足音が自分の席へ近づいてきた。
「―――小鳥遊さん」
かっちりとした大人びた少年の声に、薫はぎくりっ、と肩を震わせ、ある事に気付いて、しまったと思った。
苦虫を噛み潰したような心境で、しかしそれを表に出さぬよう、ゆっくりと振り向くと、制服をきっちりと着こなし、黒髪を整え黒縁の眼鏡をかけた、生真面目という言葉を体現させたような少年だった。
名前は御手洗蓮。このクラスの風紀委員長であり、薫が唯一苦手意識を持つ人物であった。
その理由は―――……。
蓮は右手で眼鏡の位置を直し、一拍置いて口を開いた。
「何度も言っているでしょう。その髪色は校則違反です」
蓮の指摘を受けた薫は、反射的に指先で銀の前髪に淡く触れた。
この髪色は生まれつきのものだが、事情を知らない相手から見れば、メッシュを入れているように見えるだろう。
薫も入学当初から、これは地毛だと何度も説明しているが、蓮本人はまだ信用していないようだった。
けして、薫個人に難癖をつけている訳では無い。
あくまで、風紀委員として仕事をしているだけだ。
薫も、余計な波風を立てないよう、黒のヘアスプレーで銀髪を染めていたが、何故か二、三日で色落ちしてしまい、その度に染め直して登校していたが、時折忘れてしまい、その都度蓮から注意を受けていた。
「すみません、御手洗さん。今染め直します」
薫が素直に頭を下げると、蓮もそれ以上は苦言を申さず、ふぅ…と、いたし方ないという様にため息を吐いた。
「それなら、問題ありません。以後気をつけて下さい」
最後にそれだけを告げ、背を向けて蓮は離れていく。
直後、教室のあちこちから、二人のやり取りを見守っていたクラスメイト達からのひそひそ声が聞こえてきた。
「…別に、そんなに目立つような色じゃないのに、一々目くじら立てなくても良いじゃんね?」
「いつも厳しすぎじゃない?小鳥遊さん可哀想…」
内容は蓮の指導に対する…主に、女子からの抗議を含んだ声だった。
殆どが、薫を擁護する内容だったが、自分のせいで蓮が非難されているようで、気分は良くなかった。
鉛のような感情を払うように、薫は鞄から取り出した巾着袋から、ヘアスプレーと、小さな置き鏡、一枚の使い捨てのビニールケープを取り出し、制服の上からそれを被り、鏡を見て、周囲や自身の机を汚さないよう気をつけながら、スプレーを吹きかける。
前髪ともみあげが、完全に黒く染まったのを確認し、薫はビニールケープを取って、教室の隅に設置されたゴミ箱へ放り込み、自席へ戻って鏡とスプレーをしまう。
手持ち無沙汰となり、机に頬杖をついて、窓の外の景色をぼんやりと眺める。
その時、薫の席に再び足音が近づいてきた。
満の歩幅の揃った、静かな足音とは対照的な、バタバタと軽やかで忙しない音。
「薫っ!おはよっ」
名前を呼ばれ、薫が振り返る前に、正面に周りこんだ一人の少女が、にっと歯を見せて快活に笑う。
「高橋さん、教室を走らないで下さいっ」
すぐさま、満の叱責が飛び、少女は「ごめーん、御手洗さん」と全く反省していない声音で謝罪する。
栗色の毛先が外側に跳ねたショートカットに、星のような煌めきを宿した、明るい鳶色の瞳をした、利発、快活を体現したようなこの少女の名は、高橋千奈都。
薫の小学校低学年から、共に過ごしてきた幼馴染みた。
「朝練お疲れ様…って、あまり疲れては無いな」
「あはは、この程度でへばってたら、バスケなんか出来ないって」
ころころと明るく笑いながら、薫の机に寄りかかった時だった。
「うーっす、千奈都、薫、いるかぁ?」
教室に、一人の男子生徒が入って来た。
短く切りそろえられた硬い短髪と、つり上がった瞳は赤みがかかり、程よく日焼けした肌と、がっちりとした体格から、日々鍛えている事が伺える。
同年代より上背もあり、一見威圧感があるが、きりっとした太眉と、少年のような人懐っこい笑みから、明るく親しみやすい印象を与える。
少年の名前は渡辺大和。
薫のもう一人の幼なじみであり、幼少期は、千奈都と大和、二人の弟妹達と共に、野山を駆け回って遊んだ過去を、まるで昨日あった事のように鮮明に思い出せる。
それだけ、彼らと一緒に過ごした時間は長く濃いのだ。
大和が席へ近づくと、薫は反射的に、顔を伏せる。
けして、彼の事を嫌悪しているからではない。
自分でも、理由は解らないが、小学校、高学年から大和と距離を詰められると、胸の奥がむず痒くなり、顔を直視できなくなる。
そんな薫の様子に気付く事なく、千奈都と大和は会話を始める。
「おはよ、大和。朝から珍しいね。なに?うちらが恋しくなったとか?」
「馬鹿っ、ちげぇよ。ほら、これお前のだろ?」
そう言って、大和が千奈都に差し出したのは、オレンジ色のハンカチだった。
「あ、あたしの!落してたんだっ」
「手洗い場に置きっぱなしになってたぞ」
ハンカチを見て、制服のポケットを確認した後、自分の持ち物だと確認し、大和からハンカチを受け取った。
「ありがとっ、これお気にだったから、良かった。でも、よくあたしのだって解ったね」
「お前の部の練習場と近いし、柄とか色がお前の好みそうなやつだったから、もしかしたらって、思ってさ」
「さっすがぁ、何だかんだ言って、私の事良く解ってるじゃん」
「そりゃ、幼稚園の頃から付き合いだからな」
ニヤニヤとイタズラっい笑みを浮かべる千奈都に、大和が、にっと明るく笑って返す。
二人の信頼と気安さに満ちた、やり取りに薫は俯く。
自分より、千奈都と大和の方が、深い信頼と絆で結ばれているように見えて、一枚壁を隔てているような、寂しさを感じたからだ。
無論、自分が勝手に思い込んでいるだけだと、解っているが…。
直後、薫が座る席の左隣に開いた大窓から、一筋のそよ風が吹き込み、カーテンを揺らした。
その時……。
『――――………』
「……え?」
笛の音色にも似た、風の音に混じって小さな『声』が薫の耳に届く。
薫は反射的に、机から身を乗り出して、窓の外をキョロキョロと見回した。
無人の校庭も、フェンスに隔てられた向こうがにある住宅街も、何時もと何ら変わりは無い。
「…ん?薫?」
「どうした?」
千奈都と大和が、薫の突拍子もない行動に、きょとんとした表情で訊ねる。
その時、始業時間を告げるチャイムが、拡声器を通して、学校中に鳴り響き、薫の意識を引き戻した。
教室のあちこちで、思い思いに談笑していた生徒達が、話を切り上げて、自分の席へ戻っていく。
「あっ、俺も戻るわ。じゃあな、千奈都、薫」
大和はそう言い残し、急ぎ足で、自分の教室へと戻っていく。
その背中を見送った薫は、再び窓の外へと視線を向けた。
その様子を見た千奈都は、怪訝そうな表情で訊ねた。
「薫、さっきからどうしたの?」
「今…」
「小鳥遊さん、高橋さん、もう朝礼始まるよ?」
薫が先程、自身が聞いたものを話そうとした時、二人の傍らを通った女子生徒が、薫達に声をかける。
「あ、うん。薫、また後で話そう」
そう言って、千奈都は、自分の席へと戻って行き、薫は、何処か釈然としないものを抱えながらも、日直の指示に従い、他の生徒達と動きを合わせて、席を起立した後礼をし、日課である、朝の挨拶を唱和する。
着席した後、担任が番号順に名前を呼んで、出席確認をとっていく。
薫の名が呼ばれ、返事をした後、無意識に窓の外へ視線を向ける。
ただの空耳…だったのかもしれない。
そう考える方が、現実的だとは、頭では理解している。
それでも、薫はあの時、風の中で確かに聞いたのだ。胸が締め付けられるように悲痛な、小さな女の子の『たすけて』という泣き声を………。
――――――時を少し遡る。
市街地から離れた、林の中に隠されるように、ポツンと建てられた、小さな祠。
その近くの草むらに、子供程の大きさの、灰色めいた毛の塊が横たわっていた。
毛玉の周囲の草むらには、白い鳥の翼が花びらのように散らばっていた。
毛玉はピクリと小さく震え、微かな呻き声らしきものをあげたかと思うと、ゆっくりと緩慢な仕草で身を起こす。
木の葉や小枝が絡まった、毛の奥から垢と泥で真っ黒に汚れた、鮮やかな真紅と澄んだ空色の、左右で異なる瞳を持つ、幼い女の子の顔が露わになる。
しかし、女の子は人間では無かった。
頭頂部には、ボサボサの髪に埋もれるように生えた、一対の狼の耳。背中には、汚れてくすんだ、白い羽毛に覆われた一対の翼が、腰のつけ根からは、白鱗に覆われた、長くしなやかな尾が、生えていた。
身に纏うのは、使い古されたボロ雑巾のような汚い布切れ一枚。
小鹿のような細い首には、シンプルな黒革のチョーカーベルトが取り付けられていた。
人に似て、しかし人とは異なる異形の少女。
しかし、周囲を不安げに見回すその姿は、迷子のように頼りない。
(…ここは、どこ…?)
事実、少女は此処がどこなのかも、自分がなぜ此処で倒れていたのかも、全く解らなかった。
(…わたし、たしか……)
意識を失う前の出来事は、よく憶えていない。
なにか、とても痛くて、恐ろしい目に遭わされたような…だが、何があったのか、それが思い出せない。
記憶を引き出そうとすると、それを拒否するように、頭の中が、真っ黒に塗りつぶされる。
不意に、恐ろしい事実に気がつき、少女は氷の手で、心臓を掴まれたように息が苦しくなった。
(…あれ…?…わたし…は…)
――――気づいたのだ。
思い出せないのは、意識を失う直前の記憶だけではない事を。
(な、まえ……わたし、の…名前…)
自分の名前が思い出せない。
それだけではない。
どこから来たのかも、自分が何者なのかも……。
自身が生きてきた証さえ、全て頭の中から抜け落ちていた。
それは、月明かりもない、真っ暗な夜の闇に、身一つで放り出される事に等しい。
(…や、だ……やだやだやだ……っ!)
身体中の臓器がせり上がるような、とてつもない恐怖に、少女は頭を抱え固く目を瞑り、闇の奥へと意識を深く潜らせ、必死に記憶を探る。
ほんの一欠片でも良い。
自分自身を証明するものが、見つかるなら何でも良かった。
――――しかし………。
「――――――っ!!」
無理矢理記憶を引き出そうとした弊害だろうか。
突如、頭蓋に突き刺さるような激しい痛みが、稲妻のように脳内を走り、たまらず少女はその場にうつ伏せで倒れ込んだ。
(っ、わたし…声…でない…っ)
悲鳴すらも上げられない事に気づき、少女は喉に手を当てる。
試しに何か言おうとしても、声帯が凍りついたかのように働かず、「…っぁ」か「…っぅ」という、吐息のような微かな音が漏れるだけだった。
記憶を失くし、声も出ず、何も解らないまま、知らない場所にたった独り。
星明り一つない夜の大海原に、重りをつけて放り込まれたような、とてつもない恐怖と絶望が襲いかかる。
胸が潰れたように苦しくなり、視界が歪み、大粒の涙が溢れ出す。
(やだぁ…っ、やだよ…っ!ひとりイヤ…ひとりこわい…だれ、か…誰か…っ)
少女は、その場に蹲り、小さな身体を震わせ、顔を覆って、声も出せず泣きじゃくる事しかできなかった。
誰かに助けて欲しかった。傍にいてほしかった。
だが、声を出せない自分には、自分の存在を報せる術もない。
それでも、救いを求めずにはいられなかった。
(――――たすけて)
不意に、古びた境内を一筋の風が地面を撫でるように吹き抜け、少女の傍らを通り過ぎて外へ舞い上がる。
形なき想いを乗せ、風は家々の屋根の上を通り抜け、中学の校庭へとたどり着いた。
二階の教室の窓にかかった、カーテンが小さく揺れた時、窓際の席に座った、黒髪をショートにした一人の少女が、何かに気づいたように振り返った。




