第一話 小鳥遊薫の日常
――――――っ………っ、……ひっく……っぐす……
(………―――誰?)
遠くから聞こえてきた、幼い子供のすすり泣く声に誘われるように、薫はゆっくりと目を開けた。
世界から隔絶されたような、上下の境界すら曖昧な、真っ暗な空間。
その向こうで、ポツンと浮かび上がる、小さな白いシルエット。
それは、床につく程長い、雪のような純白の髪をした、幼い少女だった。
こちらに背を向けて踞り、顔を覆って、時折しゃっくりを上げながら、泣いていた。
泣き声の主は、この子だと確信し、薫は一歩ずつ慎重に歩み寄り、距離を近付ける。
「―――君は、誰?どうして、ここにいるんだ?」
小さな背中に、そっと問いかけ、はっと目を見開く。
少女は、普通の人間とは、明らかに異なる部位を有していた。
頭頂部には、髪と同じ毛色に覆われた獣の耳。
小さな背には、天使を想わせる、柔らかな白い羽毛で覆われた鳥の翼が、腰の付け根からは、翼と同じ白色の鱗に覆われた、長くしなやかな尾が生えていた。
竜―――少女の尾は、数多の伝説を残す、最強の幻想生物の名を彷彿とさせた。
そして、その身に複数の生物の特徴を宿す、この少女もまた、人ではない。
…………だが、小さな背を震わせ、しゃっくりと共に、涙をこぼすその姿は、痛ましく哀れで、普通の幼子と変わらない。
薫はさらに数歩近づくと、その場にしゃがみこみ、優しく小さな背中に話しかけた。
「……どうして、泣いているんだ?」
少女が人外の者である事は、とうに気付いている。
だかそんな事実より、目の前の少女の痛みを、少しでも拭ってやりたい気持ちが勝っていた。
少女のすすり泣きが、ピタリと止み、沈黙が落ちる。
ゆっくりと、恐る恐るといった様子で、少女が振り返る。
そして―――――――――……………。
――――――ピピピピピピッ!
突如鳴り響いた、甲高い電子音が、鼓膜を突き破って脳内を反響し、夢の世界を木っ端微塵に打ち砕いた。
「…ぅ……ん」
突如、夢から現実のベッドの上へと叩き出された少女は、気怠げに呻きながら、シーツの上を這うように腕を動かし、手探りで枕元の電波時計を探しだすと、やや乱暴な手つきで、スイッチを切った。
表示された時刻は、午前七時。今日は平日。
学校がある以上、起きないわけにはいかない、が……。
もう少し…もう少しだけ、このだらけた甘美な時間に浸っていたいと、寝返りを打つ。
目を閉じて、枕に顔を擦りつけるように、埋めた直後―――。
「薫――、起きたの?」
ドアの向こうから、急かすような、少し呆れたような声が響き、少女は溜め息を漏らした。
小さく、ん…と呻き声を漏らし、少女はゆっくりと重たげに身体を起こした。
まだ幼さが残るが、整った顔立ちをした、凛とした涼やかな雰囲気の少女だった。
寝癖で乱れたショートカットは、両方のもみあげと真ん中の前髪が、付け根から毛先にかけて銀色に変化しており、そのグラデーションが、黒髪によく映えていた。
形よく生え揃った長いまつげが縁取る、目尻のつり上がった、黒曜石のように澄んだ瞳は、すました猫を想わせた。
少女の名前は小鳥遊薫。歳は十二歳。
今年の春に、市立瑞穂中学校へ入学したばかりの、平凡な女子中学生である。
「ふわあ…っあ…」
大きく欠伸をして、伸びをした後、ベッドのマットレスに手をついた時、不意に指先に何かが当たった。
それは――――丸くカットされた、透き通った漆黒の珠と、とぐろを巻いたデザインの龍を模した装飾を合わせた指輪だった、
一見、何の変哲もない普通のアクセサリーだが、薫にとっては、この世でただ一つの、かけがえのないものだった。
薫は両手で包み込むように、チョーカーを胸に押し当て、ポツリと言葉をこぼした。
「……お父さん、お母さん…」
――――――十分後。
薫は脱衣所の洗面台の前で、流水で洗顔料の泡を洗い流していた。
濡れた顔をタオルで拭き終え、顔を上げる。
寝起きで気怠げだった表情は、洗顔によってしゃっきりとした表情に引き締まり、服もパジャマから、制服である、白いYシャツに首元の赤いリボンが映える、紺色のジャンパースカートに着替えられていた。
タオルで顔を拭いていると、不意に、先ほどの夢で見た光景が脳裏を掠める。
もう内容は、殆ど覚えていないが、雪色の綺麗な髪と、対照的な真紅と空色の瞳は、瞼の裏に鮮明に焼き付いている。
鏡の前で、軽く身だしなみをチェックしてから、脱衣所を出て、リビングへ向かう。
廊下を歩いていると、出汁の香りが鼻腔をくすぐり、空腹を刺激して、無意識に唾が沸いてくる。
リビングに通じるドアをスライドさせ、足を踏み入れる。
光沢のあるフローリングの床と、その上に設置された品の良い家具には、塵一つ落ちておらず、日頃の清掃が行き届いている事が伺える。
窓からは柔らかな朝日が差し込み、壁に立てかけられるように設置されたTVからは、お天気キャスターの爽やかな声が流れていた。
左奥に設置されたダイニングテーブルの指定席で、新聞を読んでいた、白髪交じりの厳しい顔をした男性と、キッチンスペースで、朝食の味見をしていた、グレーのスーツの上に、エプロンを着用した、薄く化粧を施し、カールかかった上品なブラウンのミディアムヘアをした、朗らかな笑みを浮かべた女性が振り返った。
「おはよう、薫、やっと起きたの?」
「おはよう、薫」
二人の温かな声に、薫も挨拶を返した。
「おはよう、父さん、母さん」
エプロンの女性は母である、小鳥遊詩織。
自席で、新聞を読んでいた男性は、父の小鳥遊重雄だ。
両親は過保護で、生活態度に厳しい為、小言も多いが、少し辟易する事はあっても、全部自分の為に、言ってくれている事が解っているので、煩わしいと思った事は一度もない。
「ご飯、冷めないうちに、早く食べちゃいなさい」
「はーい」
みそ汁の入ったお椀を受け取り、薫はリビングに設置された、ダイニングテーブルの自分の席へと座る。
テーブルには、詩織が用意してくれた、朝食が並べられていた。
三つに区切られた、木製のプレートには、ひじきの煮物とだし巻き卵、サラダが丁寧に盛り付けられ、メインのスペースには、丸みを帯びたおにぎりが二つ乗せられている。
湯呑みに緑茶を注ぎ、手を合わせて「いただきます」と挨拶してから、朝食を食べ始めた。
箸でサラダを口に運び、おにぎりを一口頬張る。
程よい塩気と、梅干しの酸っぱさが、米の自然な甘さを引き立てている。
キッチンスペースで、お弁当におかずを詰めながら、詩織が口を開いた。
「薫、お父さん、今日大事な会議があるし、私も遅くなるから、夕飯は、冷蔵庫の作り置きがあるから、それで済ませて」
「そうなんだ…解った」
「私がいなくても、好きなものばっかり食べないで、おかずはバランス良く食べるのよ?あと、夜ふかししないで、早めに寝なさい」
「解ってるよ、母さん。もう小学生じゃ無いんだから」
詩織の何時もの小言に、薫が苦笑いを浮かべた直後だった。
『―――次のニュースです。昨日午後三時頃、埼玉県秩父市瑞穂町在中の、市立瑞穂小学校五年生、東桜輝(十一歳)が、下校途中の通学路で、友人と別れた後消息を絶ち、行方が分からなくなりました』
朝の爽やかな空気に似合わない、不穏なニュース
に、薫の箸がピタリと止まる。
同時に、詩織の手も一瞬止まり、重雄が新聞から顔を上げる。
三人の視線が、示し合わせたかのように、同時に画面に集中する。
画面では、男性キャスターが淡々とした口調で、ニュース内容を読み上げていく。
『―――尚、この付近に住む児童が突然失踪する事件は、今月に入って五件目であり、警察は事件と事故両方の可能性を視野に、捜査を続けており…』
画面に、行方不明になった、少年の顔写真が映る。
赤と白のキャップを後ろに被り、ダブルピースを作って、太陽のように輝く満面の笑みを浮かべた、活発でヤンチャそうな、何処にでもいる普通の少年だった。
「また、子供がいなくなったのか…」
重雄が、眉間に皺を寄せ、厳しい顔を更に険しくしながら、引くく呟く。
先月の下旬から、薫の暮らす地区を中心に、付近に住む小学生が、謎の失踪を遂げる事件が起きていた。
いなくなった子供達には、性別や学年、学校もバラバラで、共通点はなく、家庭内や友人関係で、なにか問題を抱えている訳でも無かったと聞く。
事件の直前まで、特に変わった様子もなく、いつも通りだったのに、霞のように忽然と姿を消してしまった。
警察の必死の捜査も虚しく、消えた子供達の行方は掴めず、捜査は難航するばかり。
のどかな田舎町で、子供が相次いで姿を消す事件が起きている事から、町全体がどことなくピリついた空気に包まれていた。
重雄は、TV画面から目を離すと、薫と目線を合わせ、重々しく口を開いた。
「…薫、遊ぶなとは言わんが、必ず暗くなる前には家に帰ってこい。人気の無い道は歩くな」
詩織も普段の朗らかな笑みを消し、真剣な眼差しを薫に向ける。
「そうよ、何かあったら、必ずスマホで私達に連絡すること。解ったわね?」
行方不明になったのは、全員小学生だが、薫も少し前まで小学校へ通っていた身。ましてや女の子だ。
親としては気が気ではないのだろう。
何より『過去』の事がある。
だからこそ、他者より過敏に反応するのは至極当然だった。
「解った」
返事は短かったが、薫は二人の目を見つめ返し、真剣に頷いた。
――――十分後、薫は教科書とタブレットを詰めた通学鞄を肩にかけ、靴を履いて両親と一緒に玄関を出る。
「お父さん、お母さん、行ってきます」
「行ってらっしゃい、頑張ってね」
「気をつけてな」
挨拶を交わした後、両親と別れて庭の隅に設置された駐輪所に向かい、祖父母から入学祝いとして贈られた、ライラック色の自転車の籠に鞄を入れ、ロックを外し、自転車を引き出して跨ると、左右を見渡してから、慎重に道路を横断し、学校へ向かって自転車を漕ぐ。
初夏のひんやりとした爽やかな風が、全身を撫でていき、スカートがバタバタと羽ばたくようにはためく。
道の両隣に立ち並ぶ、様々な造りの住宅と、それぞれの庭先や花壇に植えられた、色も種類も様々な花たち。
中には、子供の物らしき、三輪車や遊具が設置されている家もある。
閑静な朝の住宅街の中を走っていると、世間を騒がせている失踪事件など、全て悪い夢の中のような出来事のようだ。
十字路の横断歩道の前で、信号が変わるのを待っていると、反対側の道を、黄色い旗を持った上級生を先頭にして、手を挙げて渡っていく、小学生の集団が目に止まった。
例の事件以降、近隣の小学生達は、集団か親の車による送迎での登下校が当たり前となっていた。
無意識に、子供たちの列を目で追っていると、目の前の信号が赤から青へと変わり、薫は左右を見渡してから、自転車を漕いで歩道を渡った。
道路をゆき交う車と、花屋の店頭を彩る、朝露を宝石のように纏った、小さな花達と、その隣に建つ老舗の喫茶店から、微かに漂うコーヒーの香り。
何も変わらない、いつもと同じ朝の近所の光景。
――――しかし、薫は知っている。
皆が当たり前に享受している平穏は、薄氷のように脆く壊れやすい。
なんの前触れもなく、ある日突然砕け散っても、おかしくはないのだ。
――――十六年前、『あの人』が突然、この町から姿を消した時のように……。
……だが、あの時出来事が無ければ、自分はこの場にはいなかった。
過去と同時に突きつけられた事実に、胸中に何とも言えない、複雑で苦い感情が湧き上がり、自転車を漕ぎながら薫は僅かに眉根を寄せた。




