44.表裏
「こりゃあ、確かに油断なんねぇな・・・」
かすり傷とも呼べない程の皮一枚にすら満たない
傷でも、それでもそれを追ったのは随分と久しぶりだ。
余裕の笑みを消すと覇王子からは空気を
凍てつかせるほどの殺気が放たれた。
アイルは何も言わずそれに静かに大剣を
構えなおした。
日も高くなり始めた頃、コロシアムに
張り巡らされた術式がキィンッと展開されたのが解った。
「さて・・・」
「やるか」
覇王子がそれが作法と言わんばかりに
コロシアムの中心に歩みを進めた。
それに触発されたように続くアイルに
ヴィヴィから心細い声がかけられた。
『ご武運を・・・』
その声にアイルは振り返ると心配そうな声の
主を安心させる様に微笑んだ。
「任せて」
たった一言でも力強く笑って頷くその姿に
ヴィヴィは心配そうな顔を隠すことは
無かったがそれでも笑みを浮かべながら
頷き返した。
「さてと・・・」
「今日は私がやらせてもらおうかしら・・・」
血の王女は手にしたコインを掲げた。
その行為に国の重鎮で埋め尽くされた
観客席から異論が洩れることは無かった。
何度もこの舞台に上がったことのある
覇王子はともかくとしてもアイルにも
それだけでその意味はわかった。
合図だ。
そのコインが地に落ちるその瞬間が
戦闘開始―――
この勝負の行方はコインの表が出るにしろ
裏が出るにしろ、表裏は必ず決まる。
まさかただのコインが直立するなんて奇跡は・・・
このまだ長いとは言えないコロシアムの歴史の中でも
今まで無かった訳では無かった。
それでも、その激しい闘いの中で必ずどちらかが倒れて
必ず表裏を現した。
それはまるで逃れられぬ運命の様に
尤も表裏のどちらが出ようがあるいは直立しようが
そこで相対する二人の間には何の関係も無かった。
どんな姿勢であれそのコインは必ず地に落ちるのだ。
「それっ!!」
つい出てしまった、というような無邪気な声を上げて
王女はコインを相対する二人の間に投げ入れた。
キラキラと光を反射しながら宙を舞うそれを
アイルは思わず目で追った。
それが地面に触れ、チリンと乾いた音が響いたその刹那、
アイルは鼻先から頬にかけて鋭い痛みを感じた。
「うっ・・・」
――速い!!
一瞬の間にその距離を詰めた覇王子の切っ先が
自らの顔を切り裂いていた。
それでも油断していなかった訳では無かった。
事実、続くであろう追撃にアイルは反応しようとしたが
それが続くことは無かった。
気だるげにその剣を肩に乗せる覇王子が目の前に
つまらなそうに佇んでいた。
「まぁ、大人しく降参するなら・・・」
瞬時に圧倒的な力の差を見せつけ、余裕綽々といった
覇王子の続いたはずの言葉はその場に響いた
声にかき消された。
「アイル!?」
この国の王となるであろう妹からは悲鳴交じりの
その身を案ずる声が上がっていたし
「ちょっと、あなた!!何をやっているの!?」
「よりにもよって女の子の顔を傷つけるなんて
どういうつもり!!」
その姉からは口汚いヤジが飛んだ。
「女の子の顔を、身体に毛ほどの傷をつけるなんて
万死に値する許されない行為よっ!!」
・・・んじゃあ、どうやって勝ちゃ良いんだよ!?
油断するなと散々念を押されて行動に
移してみればこれだ。
やっぱ、あいつとは気が合わね・・
―――!!
背筋にチリッと何かが走った。
直観のままに地を蹴って、全力で後方へと距離を取った。
その瞬間に自らが居たであろう空間を凄まじい
風圧を伴った剣閃が真っ二つに切り裂いた。
僅かでも対応が遅れれば自身の首を刎ねていた。
覇王子は瞬時にそれを理解し、額からは汗が
滲み出ていた。
「あんまり、舐めないでくださいね・・・」
声の主がその頬を伝う血を手の甲で無造作に拭った。
覇王子は目を見開いた。
その血の源泉であったはずの傷口はおろか、
そこには斬られた痕跡をも、ほんのわずかな
痕跡ですらをも見て取れなかった。
そして―――
極々僅かでも確かにその剣は自らの身体に
届いていた。
ジンジンと疼く痛みに覇王子は
笑みを消した。
投げ入れられたコインの表裏は
もう決まっていたのだとしても、
この泥泥とした勝負の表裏が未だ決まって
いないことを互いに瞬時に理解した。




