七
その一
『出会い』
その娘は、マコと言った。飛鳥マコ……
出会いは強烈だった。黒いセダンに衝突したと思われる彼女が道路に倒れ込んでいるところに遭遇したのだ。しかし、彼女は全くの無傷でムックリと起き上がったのだった……
「何だよ、これ? ラノベ?」
「違うよ。ノンフィクションだよ!」
ユキトは書き記した飛鳥マコの記録を、早速シンゴに読ませた。人に読ませる文を書くということは、意外に難しいものだと彼は改めて思った。書く材料の研究がもっと必要なようだ。ユキトはシンゴから大学ノートを取り上げ、屋上に向かった。
ドアノブを回しながら右肩を預けるようにして錆びついた鉄製扉を開ける。この作業にも大分慣れてきた。彼女はいつもの様に貯水タンクの上に座って遠くを見つめていた。
「やあ」
「……」
「今日も冷えるね……って言っても、人造人間に気候は関係ないか」
「そんなことはない。ある程度の感覚が分からないと人間社会で生きてはいけないからな」
「なるほど。じゃあ、お腹も空いたりするんだ?」
「我々のエネルギー源は、人間と同じで糖分だからな。もちろん予備のエネルギータンクが埋め込まれているが」
初めのは、ただ黙って隣に座っているだけだったが、最近はユキトの質問にマコも自然と答えるようになった。ユキトは、マコの横顔を眺めた。長く艶やかな黒髪がなびいて彼女の頬を撫でていた。この髪の毛も人工物だろうか……確か中国では人が切った髪の毛を編んでかつらを作っていて、髪の毛を売る人を探して生計を立てる人もいると聞いたことがある。日本で販売されている物も、その多くは中国からやって来ると聞いた。となると、彼女の髪の毛は、ずっとこの長さで伸びることもないのだろうか。ユキトは彼女を質問攻めにすることも何だか気が引けて、彼女の視線の先を眺めた。深夜から雪が降り、都心でも積雪する恐れがあると天気予報で言っていた通り、灰色の厚い雲が空を覆いつくしていた。その雲に突き刺さるように伸びたネオフィフスタワーの頂上は、ここからは全く見えない。都心のビル群を遥かに凌駕するその巨大さと、古き良き時代の伝統的日本の文化を残そうと五重塔をモチーフにデザインされた近未来なのか古代なのか、よく分からない出で立ちが相まってファンタジーアニメーションの世界観を醸し出していた。
「知ってる? あのタワーをデザインした龍口研新という人、僕の親戚のおじさんなんだ。なんか、若い時にブリューゲル…だったかな? 『バベルの塔』っていう有名な絵画を見てそれにインスパイアされたんだって」
「そうか。龍口研新のデータならば、私のデータバンクに登録されている。もちろんお前との血縁関係についてもだ。今やこの世界にプライベートな事象など存在しない。相互監視のディストピアだ。ずいぶん前にジョージ・オーウェルが『1984』という小説で描いていた世界は、具現化されたのだ」
「ちょっと何言ってるか分からないけど、僕の親戚のことまで記録されているなんて驚きだな。ドキドキ、ワクワクしたりする感情は君の中に存在しないの?」
「ドキドキ? ちょっと分からない。でも、お前からピーテル・ブリューゲルの名前が出てくるとは意外だ。その龍口研新とブリューゲルの関係も面白い。そういう話はさすがにデータに残されはしないからな」
「僕らは僕らの物語を生きているんだよ、それぞれ」
「物語……ね」
「そう。僕は君の物語を記そうと思うんだ」
「お前が? 私の?」
「あ、まだ全然できてないんだけど……」
ユキトはそう言って、俯いた。言ってしまったという悔恨と、彼女に読んでもらいたいという希望が入り混じった感情が若い彼の中に渦巻き、ユキトは初めて味わったその言葉にしがたい自身の気持ちをなんだか恥ずかしく思ってしまった。
「かの文豪、川端康成はお前の年頃には文芸誌に掲載されていたというぞ。まあ、今とは随分と状況も違うだろうが」
「べ、別に川端とか芥川とかそんな大そうなものを目指してるわけじゃないよ。僕はただ……」
何がしたいのだろう? 自分で話しながら、そんな漠然とした疑問が彼の思考を止め、ユキトは言葉に詰まった。
「ま、いいよ。できたら見せて」
そう呟いて、飛鳥マコは一足飛びに貯水タンクから飛び降りた。翻ったスカートが捲れて露わになった彼女の太ももがちらりと見え、ユキトは思わず目を逸らした。
「う、うん……最初の読者になってもらうよ、もちろん」
気まずさを誤魔化すために、彼は飛鳥マコに向かってそう返事をした。
「全然期待はしてないけどな」
少し大きな声でそう返して、悪戯な笑顔をユキトに向けた彼女を見てユキトは急に息苦しくなって胸のあたりにほのかな温もりを感じた。
「あ……」
何かを言おうと彼女の背中に向かって話しかけようとしたが、飛鳥マコはすでにドアを開けて校舎の中に消えてしまっていた。




