八
空地の柵には針金が張りめぐらされ、弱々しく他者の侵入を防ごうとしていた。柵の向こうには、国家級プロジェクトが遂行されていた施設跡とは思えないほどに草木が生い茂っていた。
「本当にここであってんのか?」
ジョシュアが思いついた言葉をそのままバクチンがつぶやいた。
「ここで間違いない。全てが秘密裏に進められ、我が国が先を越した途端ここにあった施設自体が文字通り闇に葬られたのだ」
ジョシュアは、彼自身にそう言い聞かせるためにそう答えた。
「とりあえず……ここに連絡してみるか」
ジョシュアは柵の端に巻き付けられていたアルミ複合の看板に記されていた不動産会社の連絡先を、眼鏡型ウェアラブルの右側の耳掛けに付いたスイッチを押し撮影し同期したイヤホン型の電話機で電話をかけた。
「もしもし? あのこちらの土地のことで二、三お尋ねしたいのですが……」
「モシモシ? そんな日本式の挨拶までインプットされてんのか(笑)」
後ろからからかうバクチンを、ジョシュアは振り返り睨みながら制した。
「あ、そうですか……あの、よろしければ今からお伺いしたいのですが……はい。ええ」
バクチンはジョシュアに気づかれないように移動し、柵を軽々と飛び越えて空地の中に入った。その巨体の着地音を消すために、少し逆噴射をふかした。少し焦げた雑草からシベリアの大地では見たことのないような虫が這い出したのを見て、バクチンはニンマリと笑みを浮かべてその虫を摘まみ上げた。節ごとに数えきれないくらいの足を持ったその昆虫は、その足を空中でジタバタさせていた。バクチンはその様子を物珍しそうに眺めながら、そのまま口の中に放り込んだ。
「おい! 面倒になることはやるなと言っているだろう。わけの分からないものを食ったら故障の原因になるぞ」
いつの間にか、電話を終えたジョシュアが後ろに立ってバクチンの首を手刀で叩いた。「ガハッ」と粉々になった虫の死骸がバクチンの口から吐き出されて雑草の上に散らばった。
「へへへ……ジョシュアには敵わねえな」
バクチンは何事もなかったようにニンマリと笑いながらジョシュアの方を振り向いた。
「不動産と話がついた。行くぞ」
ジョシュアは柵を飛び越えて歩き出していた。
「ちょ、ちょっと。見つけたよ! 手がかり」
「あ?」
バクチンは、虫を吐き出した辺りを指さしながら再びニンマリと笑いかけた。ジョシュアは柵を飛び越えて、その場所に屈み込んだ。そこには半分ほど焼き焦げた紙切れが落ちていた。ジョシュアは紙切れを摘まみ上げて裏返した。そこには「蔵雅 忠○」という日本語の漢字が記されていた。もう一文字の部分は焼け落ちてしまっているようだが、これだけ分かればぐっと対象は絞られるだろう。
「ただ焼け残った紙切れがどこかから飛んで来ただけじゃないのか? まあ、調べる価値はあるか……」
そう呟きながら、ジョシュアは眼鏡型ウェアラブルを取り出して「蔵雅」の文字を検索した。東京都内にこの苗字を持つ世帯は一件だけだった。「蔵雅由紀子か……シングルマザーのようだな。一人息子がユキト……高校生か」しかし、こんなにあっさりと個人情報に行き着けるとは平和ボケは相変わらずか、この国も。ジョシュアは日本の国防を憂いながら、蔵雅家の住所をブックマークした。
「そんなに遠くないな……そのまま向かうか」
ジョシュアは、不動産に断りの電話を入れバクチンと供に蔵雅家に向かうことにした。蔵雅家は、その空き地から南南西に三キロメートルほど離れた住宅街の中にあった。この位置ならば、春一番に吹かれてこの場所にたまたまこの紙切れが飛ばされてきた可能性も大いにあり得る。慎重にこちらの意図がバレないように情報を引き出さねばならない。
「しかし、こんなに同じ形の家ばっかりじゃすぐに迷っちまいそうだな」
バクチンがキョロキョロと辺りを見回しながら大声でジョシュアに話し掛けた。
「おい、声のトーンを落とせ。ただでさえお前は目立つんだから、目撃者の印象に残ったら後々面倒になるんだ。ここはロシアじゃないんだ」
「へいへい」
「ロシアにだってフルシチョフ時代の集合住宅が今でも建ち並んでいるだろう」
「それが古いって言ってんだよ。今でもモダンなのは、結局メーリニコフ邸みたいな1920年代のロシア・アヴァンギャルド時代のものでしかないわけじゃん」
「スターリンは否定されたり、再評価されたり大変だな」
現代ロシア建築の議論が交わされているうちに二人は、蔵雅家に辿り着いた。庭付きの一戸建てで典型的な和風建築だ。
「よく見るとこりゃあ、良くできてるな……」
鎌倉時代から室町時代にかけて確立されたというその伝統的な作りにバクチンは感嘆しているようだ。さっきの捨て台詞は何だったのか。「蔵雅」という苗字が彫り込まれた大理石の表札をなぞろうとしたそのバクチンの右手首を、ジョシュアは掴んだ。
「ここからは一切の痕跡も残してはならない」
ジョシュアはバクチンの目を見ながらゆっくりとそう話した。そして、トレンチコートの右ポケットから革製の黒い手袋を取り出し、はめた。キュッキュッと音を立てながらしっかりと指先まで馴染ませてから、表札の下にあるマイクロカメラ付きのドアベルを押した。暫く待ってから反応のないことを確かめると、もう一度ゆっくりとボタンを押す。
「……はい。どちら様でしょうか?」
ドアベルに付いたスピーカーから女性の声が聞こえてきた。ジョシュアは首をゆっくりと左右に二回傾けて、日本版の公務員AIを起動した。
「あ、お忙しいところすみません。わたくし、この区画内の世帯調査を担当しております区役所の者でございます。登録されているデータの確認でお伺いしました。書類をお渡ししたいのですが、なにぶん個人情報ですのでご本人様の確認が必要でして……」
「区役所……? あ、はい。マイナンバーカードで大丈夫かしら?」
「はい。そちらで構いません」
スピーカー越しのやり取りをバクチンはにやにやしながら見て、「すげえ」とつぶやいた。ジョシュアは口元に笑みを浮かべて、格子扉の取っ手に手をかけてゆっくりと開けて敷地内に入った。




