五
ユキトは飛鳥マコのことを追いかけるようになって、ますます彼女に対する疑念が深まった。彼女が都市近郊の大学准教授というしがない父親との二人暮らしであるということは、別に何も珍しくないとは言え、彼女は常に一人で友達もいないみたいだ。まるで意識的に他人との関わりを絶っている様に見える。シンゴは、彼女がただ気難しくて周りが避けているだけだと言っていたが、ユキトにはその逆であるように見えた。それは、彼が彼女が車に轢かれながら、無傷でいたことやサッカーボールを片手で五〇メートル飛ばす人知を超えた身体能力を目の当たりにしたからかもしれない。しかし、それはシンゴも見ていたはずだ。何故、あの時そのことに無関心だったのか? ユキトだけが知らないことがまだ色々とあるのかもしれない。彼はそう考えてシンゴに色々と尋ねたが、「何だよ? 一目惚れか?」と茶化されて終わってしまう。「俺の知らないことが世界で起こっている……」ユキトは頭に浮かんだ言葉を口に出した。それは口に出した途端にとても陳腐なフレーズとなってしまうことに気づき、彼は一人で笑ってしまった。このままでは埒が明かない。直接話しかけてみよう、ユキトはそう決心し、飛鳥マコの教室に向かった。
ユキトたちの通う公立高校は、全校生徒三〇〇人程度が在籍するこの辺りでは小さな高校だ。学力も平均的で、特に抜きん出た部活動もなく、定員割れギリギリでいつ廃校してもおかしくない。とは言え、ユキトやシンゴのような中流家庭の子供たちの受け皿として立派に役目を果たしていることは確かだ。彼らには私立に通うような財力は無いが、中学を出て即働くような切迫した環境でもないのだから。こうした政治的にも直接結びつかないような特殊な層がこの国の平和を維持してきたと言っても過言ではないと、言及する社会学者もいたり、いなかったりする。とにかく、そういった理由でこの高校の校舎はとても旧態然としている。美術館や図書館だけではなく、今や校舎にもカフェテリアが併設されるのが当たり前の時代だがここにそんなものはなく、五〇を過ぎたおばさんが売り子を務める売店が一つあるだけだ。一年生の教室が三階、二年生と教職員室が二階、ユキト達、三年生の教室は売店もある一階に位置している。一クラス三〇人程度で四クラス、理科室は一階、美術室は二階、音楽室は三階にある。三階にはさらに多目的室があり、シアタールームと、放送室として使用されている。飛鳥マコの在籍する四組の教室は、売店の隣りに位置した場所にある。ユキトは廊下から彼女の教室を覗くが、休み時間ということもあり、パッと見ただけでは彼女がいるのかどうか分からなかった。廊下で話し込んでいる三人組の女子に聞いてみる。
「あの、飛鳥マコさんって今どこにいるかご存知ですか?」
「え? マコちゃんって……さあ。いつも休み時間にはどこかに出て行って授業が始まるまで戻ってこないよね?」
ショートカットの活発そうな子が残り二人に話を振る。内気そうな黒髪ロングの子と、ポニーテールの顔立ちのハッキリとした子は首を縦に振り、頷いた。
「多分、屋上にいると思います。前に一度見かけたことがあったから……」と黒髪ロングの子がぼそぼそと話すのを聞いて、ユキトは三人にお辞儀して屋上に向かった。
少し錆びれた鉄製扉のノブを握り、一瞬、力を込めて外に向けて押し開ける。冷たく乾いた空気がユキトの顔を撫でまわすように押し寄せ、流れるように吹き抜けて彼の背後の校舎の中の暖かな空気と交わり、初めからそこにいるような面持ちになる。ユキトは紺色のダッフルコートを持ってこなかったことを後悔する程の寒さに身震いしながら、扉を閉めた。校舎を出て、対角線上のクリーム色の貯水タンクの真上に飛鳥マコは腰かけていた。そこから何が見えるのか、ユキトは想像できなかったが、彼女はぼんやり眺めているというより、ただ一点をずっと凝視している様子だった。ユキトは彼女の視点の先を見てみたが、校庭の先にビル群が広がっている光景がそこにはあるだけだった。
「蔵雅ユキト、二〇三四年四月二〇日生まれの十八歳。趣味はサッカーとVRゲーム……」
「わわわわわわ…ちょ、ちょっと待って! 付け回していたことは謝るから。そういうつもりじゃなくて……」
「じょあ、どういうつもりだ? 何の用があって私を付け回す?」
「それは……」
「私が人間ではないと疑っているのか?」
ユキトはいきなり核心を突かれて、ますます動揺した。
「……え? やっぱりそうなの?」
「そうだ。私は世界で初めて開発に成功した、エオニオティタイドという人造人間のプロトタイプだ。すでにロシアやアメリカ、中国には戦闘能力を高めたネオ・エオニオティタイドが複数存在している。しかし、一般的に実用化されているのは私だけだ」
エオニオティタイド? プロトタイプ? 何を言っているのか、ユキトには全くわからなかったが、人間でない人間らしきものと言えば、サイボーグか人造人間と相場は決まっている。しかし、本当にそんな漫画や映画の世界が自分の前に現れると、人間とは混乱するものなのだ。
「どうだ? 満足したか?」
「満足も何も……本当に?」
「嘘だ。そんな訳ないだろう」
「えええ」
「もういいか? 休み時間が終わってしまう」
飛鳥マコは給水塔からパッと飛び降り、スタスタとユキトの脇を通り抜けて校舎に向かった。
「あ、あの!」
黒く艶やかな髪をなびかせながら、飛鳥マコは振り向いた。彼女の漆黒の瞳は見る者の意識を吸い込むような、奥深さを感じさせる。
「まだ何か?」
「そ、そのいつもここに来ると聞いて……僕もここに来てもいいですか?」
「は? 何で?」
「いや、その、さっき言ったことが全くの嘘だとは思えないし。それに……もっと良く知りたいから、君のこと」
「……フンっ。好きにしろ」
飛鳥マコはドアを軽々と開けて校舎に入って行った。
「おいっ! 蔵雅!」
ユキトはさっき起きたことをずっと頭の中で思い返していて、全く授業に集中できていなかった。今は国語の授業で、金田先生の担当だ。ユキトはとりあえず起立した。
「聞いてたのか? 六七ページ、読んで」
「あ、はい」
――暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮やかな蜜柑の色と―すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体のしれない朗らかな心もちが沸き上がつて来るのを意識した。――
今、読んでいるのは、芥川龍之介の『蜜柑』という作品だ。正直、芥川賞がこの人の名前から来てるということと、この人が自殺したということくらいしか知らないし、ユキト以外の同世代の人間も大体そんな感じだ。
「はい。よろしい」
そう言われて、ユキトは着席した。
「ここには主人公の気持ちの変化が、その景色と共に描かれているのは分かるよな。トンネルから抜けると同時に広がった主人公の隣に座った女の子の故郷の景色と、彼女が見送りに来た弟たちに投げやった蜜柑の鮮やかな色のコントラストが、暖色をあえて強調することで主人公の疲弊して薄暗くなった心を明るく照らすように描写しているんだ。二等車に三等車の切符を握りしめて乗り込んできた“田舎者の小娘”を主人公は別人のように見る。そして――私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅かに忘れる事が出来たのである。――と結ぶわけだ」
ユキトは金田先生の解説をぼんやり聞きながら、一〇〇年以上前の景色を思い浮かべた。頬を赤らめた年端もいかないユキト達と変わらない女の子が、どこか遠い都会へ奉公の為に家族と離れ、一人で機関車で向かう夕暮れ。女の子は唯一持っていた蜜柑を、見送りに踏切りまで駆けてきた幼い弟たちに車窓から投げやる……何だか全然、現実味がない。ユキトの曽祖父母くらいまで遡れば分かるだろうが、どちらももうこの世界にはいない。本当にこうして文書として残っていなければ、全く誰も知らない世界観に違いない。ユキトは、飛鳥マコとの出会いを書き記そうと考えた。




