四
地面に転がる男の身体がビクつく様子を見て、ジョシュアはもう一度男の腹部辺りに革靴のつま先を思いっ切り蹴り込んだ。うっ……と男は声を漏らす。ジョシュアは男の頭部の前にしゃがみ込み、ポマードで固めた痕跡ももはやすっかり無くなった、その男の垂れ下がった前髪を掴み、元の顔も思い出せないくらい腫れあがって、歪んだ男の顔を覗き込む。
「どうだ? 何か思い出したか?」
男の瞼は腫れていて、その瞳を確認することはできない。意識があるのか、ないのかも判然としない。
「無駄だよ。早く片付けようぜ」
ジョシュアの背後から二メートルはあろうかという巨漢がその太くて低い声で話しかける。
「バクチン、手加減しろって言っただろ。ここでこいつを殺ったら、また振り出しに戻るだろうが」
「すまねぇ。まだ力の調節が難しいんだよ、新しいアーマーに変えたばかりだからよ」ジョシュアは男の前髪を離し、頭を地面に叩きつけて微笑を浮かべる。
「……何だ、やけに素直に謝るな。アーマーだけじゃなくて、チップも取り替えたのか?」
「俺はもともと素直な性格だよ。ジョシュアがひねくれ過ぎなんだ」
ジョシュアは静かに立ち上がり、バクチンの方を振り返る。
「フッ……そうかもな。仕様がない。きっちり跡形もなく消しておけ」
「了解」
バクチンは右手で男の頭を包み込むように握り、身体をそのまま持ち上げた。そして、手首をスナップさせると、ポキッという乾いた音が響き、その後男が再び動くことはなかった。ジョシュアはトレンチコートの右ポケットからイヤホン型の電話機を取り出し、右耳に付けた。
「……私だ。手がかりは消えた。次の候補をリストアップして、送ってくれ。あと、もう少し自由に動けるように大使館に働きかけてくれ」
一方的に報告を済ませて、スマホを切り、防波堤に停めたエアクラフトを呼び寄せる。黒い機体が四隅から巻き起こる旋風でゆらゆらと浮き上がる。その不気味な外見には似つかないスムーズで静かな飛行であっという間にジョシュアの眼前にエアクラフトは現れる。静かにドアが解放されジョシュアはドアの下にある足掛けに足を掛けることなく、飛び乗った。
「おい! 早くしろ。そいつの情報をくれた奴も消すぞ」
バクチンはバラバラに引き千切った男の身体を詰めたドラム缶に、火を付けたマッチを投げ入れてその巨漢からは想像できない軽やかな身のこなしでエアクラフトに飛び乗った。エアクラフトは大きく一旦沈む様に地面に近づき、再び浮上してオホーツク海上に飛び去った。初めは燻って白い煙を上げていたドラム缶も、脂肪を含む油を燃料に赤々とした炎をまとい灰色の世界を煌々と照らし彼らを見送っているように見えた。
「こんなガセネタくれた奴なんだから、もうとっくにトンズラしてんじゃねえのか?」日本製のコンソメ味のチップスを袋から直接口に放り込みながら、バクチンは呟く。
「我々と接触した人間が我々から逃れられることは、万に一つもない」
ジョシュアは眼鏡型のウェアラブルをかけ、その右側のレンズに映るマップとそこに点滅する赤い点を指さしながらバクチンに答える。そして、自動運転から手動に切り替え、操縦桿を握った。
「いつの間に発信機なんて付けてたんだよ」
「お前のチップじゃ、いくらアップデートしようと考えつかない回路が私のチップには備わっている」
「へいへい。やっぱりひねくれてるぜ、あんたのチップは」
皮肉に応えるように、ジョシュアは操縦桿を思いっ切り引き、エアクラフトはオホーツク海上すれすれを隼のごとく勢いよく飛行し、陸上を離れる。その姿はまるで宇宙船が忽然と消える映像のようだった。
男の居場所示すポイントは、クナシル島上、クリル諸島(日本は北方領土と呼び領有権を主張している)の最南に位置する場所で点滅していた。日本とロシアは2017年に共同経済活動について協議を始め、未だに曖昧な境界線に位置する島だ。ジョシュアは軽く舌打ちした。
「厄介な場所に逃げやがったな」
「まあ、日本人なんていねえよ。たまに観光で来る、物珍しい連中もいるがな。消しても国際問題にはならねえような問題抱えた奴らだよ、きっと」
「お前のその根拠のない思い込みが、今までどれだけの問題を生み出したのか……。お前は知らないだろうが、俺が全部尻拭いしていることだけは忘れるな」
「へいへい」
この島の中心集落であるユジノ・クリリスクは、島の南東部に位置した太平洋にも面する港町だ。日本名は古釜布と言うらしいが、約一万人の住民のほとんどがロシア人だ。夏は冷涼だが霧が多く発生するため、航空機の離発着が困難になり欠航が相次ぐ。幸いまだな流氷も流れ着くようなこの季節には、霧は滅多に発生しないものの風が強いという違った気候的問題が発生する。オホーツク海上の高気圧と日本列島を覆う低気圧がぶつかるように横たわっている、今日みたいな気圧配置の時は時折強い風がこの島を吹き抜ける。ジョシュアは風の流れを予測し、視覚化するアプリを起動しエアクラフトのモニターに映し出す。
「バクチン、少し揺れるが我慢しろ」
バクチンは袋に残っていたチップスを全て口の中に放り込み、袋も胃袋に詰め込んだ。もちろん疑似的な胃袋なので全てを溶解してエネルギーに変える。ジョシュアは操縦桿を風の予測モニターを見ながら細かく動かして、島の玄関口であるメンデレーエフ空港の滑走路の上をすれすれで飛行していく。管制塔からの交信を傍受しながら飛行機が離発着しないことを確かめ、空港ビルの近くにエアクラフトをゆっくりと着陸させた。
「はあ、こんな島にも空港があるんだな」
バクチンがきょろきょろと辺りを見回す。
「しかしよ、エアクラフトなんだからわざわざ空港に降り立つ必要ないだろうよ。直接あの男の近くに降りれば良かったじゃないか」
「厄介な場所だと言っただろう。日本人の観光客なんかに俺らが姿を見られるわけにはいかないんだ。ここでしっかり情報収集する。あの男を消すのはそれからだ」
「なんか分からんが、時間かかりそうだな……」
「今日の実行は無理だ。明日また動く。お前は島の観光でもしていろ。温泉もあるというぞ」
「温泉か……いいねぇ。食い物は美味いのかね?」
「知らん」
「そうかい。じゃあ少し街をぶらつこう」
「明日の朝、お前のチップにスケジュールを転送する。くれぐれも問題は起こすなよ」
「了解」




