三
「行ってきまーっ……ふ」
ユキトは口に挟んでいた、トーストを落としそうになって慌てて左手で掴みなおして再び口に突っ込む。踏んでいたスニーカーの踵を右手を使って伸ばしながら、足を入れなおす。玄関の格子扉を左手で押し開け、右肩に下げていた青い学校の補助バックを左肩にかけてから右手で玄関の扉を閉めた。左目の端に「蔵雅」の表札が映る。ユキトはやっぱり変な苗字だよな、と思いながらトーストを胃袋に押し込んで走り出した。走りながら見える通学路の景色は、中産階級が住む無個性な一戸建てが並んでいて、いつも変り映えのしない退屈なものだった。ユキトは、そんな景色にはもちろん脇目も振らず無心に走り続けた。しかし、右目の端に何かいつもと違う様子を捉え、足を止めて引き返してその場所を眺めた。見通しの悪い信号のない交差点の真ん中に一台の黒いセダンが停まっていて、その周りに人だかりができていた。
「何だ? 交通事故?」
ユキトは頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。彼の足は自然とそちらに向かって進んでいた。人の話し声はガヤガヤという騒音にしか聞こえてこない。ユキトが考えていたより多くの人間が集まっていて、その先が全く見えない。ユキトは「すいません」と声を掛けながら、人混みを掛け分けた。人混みの一番前まで出ると、明らかにぶつけたと分かるようにへこんだボンネットと、その前に横たわる制服姿の女の子が俯せに倒れていた。うちの高校じゃん、そう思いながら運転手だろうか、倒れた女子高生の肩を抱きかかえながら「大丈夫ですか?」と声をかけている、貧相な顔をした男の方に目をやった。嫌なもん見たな~……こういうのって霊感強い人に霊が憑いて来たりするんだよな、確か。ボンネットのへこみ具合などから完全に死んだ者扱いしながら、ユキトには不謹慎過ぎて口に出せない考えばかりが脳裏をよぎった。周りの野次馬も同じ考えに違いない。誰一人彼女に近づく者はなかった。しかし、「救急車、それから警察!」と二十代後半から三十代くらいだろうか、OLのような恰好の女性が叫んだと同時に只々様子を窺っていた集団がざわざわと動き出した。貧相な顔の男も彼女の肩から静かに手を離し、警察にスマホで電話をかけ始めた。
「あ、大丈夫です……」
ユキトは耳元に声が聞こえた感じがして、ビクッと身体を硬直させた。マジか……俺あんまり霊感無い方だと思ってたんだけど、そう思いながらユキトは恐る恐る声のした方を振り向く。誰もいない……
「すいません、大丈夫なんで。皆さん、気になさらず」
ユキトは目を疑った。女子高生が全くの無傷でムックリと起き上がって、膝の泥を落としていた。
「え? だ、大丈夫なの? 今、救急車が来るから一応病院で検査受けてね」
貧相な顔の男もユキトと同じような驚いた表情で、女子高生を上から下へと初めて見た生物のように観察する。ユキトと同じ高校の制服だ。艶のある黒いロングヘアで前髪は眉が隠れる長さで綺麗に切り揃えられている。大きな瞳は淡いブラウンで、異国の血が流れている印象を与える。スリムな顎のラインが華奢なイメージを喚起させるが、体型はいたって普通。しかし、とても何かスポーツをやっているようには見えない。ユキトはありったけの記憶力を動員して、彼女を知っているか探ったが思い浮かばなかった。程なく、サイレンの音が聞こえてきて、パトカーが二台停車した。中から警官が四人降りて来て「どいて下さい」と野次馬に声を掛けながら、それぞれ二人ずつが貧相な顔の男と、黒髪の女子高生に話しかけていた。貧相な顔の男は、そのままパトカーに連れて行かれた。黒髪の女子高生は、すぐに来た救急車に運び込まれて病院に向かった。担架を勧められたが、断り救急隊員二人にに肩を抱きかかえられながら救急車に向かう際、ユキトの方をチラッと見て二人の目が合った。ユキトは知らないはずの彼女をなぜか知っている気がした。
「おい! ユキト! 行ったぞー」
FIFAワールドカップ公式球であるテルスターを模した人工皮革製の球体がユキトの頭上と抜けるような青い空の間を飛行していく様子を見て、カラオケの模擬MVの映像で見たことある様な画だな……と思いながらユキトは彼の背後に落ちて転がるサッカーボールを追いかけた。昔は、牛の膀胱と天然革皮で作られていたサッカーボールは世界で七割から八割がパキスタンで製造されていたという。サッカー発祥の地であるイギリスの植民地であったことと、牛を聖なるものとして殺せないヒンドゥー教徒の多い隣国インドと違い、牛の屑殺に対して抵抗がなかったことがその背景にはある。しかし、雨により水分を吸収して重くなってしまうことから、一九八六年のワールドカップ・メキシコ大会から人工皮革製が用いられるようになり、またパキスタンでの児童労働の問題も浮き彫りとなり徐々に生産地が各国に拡散した。二〇二〇年を過ぎたあたりから、途上国と呼ばれていた国は飛躍的に発展し、人件費が高騰し、少子高齢化の進んだかつての先進国が製造業を請け負うようになった。今では日本にも静岡を中心にサッカーボール工場が数多くある。今、ユキトがボールを蹴り返した同級生のシンゴの父親は、サッカーボール工場を営んでいる工場長だ。さっき四限の社会の授業で習ったばかりのことを思い出しながら、ユキトは灼熱の地で殺される牛と、その膀胱を膨らませて革を縫い合わせていく幼い褐色の少年少女の姿を想い描いた。とても現実感がないな、そんな人並みの感想しか出ない己の感覚に強い嫌悪感を覚えた。思わず力の入ってしまった右足の一振りで人工皮革製の球体はシンゴの頭上を大きく超えて、校庭の端へと飛んで行った。
「どこ蹴ってんだよー!」
シンゴが叫びながらボールを追いかける。次の授業で体育館に向かう生徒たちの列までボールは転がって行った。ユキトは「わりぃ!」とシンゴに叫びながらボールの行く先を遠目で見ていた。
「あ……」
今朝見た交通事故の女子がサッカーボールを片手で拾い上げた。そのまま軽く振り上げてこちらへ向かって投球したかと思うと、一瞬で人工皮革製の球体がユキトの目の前に現れた。……嘘だろ、心で呟く暇もなくユキトはボールを胸でトラップした。重い一撃を食らったようにユキトは体を折り曲げた。しかもこのスピード、人間じゃねえ……。
「大丈夫か?」
シンゴがユキトの元へ走り寄って声を掛ける。
「ああ……何者だよ? 知ってるあの娘?」
ユキトはボールを右足で押さえて、シンゴに尋ねた。
「マコだよ、飛鳥マコ。4組のアイドル。成績トップで男子より運動神経抜群。漫画のキャラクターみたいな娘だから、みんなどう接していいか分からないみたいだけど」
「ふぅん」
飛鳥マコ……か。ユキトはつまらない日常が一気に崩壊していく心地良い音を聞いた気がした。




