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ラザールたちは玄関前の椅子に腰を下ろし、たあいない話をしながら女性陣を待っていた。
すると廊下の奥から複数人の靴音と女性の話し声(声の主はシルヴィとアリーヌだった)が聞こえてきた。
シルヴィの声はよく通る。恋人がやって来たことを確信したニコラスが三人の中で一番最初に立ち上がった。
他の二人がゆっくりと立ち上がっている間に、ニコラスは外へと繋がる玄関の扉とは逆方向に進み、にこやかに微笑んでシルヴィを迎えた。
「準備は終わったのか?」
「ええ」
シルヴィはうなずいて、着飾った自分の姿を見せびらかすようにその場でくるんと一回転した。
ニコラスが褒めようと思った矢先にシルヴィが
「どうせ馬子にも衣装とか言うんでしょ?」
と先手を取った。
「俺はまだ何も言っていないぞ」
「言わなくたって分かるわよ」
シルヴィは拗ねたように口を尖らせた。
「きれいだって言おうとしたのに」
ニコラスが苦笑しながらそう言うと、シルヴィの今までのつんとした態度が急に鳴りを潜め、彼女は
「…………本当?」
と上目遣いでニコラスを見上げた。
いつもの自信がみなぎっている目もいいが、少しの不安定さを含む目も違う趣きがあっていい。
ニコラスは前者を目にする時、自分の心が彼女のほうに引き寄せられていくのを感じる。シルヴィの目に宿っている強さやまっすぐさは美しく輝き、否応なしに彼を惹きつけるのだ。
一方、後者の場合、ニコラスはシルヴィをいとおしく思う。彼女の瞳の中に揺らぎを見つけると、彼女がいつもの輝きを取り戻せるように、彼女を包み込みたくなってしまう。
「ああ」
ニコラスはシルヴィをまっすぐに見つめて大きくうなずいた。
「………ありがと」
あまりに照れくさくて、シルヴィはニコラスから目をそらしつつ、小声で礼を言った。
いつもはきりっと上がっているシルヴィの眉尻が下がり、彼女の頬がかすかに色づいたから、ニコラスはそんな様子の彼女を愛らしいと思い、彼女の鼻の頭にそっとくちびるを押し当てた。
それに気づいたシルヴィが一度瞬きをしてからニコラスを見上げたので、二人の視線はしっかりと絡み合った。
ニコラスがシルヴィを抱きしめて彼女のくちびるを塞ぐと、シルヴィのほうもニコラスの体に腕を回し、少しでも彼との距離を縮めようとつま先立ちになった。
シルヴィと彼女の恋人との仲睦まじさを目にすると多少どぎまぎしてしまったアリーヌだったが、一週間も一緒にいるとさすがに慣れるものである。アリーヌはいつものことだと思いながら抱き合う恋人たちの横を通り抜け、ラザールの前に立った。
「ラザール、お待たせ~」
これから自分が行きたい場所に行くことができるアリーヌはいつもよりうきうきわくわくしていた。
ラザールもアリーヌの心境を見てとった。
「ああ」
見るからに機嫌がよさそうなアリーヌに、ラザールはほっとした。
「どう?」
アリーヌはドレスのすそをつまんでラザールに感想を求めた。
あの遠乗りの日以来、ラザールは自分の心が不安定になっていることを自覚していた。
だからこそ、ラザールは自らの心を自分の思うとおりに管理しなければならないと思った。彼は自分自身を制御するよう努めた。
ということで、いつもの彼だったらアリーヌにこんなふうにまっすぐに尋ねられた場合、赤くなってあたふたしてしまっただろうが、今の彼はどんなことがあっても動じないと決心していたから、ラザールは自分の心を押さえつけることに成功した。彼は下の妹たちテレーズやソレーヌに訊かれた時のように対応した。
「似合ってるよ」
という言葉がすんなりとラザールの口から出た。
「本当!?」
アリーヌは意外に思いつつも、自分を褒める言葉を耳にすることができて嬉しくないはずがなかった。
「ああ」
ラザールがもう一度肯定してくれたから、ただでさえ浮かれていたアリーヌの心がいっそうふわふわとしてしまった。
幸せそうなアリーヌとシルヴィの様子を目にしてますます身を硬くしたのはイヴェットだった。彼女はアリーヌのように第一関門であるシルヴィとニコラスの横を通り過ぎるということさえできず、玄関の扉から一番遠く離れた位置で立ち尽くしてしまった。
歩けないイヴェットに代わって、玄関の扉の一番近くにいたスヴェンは会話しているアリーヌとラザール、抱き合っているニコラスとシルヴィの横をすたすたと通り過ぎ、まっすぐにイヴェットを目指した。
「イヴェット」
スヴェンに名前を呼ばれ、我知らずうつむいていたイヴェットは顔を上げた。
自分はアリーヌやシルヴィのように褒めてもらえるのだろうか。無意識のうちにそんな期待がイヴェットの胸に湧き上がった。褒められることを期待するなんて浅ましく思われて、彼女は一瞬後に慌てて自分で自分をたしなめた。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
イヴェットが勇気を出して顔を上げると、いつも彼女に美しいペリオン海を思い起こさせる彼の青い瞳がそこにあって、彼女の目も心も一瞬にして根こそぎ奪われてしまう。
「よく似合っている」
整いすぎてどこか冷たささえ感じさせる端正なスヴェンの顔かたちなのに、まっすぐに自分を見つめて細められている彼の二つの目からなぜだか熱を感じてしまい、呼応するようにイヴェットの体温が上がった。
「ありがとうございます……」
顔が火照っているのを自覚しながらイヴェットは何とかそう返した。
するとスヴェンが呟くように
「きれいだ」
と言ったから、イヴェットは信じられなくて一瞬で固まってしまった。
お世辞かもしれない、否、お世辞に違いないと分かっているのに、どうしようもなくイヴェットの心が引っ張り上げられる。
イヴェットの左頬へと伸びたスヴェンの右手が彼女のあごをそっと持ち上げた。スヴェンの手の力は決して強くはなかったから、イヴェットは彼の手を振りほどくことも後ずさることもできたのに、確かに一瞬迷いが生じたのに、しかし彼女の体は動いてはくれず、観念したように目を閉じることしかできなかった。
実際、彼女は観念したのだ、彼女の心はすっかりスヴェンに奪われてしまったのだから。
二人のくちびるがまさに触れ合おうとした直前に、ラザールの
「ニコラス、スヴェン、行くぞ」
という呆れを含んだ声が玄関に響いたため、我に返ったイヴェットはびくっとした。
彼女の体の震えはもちろん彼女の頬に触れている手からスヴェンにも伝わり、彼はイヴェットにくちづけないまま屈めていた上半身を起こした。
それと同時に離れていくスヴェンの手のぬくもりが恋しかったし、遠ざかっていく彼の青い瞳をイヴェットは追いかけてしまった。
未練たっぷりの自分の行動を自覚することさえできないまま、与えられるはずのものを得ることができなかった喪失感でイヴェットの胸の中心がぽっかりと空いてしまった。
イヴェットは彼にキスをしてほしかった。
普段の彼女なら、そんな願望を抱いてしまう自分をはしたないと思っただろう。
だが、今のイヴェットは貪欲にもスヴェンの愛情を求めずにはいられなかった。
切なさで瞳を潤ませたイヴェットを見下ろしたスヴェンはくすっと笑った。彼女を馬鹿にして笑ったのではない。彼女と心の距離を縮めたいと願っている自分の気持ちと彼女の気持ちが同じ方向を向いているということが彼女の目や態度から伝わってきたから、そのことにスヴェンは安堵したのだ。
「分かったよ。シルヴィ、行くぞ」
アリーヌと並んで外へ出ようとしているラザールの背中を見ながら、ニコラスは肩をすくめてシルヴィにそう話しかけた。
「ええ」
とシルヴィが答えると、ニコラスはシルヴィの背中に腕を回し、二人はラザールとアリーヌに続いて歩き出した。
最後に玄関に残されたスヴェンとイヴェットだったが、彼はぼんやりと自分を見つめるイヴェットの額に手をやり、前髪をかき上げてからそこにキスを落とした。
イヴェットは瞬きすると同時に我に返ったらしく、今まで定まっていた視線を急にあちこちに動かし、頬を赤らめ、何か言いたげに口元を震わせた。
スヴェンは何も言わずに腕を差し出した。
イヴェットはおどおどしながらも彼の腕に彼女の手を添えた。
スヴェンは自分のひじの内側に触れているイヴェットの手に自分のもう一方の手を重ねた。まるで封をするように、スヴェンの手は彼女の手を覆い隠した。
外部と遮断された自分の手と同じように心まで彼に取り囲まれ、退路を断たれたように、また、自分が彼にとらえられてしまったようにイヴェットは感じたが、しかし彼女は確かに、スヴェンのことしか考えることができないこの束縛を幸せだと思った。心も体も真綿で包み込まれるようなこの甘い感覚にずっと酔っていたいとも思った、たとえ最終的には真綿で首を締められるような悪い結果になったとしても。
ラザールが開け放った玄関の扉から外へ出た瞬間、少しだけ冷えた秋風がイヴェットに吹きつけた。それは彼女の前髪をかき乱したが、彼女の心をぐらつかせたりはしなかった。
少し前ならどうしても完全には拭い去ることができずにイヴェットの胸に寄生していた恐怖や不安のせいで、彼女の気持ちは時には甘く、そして時には切なく、右に左に前に後ろに揺れ動いていた。そんな状態で強風に吹かれたら、以前の彼女なら、本能的に恐怖に身をすくめ、言い知れぬ不安に襲われただろう。
けれど今のイヴェットは違う。最後の最後までイヴェットの心の奥底にしつこく居座っていた恐怖や不安をまるで風が遠くへ吹き飛ばしてくれたみたいに、彼女の精神は動じなかった。
スヴェン様と一緒にいたい……。
いつか私などもう必要がないと捨てられる日が来るのかもしれないけれど、でも、それでもいい……。
それまでは、この方と一緒にいたい……。
イヴェットは時間が経つにつれて自分の気持ちが固まっていくのを感じた。
彼女は自分が成し遂げたことよりも自分に足らないところに積極的に目を向けてしまうような性格だった。謙虚さを忘れないことは彼女の長所ではあったけれども、その代償として、彼女は自分自身に自信を持つことや、自分の選択に胸を張ることがなかなかできなかった。
今のイヴェットは自分がどうしたいのか、どうするべきなのか、一つの答えを見つけた。周囲の人間に何を言われたとしても、どう思われたとしても、自分の気持ちを守りたいと思ったし、自分の気持ちを貫き通したいと思った。
人生で初めて味わうようなすがすがしい気分に、自然と彼女の背筋がぴんとまっすぐに伸びた。
イヴェットを試すように再び強風が彼女に体当たりしたが、やはり彼女は動じなかった。
自分が少しだけ強くなれたような気がして、寒さのせいではなく不思議な高揚感のせいで、イヴェットはぶるっと震えた。




