30
夕食後、ニコラスとスヴェンはラザールに、明日自分たちが出かける予定であることを報告した。
「ラザール、明日俺たち四人で出かけるつもりなんだが、いいよな?」
ニコラスの言葉に、ラザールが
「四人で?」
と訊き返すと、
「ああ」
とスヴェンが首肯した。
それならいいか、とラザールは判断した、もしシルヴィとニコラスだけとかイヴェットとスヴェンだけで出かけるのならラザールとしても簡単に許すわけにはいかなかったが。
「どこに行くんだ?」
というラザールの問いに答えたのはニコラスだった。
「市内をぶらぶら散策しようと思って」
妹二人だけならともかく、自分と同じ期間ローゲに住んでいるニコラスとスヴェンも一緒なら、特に心配することもないだろう。
そう考えたラザールはうなずいた。
「そうか」
ラザールが異論を唱えなかったので、出かける予定の四人はほっと胸を撫で下ろしかけた。
ところがその瞬間、予想もしていなかった一言がラザールの口から放たれた。
「アリーヌも一緒に行ったらいいんじゃないか?」
ラザールは完全なる善意から、アリーヌに尋ねた。
「俺は明日、医者との約束があるからここにいなければならないけれど、アリーヌはここにいたってつまらないだろう?」
そう訊かれたアリーヌは何と答えたものか困った。誘われてもいないのに『四人で』と明言している彼らにくっついていくのは気が引けたし、ラザールは私がいないほうがいいのかしら……? と邪推してしまったのだ。
ニコラスとスヴェンはそろって顔をしかめた。
彼ら二人はそれぞれの婚約者と一緒に出かけたいからこそこの計画を立てたわけだが、その裏にはラザールとアリーヌを二人きりにしてやりたいという、奥手な親友のために一肌脱ぎたい気持ちも確かにあったのだ、それを口実にしている部分はあったにせよ。
それに全く気づかない鈍いラザールに彼らは呆れたのだが、自分たちの計画のせいでラザールとアリーヌの仲が逆に険悪になったとしたら、それは彼らが意図したことではないので、そうなることは何としてでも避けたいとニコラスもスヴェンも思った。
どうするべきかと互いを見やったニコラスとスヴェンよりも先に口を開いたのはシルヴィだった。
「んもう!! 兄上ったら本当に朴念仁ね!!」
「は?」
呆れたように言うシルヴィに、ラザールはぽかんと口を開けた。
「せっかくアリーヌがフォルニートから来てくれたんだから、二人だけで過ごせばいいじゃない?」
そう言われて、ラザールは初めて親友たちと妹たちが出かけることの裏に込められた狙い、つまり自分とアリーヌを二人きりにさせようとしていることに気づいた。
「ええっ!?」
ラザールは顔を赤らめて右手で口元を覆った。
「そっ……!! そんなっ……!!」
ラザールは否定するように左手をひらひらと振りながら、
「べ……別に、そんな必要なんてないのに……。なぁ? アリーヌ?」
と救いを求めるようにアリーヌのほうを見たが、『そんな気遣いは必要ない』と言いたくてラザールが発した言葉を、アリーヌは彼が自分と『二人だけで過ごす必要はない』と思っているのだと解釈し、凍りついてしまった。
固まったのはアリーヌだけではなかった。他の四人も、ラザールの言葉に悪意が全くないことを頭で理解しつつも、気が回らない彼の配慮に欠けた発言に呆気にとられた。
食堂の空気が一気に重苦しいものに変化し、誰もが安易に発言できないような雰囲気に口をつぐんだ。
少しの沈黙の後、最初にそれを破ったのはアリーヌだった。
アリーヌはすっと立ち上がった。誰もがその動きを視界にとらえ、無意識のうちに目を彼女に向けた。
だが、彼女のほうは誰とも目を合わせないようにしながら、
「ごめんなさい……。少し……失礼するわ」
とそれだけを絞り出すと、急いで踵を返し、ドレスのすそを翻して食堂から出ていってしまった。
「お義姉様……!!」
イヴェットが立ち上がり、アリーヌの後を追った。
婚約者だけでなく妹までもが足早に去ってしまった様子をラザールは呆然と見送った。
どうやら自分のせいで何か悪いことが起きてしまったらしい。けれど、なぜそうなったかを理解することができなくて、ラザールはそのまま椅子に座り続けることしかできなかった。
「兄上、朴念仁にもほどがあるわよ……」
シルヴィが睨むような険しい表情で兄を見つめた。
彼女の隣に座っていたニコラスは眉を寄せた。
「ラザール、あれではまるでお前がアリーヌ大公女と二人きりになりたくないと言っているように聞こえるぞ」
「おっ……俺は別にそんなつもりは……!!」
本当にそんなつもりはなかったから、ラザールは慌てて首を横にぶんぶんと振って否定した。
しかし今度はスヴェンが冷ややかな声で
「お前にそんなつもりはなくても、そう聞こえるんだよ」
と指摘した。
「この家に留まるより、出かけるほうがアリーヌにとっても退屈しなくていいと思ったんだっ!!」
ラザールは上半身を乗り出して全力で弁解したが、ニコラスは両方の掌を彼にほうに向け、それを軽く前後に揺すって落ち着くよう合図した。
「ああ、お前がそう思ったのは俺たちにだって分かるよ。だが、言い方ってものがあるだろう?」
「………………………………」
三人に言われ、ラザールはようやく自分の真意がアリーヌだけでなく他の誰にも伝わらなかったことや自分の言い方に問題があったことを認識し始めた。
ラザールの顔から血の気が引いた。彼はどうしたものかと途方にくれ、力なく椅子の背もたれにもたれかかった。
そんなラザールを見つめながら、スヴェンはやれやれと内心ため息をついた。
スヴェンは以前、明確な悪意をもって故意にイヴェットにつらく当たったことがある。けれどそれを自覚していたからこそ、スヴェンは反省も後悔もした。
ところがラザールの場合、悪意どころか悪気もない。しかし悪気はなくても、ラザールの言葉はアリーヌの心を傷つけた。ある意味で、悪気がないからこそ余計に残酷だ。
悪いと分かっていながらイヴェットを傷つけたスヴェンと、アリーヌを傷つけるつもりなんて毛頭ないのに結果的にはそうなってしまった悪気のないラザール。自分と彼とではどちらのほうがたちが悪いのだろうかとスヴェンは自問した。
………どっちも悪いか……。
スヴェンは頭を振った。
そうなのだ。スヴェンとラザールには違いがあるが、婚約者を傷つけてしまったという結果においては同じだ。
そんなラザールへの親近感がスヴェンに同情にも似た感情を抱かせたので、スヴェンはそれ以上ラザールを責めることはしなかった。過去の自分の行いの愚劣さを自覚しているからこそ、自分にはそんな資格はないとも思った。だからスヴェンは腕を組み、何度かやるせないため息を吐き出したものの、発言を慎むことにした。
「兄上、アリーヌに謝りにいったほうがいいんじゃない?」
きつめの口調でシルヴィがラザールに言った。
「ちょっと待て」
と割り込んだのはニコラスだった。シルヴィの提案を否定するようなニコラスの制止に、シルヴィもラザールも彼の真意をはかりかね、兄妹そろって彼のほうに視線を向けた。
「謝るのは大事だけど、ただ謝ればいいってものじゃない。ちゃんと何が悪かったのか理解した上で謝らないと、相手の怒りをかえって増幅させることもあるぞ?」
ニコラスはシルヴィとラザールをしっかりと見返すと、冗談めかした口調で
「それで俺は何度失敗したことか……」
と自虐的に呟いたため、口を挟まずにいたスヴェンは噴き出しそうになる口元を慌てて覆った。
「………何度失敗したのよ?」
「途中から数えるのをやめたから覚えてないよ。でも、女心がいかに複雑かということをしっかりと学んだね、俺は」
「あらまあ、ずいぶんたくさん経験がおありになるのね」
シルヴィは彼女が普段嫌っている高慢なティティスの貴族令嬢の口調をまねて嫌味を言い、ふんっと顔をニコラスとは逆方向へ向けた。
「怒るなよ、シルヴィ。だからこそ忍耐力が鍛えられて今の俺があるんだから。おかげでお前相手にも大きく構えて対処できるわけだ」
余裕ありげにくすくす笑ってそんなことを言うニコラスに、シルヴィは自分が馬鹿にされているような気になり、むっとして振り返った。
「何よ!? 私の相手をするのが大変だって言いたいわけ!?」
「違う違う。そんなことは一言も言っていない。誤解するな、シルヴィ」
そうシルヴィに言ってから、ニコラスはラザールを見やって降参するように両手を軽く挙げた。
「ほら、ラザール、このとおりだ。女というものは、俺たち男みたいに単純じゃないんだよ。ありもしない言葉の裏を勝手に作り上げるんだ」
そうだろう? と確かめるようにニコラスは今度は自分の隣にいるシルヴィを見つめた。
自分自身が図らずしもニコラスが言うことの実例になってしまい、シルヴィは頬を膨らませてそっぽを向いた。
そんな彼女の分かりやすい反応に苦笑しつつ、ニコラスは目線をラザールに戻す。
「だからさっきお前がアリーヌ大公女に俺たちと一緒に出かけたらどうかと提案したことで、きっと彼女は、お前が彼女とはいたくないと思っていると解釈しただろう」
「そんなっ!! 俺は……」
一生懸命否定しようとするラザールを、ニコラスは遮った。
「ああ、お前にそんなつもりはないことを俺たちは分かってるよ。でも、アリーヌ大公女はきっとそう思っただろう」
ようやくここに至って問題の本質を理解したラザールは、困惑顔のままうつむいた。
「ああ、そうだろうな」
とニコラスの意見に賛成したスヴェンがラザールに追い討ちをかける。
「……………………」
ラザールはテーブルの上にひじをついて頭を抱えた。
そこへイヴェットが戻ってきた。
「姉上、アリーヌの様子はどう?」
イヴェットは食卓へと近付きながら、兄ラザールを気遣うように一瞥し、今度はシルヴィと目を合わせた。
左右両方の眉尻を下げ、言いにくそうに目を伏せたイヴェットは
「それが………、明日フォルニートのほうにお戻りになられると……」
と答えた。
それを聞いた途端、シルヴィが食卓をバンッと叩き、
「兄上、今すぐアリーヌに謝りにいきなさいよ!!」
と鋭い口調で兄に命じた。
「ああ……」
ラザールはのろのろと立ち上がり、戻ってきたイヴェットに
「アリーヌはどこにいる?」
と訊いた。
「お部屋にいらっしゃいます」
「分かった」
ラザールは一つ息を吐き、意を決したように背筋を伸ばした。
「……行ってくる」
覇気はいまひとつ足りないが、ラザールはドアに向かって歩き始めた。
「がんばれよ」
ニコラスがラザールの背中に励ましを送り、いつも兄に小言を言われる立場のシルヴィは普段のお返しと言わんばかりに
「アリーヌに許してもらうまで戻るんじゃないわよ!? 許してもらえなかったら、私はこれから一生兄上のことを無神経男って呼んでやるんだから!!」
と兄を叱咤した。
イヴェットは無言のまま心配そうに兄の背中を見送り、スヴェンは言葉ではなく心の中でラザールを応援した。
今のラザールの心情を表しているような小さなきしみ音とともにドアが閉まるとすぐに、食堂に残された四人は誰ともなしにふうっと小さく息を吐いた。
「で、ニコラス、さっきの言葉の意味は一体どういうこと!?」
兄が去ると同時にいきなりシルヴィが恋人に詰め寄ったので、戻ってきたばかりのイヴェットは驚きに目を瞬かせた。
「さっきの言葉って?」
「ごまかさないで!!」
スヴェンは立ち上がり、この部屋に戻ってきてからまだ椅子に座らずに立ったままだったイヴェットの手首をつかんだ。妹と彼女の婚約者の会話に意識を集中させていたイヴェットは突然のことにびっくりし、はっと息を呑んだ。勢いよく跳ねた胸をスヴェンにとらえられていないほうの手で押さえながら、イヴェットは慌てていつの間にか自分の横に立っていたスヴェンを見上げた。
「夜風に当たりにいこう」
半ば強引にイヴェットの手を引きながら、スヴェンは食堂からバルコニーへと続くガラス戸を開けて外に出た。
バルコニーの端の、窓ではなく壁がある場所までやって来ると、スヴェンはようやく止まった。彼に引っ張られていたイヴェットの足も自然と止まった。
壁のせいで振り返っても建物の中は見えないのだが、イヴェットは不安そうに壁を見つめた。壁の向こう側にいる妹が婚約者と喧嘩をしているのではないかとつい心配になってしまったのだ。
スヴェンに抱き寄せられて、意識が目の前の婚約者に向いたイヴェットは、どきどきしながら
「あ……あの……、シルヴィとニコラス王子はどうかしたのでしょうか……?」
と尋ねた。
「ただの痴話喧嘩だろう。ああいうのは放っておくに限る」
スヴェンはシルヴィとニコラスが初めて顔を合わせた場に居合わせたのだが、その時から二人はあんな感じだった。それに、学校生活においてニコラスののろけ話を頻繁に聞かされている身としては、ニコラスのシルヴィへの情熱の深さを知っているので、スヴェンは二人の仲を全く心配していなかった。
「そ……う、です……よね……」
スヴェンに同意しながらも、イヴェットはやはり二人を気にせずにはいられなかった。兄とアリーヌの仲だけでなく、シルヴィとニコラスの仲まで悪化してしまったらと考えると、どうしても胸が痛くなってしまうのだ。
そんなイヴェットを見下ろして、スヴェンはふっと笑った。
「他人のことを考えるなんて、ずいぶん余裕があるんだな」
「え……?」
イヴェットはスヴェンの言葉の意味がよく理解できなかった。
ラザールとアリーヌ、シルヴィとニコラスのことを心配せずにはいられないイヴェットにはこれっぽっちの余裕もないのに。なのにどうしてスヴェンは『余裕がある』だなんて言うのだろう。
むしろ余裕があるのはスヴェンのほうだとイヴェットは思った。イヴェットは自分の兄妹とその婚約者のことで精神的に動揺するばかりで、とても彼のように落ち着いたままではいられないのだから。
「俺は自分とあなたのことを考えるので精一杯で、他の人間のことを考える余裕なんてない」
スヴェンはそう言って右手で彼女のあごに触れてから、そのまま上を向かせた。そして彼は何か言いたげな彼女のくちびるをそっと塞いだ。
イヴェットの体は身構えたように硬くなったが、スヴェンが一度くちびるを離すと、少しだけ開いた口で呼吸するのに合わせて彼女の体のこわばりはゆるんだ。
スヴェンはもう一度しっかりとくちびるを合わせた。すると彼女の体から力が抜けてしまったのだろうか、イヴェットは今度はスヴェンに体重を預けてきた。スヴェンは彼女にキスをするために屈めていた上半身を元に戻し、婚約者の背中に回している両腕に力を込めた。
スヴェンにきつく抱きしめられ、イヴェットはもうわけが分からなくなってしまう。聞こえるのは体中に鳴り響く自分の鼓動だけで、他の音なんて何一つ耳に入ってこなかった。体中が熱くて仕方なくて、その熱のせいなのか、イヴェットの体は小刻みに震えた。がくがくと震える足では立っていることさえままならなかったのだが、そのことをイヴェット本人も自覚できないほどに彼女は何も考えることができなかった。
バルコニーに出たばかりの時には冷たいと感じた秋の夜風も、今のイヴェットには快かった。