束の間の蜜月
店の扉に付けられた鈴が奏でる音にキャロルは鍋の火を消し、迎えに出た。
「あっ…お帰りなさいヴラドさん。孤児院の方は何の変わりもなかったですか?」
扉の前には背の高い男が微笑みを讃えたまま頷いた。
「おや、いい香りですね」
「えっ! あのっ夕食を作っていて…余計なお世話でしたか?」
手に持ったオタマを慌てて背に隠すとキャロルは顔を赤らめながら俯いた。
「いいえ。帰って来て食事が出来ているという経験は、初めてですから。この匂いは…シチューですかね」
「はっはい! 冷えた身体を温めるのにはそれが一番いいんじゃないかと思って」
「楽しみです」と微笑みながらヴラドはテーブルに腰を下した。
既にパンとサラダが並び、後は空の皿にシチューを盛れば食べられる状態になっている。
「あの、お口に合えばいいんですけど」
そう言いながらキャロルは暖かいシチューを注いだ皿をヴラドの前に差し出した。
「それではいただきましょうか」
その合図で対面した二人は「いただきます」と言うとスプーンを手に取った。自分の口に特製シチューを運びつつ、キャロルは目の前の男の反応を待った。
いつもより慎重に作り、味見も何回もした。自分の舌では合格ラインだが、後は相手の味覚が自分の味覚と掛け離れていない事を願っていると。
「ああ。優しい味ですね」
「あの、それは…」
「美味しいって事ですよ」
その言葉にキャロルの顔がパァッと明るくなった。やっぱり目の前の男の優しい微笑みは極上のオアシスだ。
決して下品にならないように食べ方を気にしながら、キャロルはレニの事を思い出していた。
「シチューには結構自信があったんです。私一人の時は雀の涙程度しか収入が無かったから安い食材で作ってたんですけど、あの子の家には見たことも無い高級食材ばっかりで、あれ程シチュー作りに緊張した事はなかったな」
一度テンションの上がってしまったキャロルの話はもうとどまる事を知らない。
「でも、あの子、すごく美味しいって言ってくれて小さい身体なのに三杯もお代わりしてくれたんですよ。凄く素直で純粋な目で…ホントあいつとは大違い! アイツなんて少し肉が堅くなったぐらいでキレて、もう言い合いですよ。まぁ、珈琲は褒めてくれたみたいですけ………」
不意にキャロルはニコニコしたまま見つめるヴラドを見て顔を真っ赤にした。
(ちょっ! ヤダ私! 食事中にベラベラベラベラ)
「うわっあの、ごめんなさ…」
キャロルの手からスプーンが滑り落ち、豪快にシチューが飛び跳ねる。それを慌てて拭こうとした肘がコップにあたり、水が盛大にテーブルの上に零れた。
(ぎゃーっ!! 最悪だぁー!)
「ごっご免なさい! 今、今拭きますから!」
手近にあった布で水を拭いたが、その布がヴラドのコートの一部だという事に気付くと再び彼女は飛び跳ねた。
「うおおぉぉ! ごめっごめんなさい! ちょっ…ちょっ…」
キッチンからやっと布巾を持ってくるとキャロルは急いでヴラドのコートに染みこんだ水を吸い取る事に奮闘する。
(うわぁ…私、もう泣きたい…こんな…こんな…)
「大丈夫ですよ。そんなに慌てないで。ただの水ですから乾けば済むことです」
優しい言葉にキャロルは自分の失態に、俯いたまま唇を噛み締めた。
「ほんとにご免なさい。私」
「いいんですよ。さぁ椅子に座って」
そう促され、キャロルはゆっくりと席に付いた。もう食事など喉を通らない。
「うらやましいですね」
不意に囁かれた言葉に反射的に顔を上げる。
「貴方の話の中にはブラックホースとその娘の事しか出て来ない。少し、妬けてしまいます」
「えっ?!!」
眼鏡の奥の瞳が蝋燭の炎に揺らぎながらキャロルを見つめていた。そして、テーブルの上の手に大きな手が添えられ、彼女は息を飲む。
「あの…」
「前の話、覚えていますか?」
「前の話?」
「あなたがブラックカード所持者でなければ私のプラチナカードを手渡している…と」
「っ…!」
ヴラドとバドルから狩人が補助士にカードを手渡す事の意味は聞いている。
「狩人が異性の補助士にカードを申請させる事は…それ以上の関わりを求めていると言う事なんですよ」
端正な顔立ちから目を離せずに居るとヴラドのもう片方の手がキャロルの頬に触れる。
「キャロル。貴方はとても価値のある女性です」
近付いて来る端正な顔に魅入られるようにキャロルは瞳を閉じた。
胸が痛いほどに脈打ち、この静寂に響いている感じさえする。
自分のすぐ近くにヴラドの吐息を感じ、いよいよ唇が触れ合おうとした時…
カラン……と店の方で扉が開く音がし、キャロルは勢いよく後ろに飛び退いた。
「はは…おやおや、邪魔されちゃいましたね。少し失礼」
優しい微笑を浮かべながらヴラドは席を立つと、店の方に姿を消した。
(ちょっ…なっ…あれって…さっきのって…キ…)
心の中で叫びながらキャロルは自分の頬を両手で押さえつけた。あの顔に見つめられたらもう拒絶という選択は完璧に掻き消されてしまう。
未遂に終わった口付けに混乱しながら彼女は店の奥に消えたヴラドを追った。
外は既に闇に包まれている。
こんな時間に来客なんてまずは考えられない事だ。
何をしていいか分からずにキャロルはそっと顔を出して店の中を覗いてみた。
ヴラドの前に背の低い太った男が居た。
顔は暗くてよく見えない。じっと目を凝らしていると…
「キャロル。少し席を外していただけますか?」
「えっ! あっご免なさい!」
ヴラドに言われ、彼女は急いで自分に割り当てられた部屋に引っ込んだ。
「ハンターヴラド。ずいぶんと上質そうな商品ですな。あの容姿ならばどんな付加価値でも簡単に付ける事が出来ることでしょうな。」
キャロルが姿を消した後、太った男は部屋の中を覗き込むように、ニヤニヤと笑みを零し、呟いた。
「いいえ、もう十分な価値を持つ女性ですよ」
「ほぅ、もう既にそれなりの付加価値を含んでいると?」
その言葉にヴラドはにっこりと微笑んだ。
「特Sブラックホースからカードの所有を許可された唯一の女性です」
その言葉に男が目を剥く。
「特Sハルト・ブラックホースの?」
「彼女は否定していましたが、あのブラックホースからカードを与えられて何も無い…とは考えにくいですしねぇ」
「そっそれでは間接的に与えられた精気が薄れる前に早く競りに掛けてしまった方が…そうだ! 私が買いますよ! 私のペットのレベルはあなたもご存知でしょう?」
その台詞に穏やかに微笑むヴラドの瞳が薄く開く。
「そうですねぇ。あなたの『シャドウエンペラー』ならば…それ以下の魔族には高嶺の華ですよ。それならば、私の補助士として側において置いた方がいい」
「そっ、それでは…」
「800…」
ヴラドの口から出たとんでもない金額に男は言葉を失った。
しかし、すぐに額に噴出した汗を拭き取ると首を振る。
「ご冗談を…八百って…奈落最下層の報酬じゃないですか。噂に聞くブラックホースの血を引く娘ならばともかく…内縁関係でしかない女如きに……」
「800億なんてコロシアムで優勝すればすぐに稼げる金額だと思いますよ? 最強のペットを作るためだと思えば大した金額ではないでしょう?」
鋭く輝く眼鏡の下の瞳に息を飲むと、観念したのか、男は溜息と共に頷いた。




