死の恐怖
サクサクと粉雪を踏みしめながら家路に着いたキャロルの心はとてつもなく重かった。
今思うとレニにはとてもかわいそうな事を言ったと思う。
最後に少女が見せた精一杯の笑顔は泣き顔を隠そうと必死で堪える微笑だった。
「私って最低ね。レニが母親に憧れてるのを知ってたくせに…あんな事言うなんて」
白い吐息を吐きながらキャロルは高台に建つ三階建ての家を見上げた。
「あれ?」
そろそろ日が暮れる時間だと言うのに窓からは少しの灯りも漏れていない。
「レニ、まだ帰ってないのかしら」
帰ってないならないなりに気が楽だが、もし途中で事故など起こしていたらシャレにならない。
居ても居なくても困る複雑な気持ちに苛まれながら凍る階段を慎重に登っていくと門のすぐ前でキャロルは大きく息を吸い込んだ。
「よしっ! 行くわよ。レニに謝らないと…私ったら自分の事ばかりでどうにかしてた」
気を張り詰め、キャロルは玄関のノブに手を掛けた。
鍵は閉まっていない。という事はもう既に帰って来ているはずだ。しっかり者のレニが鍵を閉め忘れるなんて事は有り得ない。
再び冷たい空気を体内に取り込むと、キャロルはいつもの調子で扉を開いた。
「レニィ? ただいまぁ。レニ居るんでしょ? 電気…」
部屋に入ると同時にレニの叫び声が室内からこだました。
「キャロルさん!! 来ないで下さい!!」
その声質があまりに必死でキャロルは傷つけた事を謝るために慌ててリビングに駆け込む。
「ちょ、来ないでって…違うのよ。今日のあの事はね……」
リビングに足を踏み入れ、電気を付けようとしたその時、いきなり後ろから片手を締め上げられ、キャロルはソファに倒れ込んだ。
(なっ何? 暴漢?)
ソファにうつ伏せで押し付けられる形になったキャロルは訳が分からず暗い部屋の中を見渡した。
「痛っ」
片手を締め上げ、背後から背中を押さえる人物の力はとてつもない怪力だ。締め上げられた片手がミシリと悲鳴を上げている。
「よく抜け抜けと帰って来れたものだな」
後ろから響いたテノールの声にキャロルは耳を疑った。
この声は『ハルト』だ。
「あんたっ! 何の真似よ!」
「何の真似だと? テメェふざけてんのか?」
確かにハルトの声だが、いつもとトーンが違う。
「俺はヴラドだけはやめろって言ったはずだぜ。それを孤児院で仲良くお遊びした後は二人っきりで密会か? とんでもねぇアバズレだな。あぁ?」
この声のトーンは一度だけ聞いた事がある。
初めてハルトの狩りにつきあった時に、自分に銃口を向けて来た、あの時と同じ声だ。
「アバズレって……あんたバカじゃないの?」
その言葉に反応するように、よりきつく腕を捻られキャロルは短い悲鳴を上げた。
「だ……め。やめて! 腕が折れちゃう!」
しかし、レニの声に変化したと同時に腕を締め上げていた怪力が一気に弱まり、キャロルは『ハルト』を突き飛ばすようにソファから転げ落ちた。
「出てくるんじゃねぇ!! 中に入ってろ!!」
再び男の声に変化したレニは大理石製の重いテーブルを蹴り飛ばすと逃げようとするキャロルの手首を掴み、そのまま力任せに彼女の体を壁にたたきつけるようにして押さえつけた。
背中を強打し、キャロルが小さく呻く。
手首を掴んだ腕をそのままキャロルの首に押し付けるとハルトは鼻が触れそうなほど顔を寄せた。
「テメェがどんなゲス野郎に身体を投げ出そうが知ったこっちゃねぇが、俺は言ったよな」
(ヤバ……こいつッ…本気だ!)
喉が壁とハルトの腕に圧迫され息が出来ない。
「レ……ニ……レ……」
レニの名を呼ぼうとするが、すでに声もろくに出せないほど圧迫されている。
顔に掛かる『ハルト』の吐息を感じながらキャロルは必死でもがいていた。
しかし、『彼』になったレニの力は既に人間の域ではない。
……これは、魔族の力だ。
「俺は警告したよな」
「カハッ…クッ…」
「レニを悲しませたら排除するってよ」
全身のが総毛立つ程の低く冷たい響きにキャロルは生まれて初めての『死』を予感した。
もうダメだ。
意識を失いかけた時である。
不意に目の前の『男』の顔が『少女』に戻り、ハルトは自らキャロルの拘束を解くとレニは自ら後ろに飛び退いた。
「げほっげほっ!」
拘束を解かれると同時にキャロルは壁伝いに床に座り込むと必死で息を整える。
酸素が欲しい、喉が焼けるように痛い。
「キャロルさん………逃……げて……」
目の前には自分の身体を抱えるようにしてうずくまるレニの姿があった。
「逃げて!! ハルトすごく怒ってる……レニじゃ止められない! 早く逃げて! 本当に殺されちゃうよぉ!」
悲痛の叫びに後押しされるようにキャロルは外を目指した。
這いずるように玄関を目指すキャロルの後ろから凄まじい言い合いが響いている。
「邪魔するんじゃねぇ! 代わりの女ならまた拾って来てやるよ!」
「ダメ! やだ! キャロルさんは殺さないで!」
「引っ込んでろ! あいつはお前にも俺にもつり合わねぇ!」
「やめてよ! レニが我がまま言ったからいけなかったの! だから殺さないでよ! ハルト! やめてよ!」
悲鳴のようなレニの声を後ろに聞きながらキャロルは寒空の下をひたすら走った。
もう既に獲物を探し、空を旋回する低級魔族の事など考えてなどいられない。
恐らく我を忘れた『ハルト』は魔族の頂点に君臨するほどの化け物だ。
喉の痛みを押さえ、辛うじて宿に滑り込むとキャロルは対応する宿主の事など構わずに、その場に座り込んだ。
「な…に。何よ……アレ」
恐怖で身体の震えが止まらない。
そしてその恐怖と同時に込み上げる罪悪感にキャロルは思わず涙を零し、嗚咽した。
「ごめん…ごめんね。レニィィ………」




