桐島エリスの消失⑥:氷の姫君、暴力に訴える
×××
「初めまして。同じ高校の佐藤凪です」
「何故、ここにいる?」
脅すような低い声が、部屋に響く。
すると、桐島先輩がぼくの前に出た。
「私が呼んだのです。もう、帰ってもらいますから――」
先輩は、ぼくを庇っていた。
でも、その厚意に甘えるわけにはいかない。
それだと、ここに来た意味がなくなる。
「あの、先輩は少し黙っていてもらえませんか?」
「私の話ですよね!?」
「いえ、先輩についての話をするつもりはありません」
「それじゃあ、何しに来たのですか!?」
あの先輩が狼狽していた。
この隙に、ぼくは本題に入る。
「桐島権蔵さん。貴方に、お話ししたいことがあって参りました」
「儂に?」
「はい」
そもそも、先輩が家から出られないのは、桐島権蔵のせいだ。
だから、ぼくが話さなければならないのは、桐島先輩じゃない。
桐島権蔵のほうなのだ。
「アッキーが儂を呼びに来たのは、お前の指示によるものか」
「ええ、そうです――というか、アッキーって秋山さんで合っていますよね? なんだか、随分とフランクな呼び方ですけど」
「いかにも。それで、儂と話がしたいのだったな。いいだろう、三十秒を与える」
「ありがとうございます」
相手は大企業の重役だ。
背筋を伸ばし、全力で虚勢を張る。
そして――。
「この三十秒に、18禁小説の素晴らしさを説きます!」
「……へ?」
裏返った桐島先輩の声。
それを無視して、ぼくは話を進める。
「これを見てください」
ぼくは一冊の本を見せた。
それは『未だ熟せず』。
あの時、澪が落とした本だ。
そして、ぼくは朝比奈家で延々と朗読させられた。
何度も読み返してはいたが、音読するとまた別の発見があった。
読めば読むほど魅力が溢れ出てくる本だ。
「オタンビナス著『未だ熟せず』。ぼくが今日ここに来たのは、貴方にこの小説の素晴らしさについて語るためです」
「ほう」
「見てのとおり、これは18禁小説です。ですが、単なるエロ小説ではありません。傷ついた青年が、病に侵された女性に出会い、愛を育んでいく物語です。その途中で、二人の間には肉体関係が生まれます。これは非常に過激なものでした。官能小説の中でも、トップクラスに過激で生々しい描写と言っていい。ですが、これは限られた時間の中で、いかに愛情を育んでいくか――いえ、育んでいくというスピードでは足りません。二人の間には、時間が残されていないのですから。愛情を深めていくための儀式なのです。二人の愛を描写するためには、この性描写は必要でした。肉体的な快楽と精神的な苦しさ。別れが苦しくなると分かりつつも、愛を深めずにはいられない! その描写が読者の心を惹きつけるのです!」
「それで、何が言いたい?」
「18禁小説の中にも、素晴らしいものはあるということです。十把一絡に拒絶をしてほしくないのです」
桐島権蔵に18禁小説を受け入れてもらう。
そうすれば、18禁小説に耽溺していた先輩も許してもらえる。
そう思っていたのだが――。
「それだけか?」
「……え?」
これは、ぼくが用意してきた言葉だ。
それを権蔵は鼻で笑った。
「出来の悪い読書感想文といったところか。貴様が言ったことは、表層的な部分を取り繕ったに過ぎない。18禁小説を読む『言い訳』でしかない」
「そんなことは――」
「ないとは言わせぬ。貴様の言葉には、魂がない。無意味で無価値だ」
その言葉に、ぼくは怒りを覚えた。
魂がない――その言葉は、実にいい加減に使われている。
理屈を唱えることが出来ないから、そんな抽象的なことを言うのだ。
「ぼくの言葉の、どこが間違っているというのですか?」
「間違っている、とは言っていない。ただ、意味がないというだけだ。君の言葉は、音でしかない」
「音……」
「やはり、時間の無駄だった」
そう言って、権蔵はため息をついた。
そんな彼の顔を見て――ぼくは、動けなくなった。
「エリス。お友達には、お帰りいただきなさい」
権蔵にあったのは『失望』だった。
彼は本当に、ぼくの言葉に失望していた。
聞く耳を持たないのではなく、聞いたうえで判断していた。
ぼくの言葉が無意味?
表層的で。
だって、仕方がないじゃないか!
誰だって納得できるような言葉を言うしかない。
だから――。
アホか、ぼくは!
違う! アホですらない!
それ以前の問題だ!
ああ、その通りだ!
今なら分かる! 分かりたくないが、分かってしまう!
この期に及んで、ぼくは尻ごみをしていたのだ。
18禁小説について語ることを恥ずかしがっていた。
変わり者を演じて、それを身代わりにしていた。
そこに、ぼくはいなかった。
「……待ってください」
桐島権蔵はそれを見抜いていた。
この人には、小細工は通じない。
だったら、ぼくに何が出来る?
「これ以上邪魔をするのであれば、君は儂を敵に回すことになる」
その気迫に、一歩後退する。
だが、後退は一歩だけに留めた。
ここまま帰るわけにはいかない。
やるべきことが分かったのだ。
ぼくは一歩前に出る。
これで、立ち位置は先ほどと同じだ。
――さぁ、第二ラウンドの始まりだ。
そう思ったのだが――。
先輩がぼくの服を掴んだ。
「もう、止めて下さい」
先輩は顔を真っ赤にしていた。
その瞳には、涙を浮かべている。
ぼくのことを心配してくれているのだろう。
「もう、いいから」
「よくありません」
そう――いいはずがない。
そんなことを言ってくれる人だからこそ。
そんな先輩の為だからこそ、ぼくは引けない。
「もう一度、お話をさせてください」
「帰れと言ったはずだ」
「帰ると言った覚えはありません」
権蔵はぼくを睨みつけた。
「エリスに免じて、無事に帰らせてやると言っているのだ。大人しく立ち去れ」
正直言えば、怖かった。
今すぐ尻尾を撒いて帰りたい。
それでも――。
「では、エリス先輩に免じて、もう一度チャンスをください」
同じくらい、先輩のために行動したかった。
権蔵の視線がぼくを捕らえた。
これは、自殺行為なのかもしれない。
それでも――ぼくは言わなければならない。
否、開示しなければならない。
己の本心を。
×××
「(18禁小説を賛美するセリフ)」
先輩が部屋に来るようになってから、数か月が経過していた。
その間に、ぼくもまた、18禁小説を愛するようになっていた。
ぼくにとって、18禁小説は先輩との絆だった。
桐島先輩こそが、18禁小説そのものなのだ。
だから――。
「桐島……エロス」
そんな一言が、口から洩れた。
あまりに意味のない、ふざけた言葉だった。
だけど、何故かしっくり来る。
その言葉を口にした瞬間、ぼくの中で何かが変わった。
ぐちゃぐちゃになっていたものが、奇麗に整頓された。
「ぼくは、18禁小説を読む桐島先輩を見ていたかったのです。やり残したことがある。桐島先輩と一緒に『未だ熟せず』を読みたい。他にも、何かあるかもしれない。それが失われるのが、嫌なのです」
そう、静かに言った。
自分勝手にもほどがある。
先輩の利になることは一つもない。
権蔵は振り返ると、ぼくの正面に立った。
そして、ぼくの目を見る。
まるで見定めようとしているかのように。
「それだけか?」
「はい、これで全てです」
権蔵は口を引き結んでいる。
肩を小刻みに震わせていた。
――伝わらなかったか。
怒らせてしまっただけかもしれない。
だが、仕方がない。
ぼくが出来ることは、これだけだったのだ。
沈黙が落ちる。
地獄のような静けさが漂っている。
ぼくたちは、ひたすら権蔵の次の言葉を待っていた。
そんな中――。
突然、ぼくは抱きしめられた。
逞しい胸板から、暖かなぬくもりが伝わってくる。
上から、嗚咽の声が聞こえる。
……胸板? 上から?
「感動した!」
権蔵はそう言った。
ぼくを抱きしめながら。
何故、権蔵!?
こういう役目は、先輩のものだろうに。
「君のような子であれば、エリスを任せられる!」
意味が分からなかった。
今ので説得できるとは思わなかった。
ぼくはただ、己の変な性癖を披露しただけだ。
それでも――何とかなったのだろう。
よく分からないが、これで問題は解決した。
解決、した?
何だか、背筋がぞわぞわする。
よく分からない、というのは良くない。
なんだか、ぼくの知らないところで、事態が悪化しているような気がする。
ぼくの嫌な予感はよく当たるのだ。
問題は、対策が出来ないこと。
「凪」
ぼくが振り返ると、桐島先輩は、顔を真っ赤にしていた。
ああ、そうだ。
今は先輩のことを優先しなければ。
ここに来たのは、彼女のためなのだ。
「先輩」
ぼくは先輩の正面に行った。
先輩は顔を真っ赤にし、目には涙が溜まっている。
ぼくは照れながら「何とかなりました」と告げた。
すると先輩はゆらりと体を傾けた。
ぼくはそれを抱きとめようとしたのだが――。
気が付けば、ぼくの鳩尾に先輩の拳がめり込んでいた。
その後のことは、よく覚えていない。
先輩は、何故かぼくをボコボコにした。
ついでに、権蔵もボコボコにしていた。
格闘ゲームのように、青い残像が見えたぜ。
「何故……」
こうして、ぼくは気絶した。
最後の言葉としては、格好がつかなすぎる。
一体、どうしてこんなことになったのか。
誰か、それを解き明かしてください。
それだけが、ぼくの願いです。




