佐藤綾香の秘密⑧:偏愛義姉、同衾する
姉さんが眠りについてから、ぼくは家事を片付けた。
とはいっても、大したことはしていない。
総菜が入っていたパックを捨てた程度だ。
そして、自室のベッドに入った。
今日は色々なことがあった。
桐島先輩、澪、姉さん。
この三人が家にやって来て、対応に追われた。
肉体的にも、精神的にも疲れ切ってしまっていた。
このまま、ぐっすりと眠りたいところだ。
だけど――。
問題は、まだ終わっていなかった。
ベッドに入ってから数分後――部屋のドアが開けられた。
姉さんが目を覚ましてしまったらしい。
その上、何か面倒なことをしようとしているのだろう。
そう判断したぼくは、このまま寝たふりをすることにした。
「ねぇ、凪ちゃん」
囁くような声が掛けられる。
だけど、ぼくはそれを無視した。
これに反応してしまったら、また騒ぎが始まることだろう。
ぼくは確固たる意志で、狸寝入りを決め込んだ。
すると――。
ぎしり、とベッドが軋む音がする。
姉さんは、ゆっくりとベッドに上がった。
そして、布団の中に入ってきた。
――添い寝でもする気か?
そう思っていたのだが、想定が甘かった。
姉さんは、ぼくの背中に抱き着いた。
温かくて、柔らかな感触が全身を包む。
ここまでなら、まぁ許容範囲なのだが――。
姉さんの手が、ぼくのパジャマの中に入り込んでいき――。
「って、ちょっと待て!」
ぼくは慌てて跳び起きた。
さすがにこの動きは無視できない。
「やっぱり、起きてた」
「何をしようとしたんだ?」
「凪ちゃんがしてほしいこと」
「そんなことをしてほしいと、ぼくが何時言ったんだよ!?」
「言葉にはしていないけれど、行動で示してくれたでしょ?」
「何を言っているんだ!?」
姉さんは、不思議そうに首を傾げた。
どうしてこの状況でそんなリアクションを返せるのだろうか。
「だって、脱衣所に『義姉の濡れた眼差し』を置いたのは凪ちゃんでしょ?」
「ごめんなさい、ぼくが悪かったです!」
やはり、脱衣所にあったらしい。
しかも、姉さんに発見されている。
ぼくが探した時になかったのは、姉さんが浴室に持ち込んだからだろう。
異様に風呂の時間が長かったのは、これが原因か。
「ちなみに、その本はどこに?」
「凪ちゃんが想いを伝えてくれた記念に、鞄の中に保存しておいた。時々、匂いを嗅いで今日のことを思い出したい」
「止めてくれ」
おそらく、その本には桐島先輩の匂いしかついていない。
それはそれでいい匂いがしそうだけど――。
おっと、おかしなことを考えてしまった。
「とにかく、止めてくれ」
「分かった。それじゃあ、交換条件」
「何?」
「明日、漫画のモデルをやって」
さて――。
今更ながら、姉さんの『秘密』について開示しよう。
ぼくの姉――佐藤綾香は、漫画家である。
現在は、ウェブ媒体でラブコメを連載している。
それだけなら、何の問題もない。
勝手にやってくれていればいい。
ぼくが巻き込まれることもなかっただろう。
問題は、その内容だった。
姉さんが描いているのは、義理の姉と弟のラブコメだ。
もう一度言おう――義理の姉と弟のラブコメだ。
タイトルは『義姉の距離感がバグりすぎている件』。
既にお察しいただけたことだろう。
ぼくたちの関係に近しいものがある。
まぁ、ぼくたちに『ラブ』があるかどうかは別として。
それで、ネタだしのためにぼくのところにやってくる。
それと、自宅で集中できない時に、ここで作業をすることもある。
モデルに関しては、これまでも打診されたことがあった。
だけど、これまでは断固として断ってきた。
繰り返しになるが、姉さんが描いているのはラブコメだ。
しかも、相当過激なシーンが存在するお色気ラブコメだ。
そのモデルをするということは――。
「『濡れた眼差し』」
「分かりました」
ぼくはそう答えた。
答えざるを得なかった。
即答は出来なくとも、断るという選択肢はなかった。
「それと、今日はこのまま眠らせて」
「分かった」
姉さんに後ろから抱きしめられた。
その柔らかな感触に、なかなか寝付けなかった。
×××
翌日――。
ぼくが目を覚ますと、姉さんはまだ眠っていた。
寄っていた時とは別人のように静かだ。
人畜無害というか、無垢な表情。
いつもこうならいいのだけど。本当に。
ぼくは、そっとベッドから抜け出した。
そして、朝食の準備を始める。
今日は、姉さんは『仕事』をすることになっている。
仕事をしている時の姉さんは、いつも真剣だ。
その時の姉さんは、尊敬できる。
だから、朝食くらいは御馳走してあげよう。
そう考えたのだ。
三十分ほどすると、姉さんがふらりとリビングに現れた。
眠そうに半目をしていたが、テーブルを見てその目が見開いた。
「……え、作ってくれたの?」
「ああ」
ぼくが答えると、姉さんは朗らかな笑みを浮かべた。
昨日の酔っ払い状態の時とは、まるで別人だ。
「ありがとう、凪ちゃん」
そう言って、姉さんはぼくの頭を撫でる。
子ども扱いされているようで、少しむず痒い。
でも――悪い気はしなかった。
「それじゃ、食べようか」
「うん」
×××
朝食を終えると、姉さんは作業の準備を始めた。
リュックの中からパソコンと液晶タブレットを取り出す。
それを昇降機能付きのデスクの上に設置して、椅子に座る。
これが、姉さんの漫画家としての仕事スタイルだ。
「それじゃあ、始めるね」
そう言って、姉さんはペンを走らせた。
画面上では、次々と絵が描かれていく。
それは、魔法のように不思議で美しい光景で――。
ようやく、ぼくの尊敬する姉さんの姿を見ることが出来た。
そう思えたのだが――。
「ふひひひひ。今回は、エロ本を義理の姉が見つけてひと騒動おこす話にするよ」
止めたい! だけど、それをするわけにはいかない。
昨日の一件は、完全にこちらの過失だ。
姉さんを勘違いさせてしまった。
まぁ、それはそれとして――。
姉さんは、ぼくがモデルを了承したことを覚えていないのだろうか。
仕事を始めても、モデルをしろとは言ってこなかった。
あの時は酒も入っていたことだし、寝たら忘れたのかもしれない。
そうだったら、いいのだが――。
そうならないのが、現実だった。
「それじゃあ、昨日の約束通り――モデルをしてもらうよ」
作業を始めてから一時間が経過した頃。
姉さんはおもむろにそう言った。
「……覚えていたか」
「当然。こんな楽しいイベントを、忘れるはずがない。それじゃあ、押し倒して強引に迫るシーンから。フローリングの上であおむけになって」
「フローリングの上じゃないと駄目なのか?」
「駄目」
仕方がない。
ぼくは言われた通りにした。
その上に、姉さんが覆いかぶさるような姿勢になる。
「何やってるの!?」
「参考資料にするために、状況を再現している。姉と弟のギリギリの関係を描くためには、実際に体験することが必要」
こうなったら、何を言っても無駄だろう。
ぼくは大人しく身を任せることにした。
こうして――。
冒頭のシーンへとつながる。
×××
際どい姿勢のぼくたちを、宇佐美さんが撮影している。
ちなみに、宇佐美さんは出版社に勤める編集者だ。
姉さんの担当をしている。
「さぁ、もっと迫って! 服をはだけさせて、肌を露出させて!」
「編集者さんの指示だから、仕方がない」
姉さんはぼくのシャツを引っ張り上げた。
カシャカシャ、とカメラのシャッター音が響く。
「ほら、もっと切なげに! 抵抗しているけど、内心では抵抗したくない! そんなどっちつかずの表情をくださいな! はい、いいねー。最高だよ!」
宇佐美さんは、編集者以外に向いている仕事がある気がする。
なんやかんやでも、ぼくも乗せられてしまっている。
姉さんと宇佐美さんが満足するまで、これは終わらない。
この窮地を抜け出すことは不可能。
止めたいと思っても止められないので――。
そのうち、ぼくは考えるのを止めていた。
×××
結局、姉さんの気が済むまで、撮影会は続いた。
その間、ぼくは思考を完全にオフにしていた。
何だか、言われるがままにポーズをとってしまった気がする。
まぁ、写真は資料として使うだけだ。
公開されるわけではないから『移り』を気にしても仕方がない。
――一刻も早く、忘れることにしよう。
そう思っていたのだが――。
「この写真、家の壁という壁に貼り付けようと思う」
「いいですね!」
姉さんと宇佐美さんは、二人で盛り上がっていた。
ぼくは呆れるとともに、あることを思い出した。
モデルをやるという約束はした。
だが、写真を撮らせるという約束はしていない。
後で、隙を見て全部消去してやることにしよう。




