佐藤綾香の秘密⑦:偏愛義姉、グルメを楽しむ
朝比奈家を後にしたぼくは、まだ開いているスーパーに立ち寄った。
時刻は午後八時――丁度、色々なものが割引になっている時間帯だ。
ぼくは適当な総菜をいくつかカゴに入れ、購入した。
家に帰ると、買ってきた総菜をテーブルの上に置いた。
脱衣所へ行くと、浴室の電気はまだついていた。
浴室内にいるようだが、水音はしない。
「姉さん、今帰ったよ」
心配になったぼくは、声をかけた。
すると「あ、うん」という返事が返ってきた。
風呂の中で眠ってしまっているわけではないらしい。
元々、姉さんは長風呂だ。
一時間以上も風呂に入ることだってある。
まだしばらく出てこないだろう。
「あまり長く入り過ぎるなよ」
「は~い」
さて、それでは後始末――もとい、工作活動だ。
ぼくは『秘密の部屋』の鍵を開け、中に入った。
――いない。
桐島先輩の姿は消えていた。
窓の鍵が開いたままになっている。
指示通り、そこから出て言ってくれたのだろう。
とりあえずは、一安心だ。
ぼくは窓の鍵を閉め、部屋を出て再び施錠した。
任務完了。
任務――完了?
いや、まだ終わっていない。
先輩が置いていった『義姉の濡れた眼差し』を回収しなければ。
あれ、でも、さっきは見当たらなかった気がするぞ。
ぼくはもう一度脱衣所に行き、見回した。
先輩が本を置き忘れてしまったと伝えてきたが、どこにもない。
やはり、先輩の気のせいだったのだろう。
例の本は、秘密の部屋のどこかにあるに違いない。
そう考えた。
それ以上考えるのを止めていた。
×××
ぼくが帰ってから一時間が経過した。
姉さんは、まだ風呂に入っていた。
長風呂にしても、程がある。
何度か「大丈夫か?」と聞いたが「大丈夫だ、問題ない」と返された。
まだまだ余裕はあるようだ。
しばらくして――。
ようやく、姉さんが風呂から出てきた。
ぼくはそちらに視線をやると「またか」と嘆息した。
姉さんは、裸にバスタオルを巻いただけの姿で出てきた。
何度注意しても、これは変わらない。
ぼくはもう、諦めていた。
桐島先輩も澪もいないのだから、好きにさせてあげよう。
「いいお湯でした~」
化粧が落ちたせいか、雰囲気が一段と柔らかくなっている。
姉さんは、テーブルの上の総菜を見ると、目を輝かせた。
「おお、美味しそ〜。ありがと〜」
そう言って、ごく自然な動作で冷蔵庫を開けた。
そこから鼻歌交じりに缶ビールを三本取り出した。
「ちょっと待て!」
「何?」
「どうしてビールが冷蔵庫にあるんだよ?」
「持ってきたからだけど?」
当然のように言う。
「リュックの荷物、作業のための道具が入っているんじゃないのか?」
「入ってるよ? ビールも一緒に持ってきたの。それで、凪が出かけている間に、一度お風呂から出て、持ってきたビールを冷蔵庫に入れておいたんだ。あと、お風呂に入りながら少し飲んだ」
成程、ろくでもないことをしやがる。
「それじゃあ『作業』はどうするんだ?」
「明日の朝から始めるよ」
「今日からやれよ!?」
姉さんはへらっと笑った。
「へたっぴ。気分転換のやり方がへたっぴだね、凪は」
「何を言っているんだ」
「私は今、とても疲れている。こんな状態じゃ、いいものなんて作れないの。インポッシブル」
「で?」
「つまり、今夜は作業できない。だったら、この時間を有意義にするべき。私にできることは、欲望の発散に全力で取り組むこと」
姉さんはビールを開け、ぐびぐびと飲み始めた。
「ぷはーっ。このために生きてるねぇ!」
「大人が生きるって、そんなにつまらないのか?」
「つまらないから、面白くするために頑張るんだよ」
酒カス――もとい、姉さんは腕を組みながら言った。
今回は、少しだけいいことを言ったような気がする。
酔っ払いの言葉という時点で、聞く価値はないけれど。
「いいかい、少年。お酒を飲むときっていうのはね、救われなきゃいけないんだよ。酔っぱらって、いい気分になって、動くのも面倒になって――。そのまま眠っても許される場所じゃなきゃダメなの。眠ったらベッドまで連れてってくれて、布団をかけてくれる人がいる。そういう人に、私はなりたい」
「ダメ人間だな」
「えへへ~」
ダメ人間は、にへりと笑みを浮かべた。
そして、箸を手に取って総菜をつまみ始めた。
「風呂上がりの身体に、濃い味の総菜がしみこむ。百点だよ! いや、百点を超えたね」
「それはどうも」
「なにより嬉しいのが、この半額シールだ」
「半額シールが!?」
「美味しい料理っていうのはね、気兼ねなく食べられなきゃダメなの。高級品は美味しいけど、『もったいない』って気持ちが邪魔する。素直に味わえない。だから、半額シールは世界最強の調味料なんだよ」
「酒も高いからやめた方がいいんじゃないか?」
「これは大人のガソリンよ! ないと動けなくなるの!」
そんなわけあるか!
でも――。
大人って、こんなふうに自分を保っているのかもしれない。
ガソリンでないにしても、オイルくらいにはなっているのかもしれない。
姉さんは、しみじみとした口調で語り始める。
「大人になると、気分の切替って大変でねぇ。自力で出来なくても、それは恥じゃない。誰かの力を借りて、成し遂げればいいんだよ」
一瞬だけ、いいことを言ったような気がした。
「でも、人の手を煩わすのは申し訳ない。だから、酒の力を借りた。ただそれだけのことなんだよ」
気のせいだった。
これもまた、酔っ払いの戯言だ。
普段はしっかりした人なのに。
ぼくは今、アルコールの恐ろしさをまざまざと見せつけられた。
こうなったら、少しでも早く眠ってもらおう。
酒とカロリーが入れば、すぐに眠くなるはずだ。
「大変だったな。それじゃあ、たくさん食べてくれ」
「うん、ありがとう。酒池肉林とはまさにこのことだね」
「そこまでじゃない」
「それな~」
姉さんは、総菜を次々と食べていった。
こんな時間に食べても、太る心配は一切していないようだ。
脂肪分は胸と尻にでも集まっていくのだろうか。
あるいは、隠れて運動を――それはないな。
結局、姉さんは買ってきた総菜を全て平らげた。
残ったら明日の嘲笑にしようと思っていたのに。
まぁ、いいけど。
少しすると、姉さんはうとうとし始めた。
計画通り!
「眠い~」
「だったら、もう寝た方がいい。明日も早いんだから」
「遊びたい~」
「子供か!」
「大人だから~」
そう言いながら、姉さんはソファーで横になった。
このソファーは、姉さん専用のベッドでもある。
ぼくは姉さんに毛布を掛けて、部屋の電気を消した。
「ねぇ、凪」
「まだ起きていたか」
「大好きだよ~」
「それはどうも」
「おやすみ~」
こうして、姉さんは眠りについた。
ようやく、我が家に静寂が訪れた。
――かのように思われた。




