佐藤綾香の秘密⑥:陸上少女、発見する
姉さんは大人しく浴室に入った。
これで、リビングから玄関までが無人となる。
――この隙に、澪を脱出させてしまおう。
ぼくは自室のドアを開けた。
すると、ドアの前にいた澪が身体をビクリと震わせた。
澪はこちらを見て狼狽えながら、身体の後ろに何かを隠した。
「何を隠したんだ?」
「べ、別に何でもないわ」
「……怪しい」
「怪しくないわ!」
必死の弁明だった。
だが、明らかに何かを隠している。
手に持っていただけで、マイナスになってしまう物。
部屋の中にある物の中で、該当するものといえば下着くらいしか思いつかない。
まさか、ぼくの下着を漁って、鑑賞しているわけではないだろう。
先輩の小説じゃないんだから。
――なにかが、引っかかった。
なにか、致命的なミスをした――そんな気がした。
だけど、その正体が分からない。
そう思っていると、澪が言葉をつづけた。
「お互いのために、この件については見なかったことにしましょう。私の後ろを調べると、友情を失うことになるわよ」
「どこの吸血鬼だよ」
ぼくは遠慮なく、澪が後ろ手に隠したものを取り上げようとした。
早い所、家から出て行ってもらわなければならないのだ。
多少強引な手を取らせてもらうことにした。
こうしてもみ合っているうちに、ぼくたちはベッドに倒れ込んだ。
身体が重なり合う。
唇が近づいている。
澪は目をつぶった。
これは、キスをしてほしいという合図ではなかろうか。
どう対応するか悩んでいたのだが――。
――んん!?
視界に、とんでもないものが入った。
それは、一冊の本だった。
『幼馴染との××な関係』
表紙には、半裸の女性のイラストが描かれている。
しまったあああああ!
先輩にお勧めされてから、寝る前に読んでいたのを忘れていた!
最悪だ! よりによって、澪に見られた!
やっべー。これ、完全に誤解されてるよな?
幼馴染に対する只ならぬ想いを感じ取っているよな?
というか、誤解した上で澪はなんで目をつぶっているんだよ!?
その唇に、妙な色気を感じてしまう。
「あー、澪」
澪はゆっくりと目を開けた。
「その本につきましては、ぼくの趣味じゃないというか」
「……つまり?」
「誤解があるようでして」
「つまり、凪は『幼馴染との××な関係』という本を読むことで、私とのあれこれを想像していたわけではないって事ね?」
「はい」
「私は関係ないということね?」
「おっしゃるとおりでございます」
澪はぼくの身体をどかし、起き上がる。
そして、桐島先輩イチオシの文庫本をパラパラとめくった。
時折、ぼくの顔をちらりと見ている。
「へー、そうなんだ」
「何がでございましょう」
「凪って、こういう小説が好きなんだね」
好き――というわけではない。
ただ、事情を話すわけにはいかない。
ぼくは「まぁ、そうかな?」と曖昧に返した。
すると、澪はニヨニヨと嫌らしい笑みをこちらに向けた。
人は他人の弱みを握ると、かくも卑しい顔になるのか。
「とりあえず、ここで見聞きしたことは内密にしてくれ」
「ええ、勿論よ」
「それは助かる」
「ところで、私からもお願いがあるのだけど」
「言ってみてくれ」
「プレイリストの充実に全面協力してくれない?」
プレイリストの充実。
ということは、先日の様な録音作業をお望みなのだろう。
あの時のことは、思い出すたびに顔から火が出そうになる。
作りに作ったぼくの声が、澪のスマホには入っているのだ。
その量が倍増するとなると、さすがに考えずには――。
「ところで、××な関係って、どういうことなの?」
「謹んでお受けいたします」
「よろしい」
こうして、地獄の収録第二弾の開催が決定された。
ちなみに、開催日には更なる厄介ごとが追加されることになるのだが。
それはまた、後の話である。
×××
話がついたので、澪の脱出にとりかかった。
足音を立てずに、ぼくたちは玄関へ行った。
そして靴を履き、ドアを開ける。
「姉さん、ちょっと、買い物に行ってくる」
「分かった。早く帰って来てね~」
ドアの開閉穏は、風呂場まで響くだろう。
それなのに、ぼくが家の中に残っていたら不自然だ。
だから、ぼくも一緒に出ていき、それを誤魔化すことにした。
ぼくと澪は、玄関から外に出た。
外はすっかり暗くなっていたが、まだ温かい。
散歩をするにはいい気候だ。
「ねぇ、凪。買い物、一緒に行っていい?」
「ああ、うん」
澪も一緒にスーパーに行くことになった。
その道中を、一緒に歩く。
その間、ぼくはスマホを取り出した。
そして、桐島先輩にメッセージを送った。
『玄関の鍵は開けないように。窓から脱出して、自分の部屋へ』
メッセージには、すぐに既読がついた。
先輩からは『了解です!』という返事があった。
これでミッションコンプリート――だと思ったのだが。
先輩からは追加でメッセージが届いた。
『申し訳ありません。
本の片づけがまだ途中になっていました。
脱衣所に一冊残っています』
脱衣所に残っている?
脱衣所に残っている!?
何してくれてんだよ!?
おそらく――いや、確実に姉さんの目に留まっただろう。
だが、諦めるのはまだ早い。
家には、全年齢向けの健全な本も大量にあるのだ。
むしろ、そちらのほうがメインだ。
脱衣所に置いてあるのが、そちらであれば――。
『タイトルは『義姉の濡れた眼差し』です』
「ピンポイントオオオオ!?」
思わず叫んでしまった。
隣にいた澪が、驚いたようにこちらを見ている。
まるで不審者を見るような目――いや、今のぼくは不審者そのものだ。
「ど、どうしたの?」
「何でもない――と思いたい」
帰ったら、大変なことになるかもしれない。
この件については、これ以上考えないようにしよう。
ぼくはスマホをポケットにしまった。
「終わった?」
「ああ、うん」
僕が答えると、澪が手をつないできた。
小さくて可愛らしい手の感触が伝わって来る。
それに胸が高まってしまう。
「人に見られたら、面倒なことになるぞ」
「気にしない、気にしない」
「気にしろよ」
そのせいで、面倒な状況になっているのだ。
偽の恋人、今からでも断れないだろうか。
「それにしても、今日は驚くことばかりだわ」
「……なにが?」
「凪があんな趣味をしていたとは」
「それについては、追及を止めてください」
「どうしようかな~」
澪は楽しげに言った。
一方的に弱みを握ったことが、それほど嬉しいのだろうか。
「まぁ、あの件については、プレイリストで話がついたからこれ以上の追及は止めておくわ」
「そうしてくれ」
「それと、綾香さんが家ではあんな感じだったのも驚きだったわ」
澪の知っている姉さんは『社会人モード』の姿だ。
今のような酔っ払い状態を見せたのは初めてだった。
もっとも、本人も見せたくて見せたわけではないが。
「その件についても、見なかったことに」
「ええ、大丈夫よ。でも、一つだけ教えて」
澪はぼくの目を見る。
何だか、嫌な予感がする――。
「綾香さんと、お風呂で何をしたの?」
「……何もしてないよ」
「怪しいわね。もしかして、怪しい関係になっているんじゃ――」
「ありえないから!」
「『××』とかしてない?」
「してない!」
「っていうか『××』って何なの?」
「それを説明させようって言うのか!?」
どんな拷問だよ。
幼馴染に対して、卑猥な内容を説明しなければならないとか。
それに興奮できるような嗜好は持っていないぞ!
×××
そうこうしているうちに、澪の家に到着した。
以前は、ここで手をつないでいる姿を澪の母親に見られてしまった。
今日はいないようだ――いないよな?
「それじゃあ、また学校で」
それがそう言うと、澪は無言でぼくを見つめた。
そして、タックルするような勢いでぼくに抱き着いてきた。
「……これ、何?」
「なんとなく。何も聞かないで」
ぼくは黙っていた。
少しすると、澪は離れた。
かすかに残った体温が、少しだけ名残惜しい。
「えっと……」
「それじゃ、忘れて」
「何だそれ!?」
「つい、勢いでやっちゃったのよ。恥ずかしいから、即座に忘れて」
「分かった。忘れた」
「失礼ね!?」
どうしろというのだ。
忘れても忘れなくても怒られる。
避けたら、もっと怒られていただろう。
「それじゃあ。また、明日」
「明日は日曜日だけど」
「また、明後日!」
こうして、別れた。
あのハグはなんだったのだろうか。
好意のようにも思える。
だが、下手に期待をするのはよくない。
合理的推察をするための材料がない以上、これ以上の推理は意味を持たない。
なるべく考えないようにしよう。
そう思っていたら――。
「……あ」
朝比奈家の玄関。
そのドアが、僅かに空いていた。
その隙間から、こちらを除く視線が突き刺さる。
そこには、澪の母親がいて――。
「あら、いらっしゃい」
満面の笑みをしながら、抑揚のない声で言われた。
こええ~! ホラー映画みたいな雰囲気だ!
これ、いつから見られていたんだろ。
その後、ぼくは朝比奈家への訪問を打診されたが、断固として断った。
一度家に入ったら、引き返せなくなる。
そう思えて仕方がなかった。




